第九章 命拾い? いや、詰んだかも
「#$%&*!!」
耳元で誰かがわめいている。
「……うるさいなぁ」
「生意気な! 俺様に口答えするとは。とっとと起きろ、この下賤な女め!!」
耳元で怒鳴られ、びくっとして目を開けかけた、その瞬間。
ビリッ!
何かが裂ける音がしたかと思うと、目の前がぐるりと回転した。
ドスン!
床に叩きつけられ、体に鈍い痛みが走る。
慌てて目を開けると、目の前には灰色のぼろきれ。
……どうやら、シーツを引っ張られて床に落とされたらしい。
「なにするのよ!!!」
我に返った私は、目の前の少年に怒鳴りつけた。
ったく、実家でだって、こんな目にあったことないのに。
許せん。
顔を上げると、開け放たれたドアから差し込む光を背に、少年が立っていた。
逆光で顔はよく見えない。ただ、深紅の髪と十歳くらいの小さなシルエットが、ぼんやりと浮かび上がっていた。
……もう、お昼くらいかな。
ぼんやり考えていた私は、重大なことを思い出した。
「ふぇっ、朝一番に奥様に挨拶しないといけないんだった!」
間抜けな声を上げ、私は慌てて立ち上がった。
こんな生意気な少年の相手をしている場合じゃない。
とにかく、本館に向かわなきゃ!
慌ててドアに向かって駆け出そうとした、その瞬間。
ビクッ!
足が引っ張られたかと思うと、体が前につんのめった。
「どすんっ!」
「いたーい!」
思いっきり床に転び、額をしたたかに打ちつけた。
何事かと振り返ると、少年が私のスカートの裾を踏みつけていた。
むきゃーーーー! もう許せん!
生意気な少年には、鉄拳制裁だ!
私は少年の首根っこをつかむと、手足をばたつかせるのもお構いなしに部屋の外へ引きずり出した。
「なっ、何をする! 放せ、この無礼者!」
「ふっふっふ。悪い子には、お仕置きよ!」
私は少年をひょいっと抱え上げ、外にあったぼろい椅子に腰かけると、ぽんっと自分の膝の上にうつ伏せにした。
「なっ……! 何をするつもりだ!」
「お尻ぺんぺんの刑!」
ぺちん!
「いったぁああああ! 貴様、俺様に何をする!」
ぺちん、ぺちん!
「悪いことをしたら、ごめんなさいでしょ!」
「誰が謝るか! この下賤な女め!」
ぺちん!
「はい、もう一発!」
「ぎゃあああああ!」
外にに少年の悲鳴が響き渡った。
ふっ。どうだ、参ったか。
……って、あれ?
ところで、この子、誰?
涙ぐむ少年を、あらためてじっくり観察してみた。
深紅の髪は少し癖があり、無造作に額へとかかっている。白い肌に濃い眉、くっきりとした二重。すっと通った鼻筋に、子供らしい丸みを残しながらも整った顔立ちだ。
身につけている服も高そうだ。
しかも、悔しいくらいによく似合っている。
襟元には金色のブローチ。中央には見たこともない紋章が刻まれている。子供が身につけるには、ずいぶんと立派な代物だ。
……うん。間違いなく、お坊ちゃまだ。
私を見下す態度といい、偉そうな口ぶりといい、上級貴族の家の子なのかもしれない。
黙って微笑んでいれば天使。口を開けば悪魔。
……神様、顔面に全振りして、性格の設定サボったでしょ?
そうこうしているうちに、周囲が騒がしくなってきた。
「おい、ぼっちゃまの悲鳴が聞こえたぞ!」
御者をしてくれたカールの声が響く。
直後、バタバタと大勢が駆けてくる足音が近づいてきた。
「ぼっちゃまっ!」
人垣をかき分け、筆頭側仕えのソルトロイドが飛び込んできた。その顔は青ざめ、血相を変えている。
「ぼっちゃま、ご無事ですか!?」
少年の姿を確認した途端、ソルトロイドの表情が一変した。
「貴様……! よくも、ぼっちゃまに!」
私から少年を乱暴に引き離すと、ソルトロイドは杖を突きつけた。
そして、私が口を開く間もなく、呪文を唱え始めた。
あ、私、終わったな……。
転生してからの出来事が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
……まだ一か月くらいしか過ごしてないけど。
まぁ、楽しかった……かな?
いやいや、諦めたくない。まだ死にたくない。
でも、これはもう無理だ。
私はそっと目を閉じ、運命を受け入れた。
「やめよ、ソルトロイド」
攻撃を仕掛けようとしていたソルトロイドを、ぼっちゃまが制した。
……へ? なんで?
「体に魔虫がついていたから、取り除いてもらっただけだ。またまとわりつかれたらたまらん。とっとと帰るぞ」
少年は何事もなかったかのように言い放ち、杖を構えたままのソルトロイドを従えて、屋敷へと歩き出した。
……え、私、助かったの?
安堵しかけた、そのとき。
少年がふいに足を止めた。
ゆっくりと振り返り、私を見つめる。
その目には、先ほどまでの怒りも、涙もなかった。
ただ、獲物の逃げ道を確かめる肉食獣のような、冷たく楽しげな光が宿っていた。
やがて、少年の口元がゆっくりとつり上がる。
「おい、下女」
甘ったるいほど穏やかな声だった。
「今日の虫を払ってくれた礼をしてやる。身なりを整えたら、俺のところへ来い」
少年はそれだけ言うと、くるりと背を向けた。
その足取りは軽く、まるでこれから楽しい遊びが始まるのを待ちきれない子供のようだった。
……あれ?
私、命は助かったんだよね?
なのに、なんだろう。
あの目。
まるで、新しいおもちゃを手に入れた子供みたいな……。
いや、違う。
-あれは、おもちゃが壊れるまで遊ぶつもりの子供の目だ。-




