9. 北加伊道
松浦武四郎 登場人物紹介
【基本情報】
生没年: 1818年3月12日 〜 1888年2月10日(文化15年〜明治21年)
異名: 「北海道の名付け親」、幕末・明治の伝説的探検家・地理学者。
本作(明治11年)時点でのファクト: ちょうど還暦(60歳)。すでに開拓使の役職を辞し、東京(神田)の邸宅で古美術や一畳敷(わずか一畳の書斎)を愛でながら静かに隠棲している。
【本作に繋がる驚異の歴史的ファクト(時代考証)】
国名案「北加伊道」の真実:
明治2年、新政府から蝦夷地の新しい名前を求められた武四郎は「北加伊道」を含む6つの案を提出した。
この「加伊」とは、彼が命がけの探検の中でアイヌの古老から教わった「この大地に生まれた人間」という意味の言葉。役人によって「海」に変えられてしまったが、武四郎はこの大地の主役であるアイヌの尊厳を、どうしても国名に残したかったのである。
開拓使との決別(男の意地):
新政府の「開拓使判官(高官)」に任命されるも、黒田清隆ら薩長出身の役人たちが、アイヌの土地を武力で奪い、強制移住させ、文化を塗りつぶしていく非道な「同化政策」を進めることに激怒。武四郎は「こんな不義理な政府の片棒は担げぬ」と、職を投げ打ち、従五位という高い位の位記(身分証)まで役所に投げつけて辞職した。
イザベラ・バードとの目に見えない連鎖:
イザベラが第9話で訪れた日高の「平取」や「義経神社」は、武四郎が安政5年に綿密に調査し、幕府の横暴からアイヌの聖地を護るために修復に関わった、まさに彼の足跡そのものである。
第9話:北加伊道
津軽海峡の白波を越え、俺たちが北の大地――蝦夷地へと足を踏み入れた時、本州の泥道とは全く異なる、骨まで凍みるような冷たい霧が這い寄ってきた。
見上げる天空を覆うのは、やはり『オリエンタルの雲』だ。だが、この地の雲は、急速に変貌していく東京や横浜のそれとは違い、太古からの原生林が吐き出す深い息吹を吸って、より重く、より冷徹に、世界の果てを包み込もうとしていた。
函館から室蘭を経て、日高の平取へと向かう道中、俺たちの目に飛び込んできたのは、新政府の「開拓使」による剥き出しの近代化の爪痕だった。
アイヌの民が何百年も続けてきた鮭の地引網や鹿の狩猟が次々と禁止され、彼らは慣れ親しんだ先祖代々の土地から、役人の都合で不毛な荒野へと強制的に移住させられていた。
「……ミスター・イトー。東京や青森で見た『張り子の文明』が、この北の大地では、古い人々の豊かな暮らしを暴力的に塗りつぶしているわ。これが日本の目指す『開化』だというの?」
馬の背で、イザベラ・バードが痛ましそうに唇を噛み締めた。
西洋の傲慢を嫌う彼女の鋭い知性は、この広大な原野のあちこちで、近代という名の怪物が先住民族の尊厳を食い荒らしている現実に、激しい憤りを覚えているようだった。
やがて、巨木が立ち並ぶ深い森の奥、アイヌの人々が古くから「オキクルミ(英雄神)」と重ね合わせて祀ってきた、平取の『義経神社』の入り口に差し掛かった時だ。
イザベラは馬を止め、吐き出す息を白くさせながら、ぽつりと呟いた。
「お上の役人たちはこの大地を『北海道(North Sea Road)』と呼ぶけれど、冷たくて、血の通っていない管理区域のような名前ね。なぜかしら、この原野の持つ本当の響きとは、どうしても思えないのよ」
「へっ。そいつは今の東京の、漢字しか知らねえ役人どもが、大切な文字を勝手に変えちまったからですよ、バードさん」
俺――伊藤鶴吉は、完璧に仕立てられたジャケットの襟を泥水から守るように立てながら、冷ややかに笑った。
「この大地を隅から隅まで六度も歩き尽くし、命を懸けて政府に名前を提案した『名付け親』の男――松浦武四郎って凄まじい探検家がいたんですがね。その男が最初に付けた名前は、海じゃなくて、【北加伊道】だった」
「カ・イ……? 漢字を変えたということは、その『加伊』には別の意味があるのね?」
「ええ」
俺は馬のたづなを引き、森の奥深くを見つめた。
「アイヌの古老たちが武四郎に教えた言葉ですよ。『加伊』とは、この大地に生まれた人間、つまりアイヌ自身のことだ。武四郎って男は、政府の開拓使どもがアイヌから土地と名前を奪って従わせようとする中、意地でもこの土地に生きる人間のプライドを、国名として残そうとしたんだ。形だけの西洋化に浮かれて自分の宝をドブに捨てる今の東京の馬鹿どもとは、魂の格が違う、本物のインタープリター(異文化の理解者)だったってわけだ」
イザベラは言葉を失い、深く息をのんだ。
言葉の直訳ではない。この「北海道」という名に隠された、先人の不屈の祈りとアイヌの尊厳をインテリプリート(解釈)された彼女は、敬意を込めてその言葉をノートに刻み込んだ。
「カ・イ……。素敵な名前ね。その武四郎という男の魂が、今もこの義経の森に息づいているのね」
「さあ、お喋りはここまでだ。彼らの『チセ(家屋)』が見えてきた。失礼のないようにしなさい、バードさん」
森を抜けた先、日高川のほとりに広がる平取のコタン(集落)。
外国人女性として初めて立ち入りを許されたイザベラを迎えたのは、自然を敬い、オヒョウの樹皮で編まれた美しい衣服を纏った、驚くほど気高く、礼儀正しいアイヌの人々の素顔だった。
薄暗いチセの中、中央の大きな囲炉裏から上がる煙の向こうで、白髭を蓄えた長老が、静かに右手を上げて俺たちを歓迎した。
イザベラはその光景に激しく心を揺さぶられ、涙すら浮かべていた。
「美しいわ……。ミスター・イトー、これよ、これこそが私が世界を回って探し求めていた、文明の傲慢に汚されていない『真の人間社会』だわ!」
彼女は狂ったようにペンを走らせる。だが、その横で、俺の目はやはりどこまでも冷めていた。
囲炉裏の煙を見つめながら、俺は冷徹に未来を見通していた。武四郎がどれほど祈りを込めようとも、イザベラがどれほどその美しさをノートに書き残そうとも、この美しい『北加伊道』の残影は、東京から湧き上がる『オリエンタルの雲』に呑み込まれ、あと数年もすれば跡形もなく消え去る運命にある。
(だからこそ、だ――)
俺はフンと鼻で笑うと、ジャケットの袖を正し、長老の前で厳かに胡坐をかいた。
「バードさん。感動に胸を詰まらせて、ペンを止めている暇はありませんよ。あんたのその鋭い目で、この消えゆく楽園の美しさのすべてを、一文字も漏らさずそのノートに刻みなさい。形が変わっちまう前に、彼らの魂を世界に翻訳して届ける――それが、月給十二ドルの俺たちの旅の、本当の『ゴール』だ」
イザベラは涙を拭い、力強く首を振った。
「ええ、分かっているわ。ミスター・イトー。……さあ、長老の言葉を訳してちょうだい」
チセの暗闇の中、囲炉裏の火が二人の顔を赤く照らし出す。二十歳の生意気な天才通訳が紡ぐ完璧な英語と、アイヌの長老が語る大自然の言葉が、イザベラのペンを通して、消えゆく世界の記憶として永遠に編み上げられていく。
頭上を流れる東洋の雲の下、二人の「未踏の旅路」は、ついにその最大の核心へと到達した。




