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天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)  作者: 東曌


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10. 天才インタープリター・伊藤鶴吉

ご子孫の元にも残っていなかった「伊藤鶴吉、幻の日記」


大変興味深いことに、イザベラ・バードが原著で「イトーは毎日、日本語と英語で熱心に自分用の日記をつけていた」と書き残した例のノート(日記)は、現在ご子孫の元に遺されていません。


関東大震災(1923年)や第二次世界大戦の横浜大空襲といった、横浜を襲った巨大な戦火の混乱の中で失われてしまったのではないかと考えられています。だからこそ、あの「カタカナで埋め尽くされた手帳」は歴史の空白であり、大衆小説としての極上の想像の余地(フィクション)となっているわけです。

最終話:天才インタープリター・伊藤鶴吉-雲の行く先


 明治十一年、九月。


 北の大地、蝦夷地でのすべての調査を終えた俺たちは、再び出発の地である『横浜グランドホテル』のテラスへと戻ってきていた。


 三ヶ月前と変わらぬ、海を一望できる美しいテラス。だが、そこで旅の報告書を整理しているイザベラ・バードと、俺――伊藤鶴吉の姿は、すっかり様変わりしていた。


 イザベラの特製乗馬ズボンは各所が擦り切れ、俺が全財産をはたいて仕立てた自慢のツイードジャケットも、奥羽の藪と秋田の泥に揉まれて、すっかり旅人の渋い色に染まっている。ただ一つ、命がけで磨き続けてきた黒革ブーツだけが、横浜の秋の太陽を浴びて、不敵に黒光りしていた。


「――さあ、ミスター・イトー。これが今回の旅の、最後の清算よ」

 イザベラは、白手袋を外した細い指で、契約通りの【月給十二ドル】(現在の約二十四万円)に、分厚い金貨の詰まった袋を添えて、テーブルの向こうから俺に差し出してきた。過酷な泥道の中で、己のプライドと尊厳を完璧に護り抜いた俺の「インタープリター」としての価値に対する、彼女からの最大級のボーナス(賞与)だった。 


 だが、俺はふんと鼻で笑うと、金貨の袋には指一本触れず、十二ドルのお札だけを無造作に懐へ仕舞い込んだ。


「金貨は持って帰りなさい、バードさん。俺は自分の仕事の価値を、契約以外の金で値踏みされるのが一番嫌いなんだ。俺は月給十二ドルのプロだ、それ以上も、それ以下も受け取らねえよ」


「相変わらず死ぬほど生意気で、傲慢な男ね。……でも、そんなあなたの頑固さに、私は何度も救われたわ」


 イザベラは苦笑しながら、手元に広げた自身の膨大な手記(のちの世界的大名著『日本奥地紀行』の原稿)を愛おしそうに撫でた。そして、ふと思いついたように、一枚の真っ白な便箋と万年筆を、俺の前に差し出してきた。


「ねえ、ミスター・イトー。旅の終わりに、あなたのその完璧な言葉の記念として、この便箋にあなたのサインを英語で書き残してくれないかしら? ロンドンに戻っても、私が世界で一番信頼したインタープリターの名前を、いつでも思い出せるように」

 差し出された、美しいアルファベットが並ぶイギリス製の便箋。

 それを見つめた瞬間、俺の動きがぴたりと止まった。

 俺はキセルを口にくわえたまま、ふっと視線を外すと、皮肉なニヒルな笑みを浮かべて、自嘲気味に肩をすくめてみせた。


「……あいにくですがね、バードさん。俺は、その万年筆ってやつで、横文字の書類(アルファベット)を書くことはできねえんですよ」


「え……?」


 イザベラは、驚愕のあまり目を丸くした。


「書けない……? 嘘でしょう、ミスター・イトー。あなたは、イギリス公使館の気取った外交官の言葉も、あの気難しき植物学者の学術用語も、すべてを完璧に理解し、私の鈴を転がすような英語にだって一瞬で完璧に切り返してみせたじゃない。あんなに流暢に話せるのに、文字が書けないの?」


「文字の死んだ英語と一緒にしちゃ困りますよ」


 俺はマッチを擦り、キセルに火をつけた。吐き出した白い煙が、横浜の海風にさらわれて消えていく。


「俺の英語はね、横浜の居留地のドブ板の上で、アメリカ公使館の修羅場で、飢え死にしないために耳からダイレクトに叩き込んだ『生きるための銃弾』だ。あんたたち西欧の人間が、腹の底で何を考え、何を欲しがっているか、俺はその『耳』だけで嫌というほど聴き取ってきた。文字なんか書けなくたって、俺のこの耳とこの口があれば、どんな文化の壁だって解釈(インテリプリート)して、ねじ伏せてみせる。それが、俺のプライドですよ」


 書けないが、誰よりも完璧に聴き取れる――。

 机の上の学問ではなく、激動の明治という時代を剥き出しの命で生き抜くために掴み取った、野生の語学の凄み。


 イザベラはその言葉の重みに圧倒され、やがて、その青い瞳に、これまでにない深い敬意と涙を浮かべて静かに万年筆を引いた。


「……そうね。言葉とは、紙の上の文字ではなく、人と人を繋ぐ魂そのものだわ。あなたは文字を書かなくても、その耳で、その存在のすべてで、消えゆく日本の美しさを私に翻訳してくれた。ミスター・イトー、あなたこそが本物の、唯一無二のインタープリターよ」


「へっ。お転婆なお嬢様の相手は、もう御免被りますよ。……さあ、俺は次の楽な観光案内の仕事に行くとしますかね」


 俺は帽子を深く被り直し、鏡のように磨き上げられた黒革ブーツの踵をパチンと鳴らして、テラスの階段を颯爽と下りていった。一度も振り返ることはしなかった。それが、俺の意地だった。


 階段の上から、イザベラは遠ざかっていく二十歳の天才通訳の、引き締まった頑丈な後ろ姿をいつまでも、いつまでも見つめていた。

 見上げる横浜の空には、形を変えながら、激動の新しい時代へと流れていく、巨大な『オリエンタルの雲』が広がっている。


 この雲がどこへ流れ、時代がどれほど変わり果てようとも、二人が泥道の中に刻んだ「未踏の旅路」の記憶と、文字を持たぬ天才インタープリター・伊藤鶴吉の誇りは、彼女のペンを通して、永遠に世界の歴史へと書き残された。

消えゆく東洋の光と、一人のインタープリター


 『文字を持たぬ天才インタープリター・伊藤鶴吉(イザベラ・バードを「未踏の旅路」へ導いた男)』を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


 本作は、明治十一年(一八七八年)にイギリスの女性旅行家イザベラ・バードが敢行した東北・北海道の過酷な旅路と、それを先導した実在の通訳・伊藤鶴吉の姿を描いた歴史大衆エンターテインメントです。


 現代の私たちは、明治の「文明開化」という言葉をどこか華やかで、無条件に素晴らしいものとして教わります。しかし、当時の地方の現実は、膝まで埋まる泥の街道、カオスな混浴、そして外国人を見世物の珍獣のように覗き込む群衆の猛攻に満ちた、剥き出しの荒野でした。


 その境界線に立ち、月給十二ドルという破格の高給をふっかけて爆走英国レディの手足となったのが、当時わずか二十歳の伊藤鶴吉です。


 彼の何が、明治の世においてそれほど凄まじかったのか。

 それこそが、本作の核となった「英語を聴き取り、文化の壁さえ交渉してねじ伏せる語学力がありながら、アルファベットの文字は書けない」という、圧倒的な野生のプロ意識です。


 当時のエリート書生たちが、机の上で死んだ文字をなぞって西洋の真似事(張り子の文明)に狂奔する中、鶴吉は横浜のドブ板の上とアメリカ公使館の修羅場で、生きるために生の言葉を「耳」から毟り取ってきました。文字という形を持たぬからこそ、彼のインタープリター(解釈交渉人)としての腕は、人間の欲や異文化の心理を誰よりも深く見抜く「銃弾」となり得たのです。


 本作の後半で影を落とした、二人の偉大な先達のファクトもまた、歴史の厳然たる事実です。


松浦武四郎: 役人どもに「北海道」と無機質に変えられる前、アイヌの尊厳を命がけで国名に刻もうと『北加伊道』を提案し、民を虐げる新政府に身分証を投げつけて下野した本物の男。


アーネスト・フェノロサ: 日本人が自国の古い宝をゴミとしてドブに捨てていたまさにその過渡期に、まもなくアメリカから渡海し、日本美術の魂を命がけで救い出すことになる若き天才教授。 


 支配層が民を搾取し尽くした李氏朝鮮の両班(リャンバン)の現実と対比したとき、明治の日本が「貧しくとも、誰もが前を向いて歩き、世界一の治安を誇った奇跡の国」であったことは、イザベラ・バードの冷徹なペンが証明しています。


 急速に西洋化され、煙突の煙の中に消えゆこうとしていた古い日本の美しい原風景。


 それを、文字を持たぬ天才通訳の足跡と共に、フェノロサより一歩先に世界へ書き残した二人の旅路の熱量を、少しでも感じていただけたなら幸いです。


 激動の東洋の空に浮かぶ雲は、今も形を変えながら流れ続けています。


 伊藤鶴吉という、歴史の中に生きた一人の不屈のインタープリターの誇りに、最大の敬意を込めて。


 お読みいただき、本当にありがとうございました

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