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天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)  作者: 東曌


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0-1 オリエンタルの雲 外伝 〜【秘密の対訳単語帳】

伊藤鶴吉がこれほど凄まじい功績を残し、当時の主要新聞で「日本一の通訳(通弁の元勲)」と最大級の賛辞を贈られたにもかかわらず、なぜ現代の歴史や教科書でほとんど知られていないのか。


そこには、明治という時代が抱えていた「国家の都合」と、彼自身の「文字を持たないプロ意識」が絡み合った、極めて冷徹な3つの理由があります。


伊藤鶴吉が歴史に埋もれた3つの理由


明治政府にとって「不都合なエリート」だったから

明治政府は、東大(開成学校)などの官立学校を出て、横文字の読み書きができるエリート官僚たちを「近代日本の象徴」としてアピールしたかったのです。


居留地や公使館のドブ板で、耳から生の外国語を毟り取って叩き上げた鶴吉のような「市井の野生の天才」が、エリートたちを語学で圧倒していたという事実は、お上の作った「綺麗な近代化の年表」にとって都合が悪く、意図的に主役から外されてしまったのです。


彼自身が「文字(著作)を残さなかった」から

これこそが最大の理由です。のちに名を残す新渡戸稲造や岡倉天心、福沢諭吉らは、自らの思想や功績を「本(文字)」として大量に残しました。


しかし、鶴吉は本編のラストで描いた通り「アルファベットの読み書きをせず、耳と口という生の肉体だけで交渉した男」でした。彼が残したのは、その場を支配した完璧な交渉という「結果」だけであり、自叙伝や思想書を一切書かなかったため、本人の肉声が歴史の表面に文字として残らなかったのです。


『日本奥地紀行』の主役は、どこまでいっても「イザベラ・バード」だから


彼の活躍が最も克明に記録されているのはイザベラの『日本奥地紀行』ですが、世界的なベストセラーとなったこの本の主役は、あくまで英国婦人イザベラ・バードです。


欧米の読者や後世の人間にとって、彼は「優秀で少し生意気なガイド(お供のイトー)」という、主役を引き立てる脇役として消費されてしまい。

彼のインタープリターとしての真の恐ろしさや知性の深みまでは、歴史の教科書にすくい上げられなかったのです 。

伊藤鶴吉がこれほど凄まじい功績を残し、当時の主要新聞で「日本一の通訳(通弁の元勲)」と最大級の賛辞を贈られたにもかかわらず、なぜか現代の歴史や教科書でほとんど知られていません。

外伝

第1話:三つの言語


 横浜。


 今でこそ異国の馬車が走り、ガス灯が灯る文明開化の化け物のような街だが、ほんの二十年前までは、文字通り海に向かって「長い浜」がただ寂しく横たわるだけの、名もない貧しい半農半漁の村に過ぎなかった。


 お上の都合でその『長い浜(ヨコハマ)』がestate(敷地)として切り開かれ、異人どもの居留地が作られたその日から、この街は東洋と西洋の欲がどろどろに渦巻く、奇妙な異界へと変貌を遂げたのだ。


 明治初期、その居留地のドブ板を踏み鳴らして歩く、一人の少年がいた。


 伊藤鶴吉、十五歳。

 まだ仕立ての良いツイードのジャケットも、鏡のように磨き上げられた黒革ブーツも持たない、ただの居留地の小僧さんだった。


「へっ。紙の上で死んでる横文字なんか、いくら眺めてたって飯は食えねえよ」

 鶴吉は、アルファベットの綴り(スペル)は書けなかった。しかし、だからといって、ただ漫然と耳だけで言葉を流していたわけでは決してない。

 彼の教科書は、その『長い浜』に次々と押し寄せる異国の蒸気船であり、弁天通や元町の酒場から吐き出される、アメリカの荒くれ船乗りやフランスの兵隊、そして居留地の実務を裏で牛耳る清国(中国)の「買弁(ばいべん)」たちのナマの言葉だった。

 鶴吉は居留地の片隅にうずくまり、異国人の口元を凝視しながら、サッと懐から薄汚い手帳と矢立を取り出すのだった。


 文字の形は知らぬ。だが、彼は「耳で聴こえた生の音」を、そのまま日本の文字(カタカナや漢字)で紙に書き殴り、己の頭と懐の中に【秘密の対訳単語帳】を自作していった。


 西洋人が叫ぶ英語の『デンジヤア(危険)』の横には、フランス野郎が吐き捨てる『シヤアポオ(帽子)』の音を刻む。


 そして、それだけではない。西洋の貿易商のすぐ横でソロバンを叩き、実質的にビジネスを支配している中国人たちが、身内同士でボソボソと交わす広東語の密談さえも、鶴吉の驚異的な「耳」は逃さなかった。日本人を安値で叩くための裏相場は、いつも彼らの中国語の中に隠されていたからだ。


『タイカン(大寒) = 騙す、足元を見る』

『チョウタウ(猪頭) = 西洋人のアホ面』


 耳で拾った音と、相手の表情やその場の空気から剥き出しで掴み取った「意味」を、カタカナと漢字で紙に蓄積していく。これこそが、少年が過酷な居留地を生き抜くために自ら編み出した、野生の知性の執念であった。


 ある日の夕暮れ。居留地二十番地に近い安酒場の片隅でのことだ。


 東京の開成学校を出たばかりという、お仕着せの袴を着た気取った政府の書生が、アメリカ人の貿易商と、その横に控える清国の買弁を前にして、一枚の英語の契約書を誇らしげに読み上げていた。

「我が国の英語教育は完璧だ。この聖書に書かれたアルファベットの文字も、私はすべて読み書きできる」

 書生は胸を張る。だが、対面のアメリカ人が冷笑し、横の中国人の買弁が、役人に向けて早口の中国語(広東語)で短く何かを囁いた瞬間、書生のソロバンを叩く手がぴたりと止まった。

「This text is fine. Let's close the deal.(この文面でいい。契約を結ぼう)」

 アメリカ人は英語でそう言って優雅に笑う。書生は「おお、交渉成立か」と安堵の笑みを浮かべた。言葉の表面(文字)しか読めない書生には、その直前に中国人の買弁が発した言葉の「意味」が、全く聴き取れていない。

「おい、そこのお上品なエリート先生」

 鶴吉は安椅子の背もたれに寄りかかり、冷ややかに声をかけた。

「紙の上の文字なんかいくら読めたって、相手の吐いた別の言葉をその耳で毟り取ってねえから、そうやってカモにされるんだ」


「な……なんだと、通訳の文字も書けぬ小僧が何を……!」

「いいから黙ってろ」


 鶴吉はすっと立ち上がると、卓の中国人の買弁を冷徹な目でにらみ据え、彼らが最も恐れる「裏の相場」を、彼らの言葉(中国語の響き)を交えて突き放すように言い放った。


「おい、そこの買弁の旦那。アメリカ人の『アホ面(猪頭)』の後ろで、身内同士で『今回は綺麗に騙せた(タイカン)』なんて中国の言葉で囁き合ってりゃ世話ねえな。英語の契約書の上ではもっともらしい数字を並べてるが、上海の本当の絹の裏相場は、その半分だってことを、俺のこの手帳(耳)はちゃんと聴き取ってんだよ」


 中国人の買弁は、ガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、顔を真っ青にさせた。


 アメリカ人もまた、「なぜこの小僧が我々の密談を理解しているんだ!?」と目を剥いた。

 鶴吉は、彼らが英語の裏で、フランス語や中国語を交えて日本人の足元を見ようとする、その「欲の羽音」を完璧にインテリプリート(解釈)していたのだ。


 鶴吉はそのまま、怯えるエリート書生を尻目に、相手の退路を断つ価格交渉を、わずか数分で日本側に圧倒的有利な条件でまとめ上げてみせた。

「言葉ってのはな、紙の上で腐らせるためのもんじゃない。目の前の人間をねじ伏せるための『銃弾』だ。横文字なんか書けなくたって、この耳と、このカタカナのメモがあれば、どんな世界の壁だってぶち壊せる。それが、俺のやり方さ」

 呆然とする人々を置き去りにし、十五歳の鶴吉は『長い浜』から吹きつける夜の海風に向かって、不敵に笑った。


 英語、フランス語、そして中国語。


三つの言語の裏にある人間の欲を支配する凄まじい小僧の噂は、居留地を駆け巡り、やがて横浜の『アメリカ公使館』の重い扉へと繋がっていく。


 文字を持たぬ天才インタープリター・伊藤鶴吉の、本物の修羅場が始まろうとしていた。


 

伊藤鶴吉とフランス語


フランス財閥のトップガイドを務めた一次資料


イザベラ・バードとの旅の4年後(1882年)、鶴吉は日本を訪れたフランスのシャンパン財閥の御曹司ウーグ・クラフト(ユーグ・クラフト)の一行に、お抱えの通訳ガイドとして随行しています。


クラフトが残した旅行記『ボンジュール・ジャポン』には、「有能な通訳イトー」の名と彼の写真がはっきりと残されています。


フランスの超一流の富豪が、長期間の日本旅行の相棒として全幅の信頼を置いたということは、鶴吉が彼らの母国語であるフランス語のニュアンスや本音を、耳で完璧に聴き取っていた動かぬ証拠です。


当時の横浜における「フランス語」の世相

幕末、横浜の居留地にはイギリス軍だけでなく、大規模な「フランス軍」が駐屯していました。そのため、当時の横浜のドブ板通りや酒場には、英語と同じくらいフランス語のナマの言葉が飛び交っていました。

「パンを買う」「シャッポを被る」という、居留地の日常のやり取りを耳から毟り取って手帳(カタカナ)に蓄積していった鶴吉にとって、英語とフランス語の境界線など地続きのものでした。

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