第十章 正義の味方気取りの坊ちゃま
それから、なんとか身なりを整えて本館へ向かった。
転んで額にできたあざは、前髪を垂らしてどうにかごまかした。
本館で待っていたのは、ぼっちゃまと、この屋敷の奥様。
シュヴァルツェンベルク家当主の第三夫人、ヨナサーラ様だ。
そして、あの生意気な少年は、この家の次男にあたるらしい。
次男といっても、第三夫人の子供は彼ひとり。つまり、この少年は彼女にとって、かけがえのない存在というわけだ。
貴族の女性は、子供を産んでこそ一人前。ましてや男子で、魔力まで高ければ、将来も安泰といえる。
性格はともかく、あの深紅の髪からして、ぼっちゃまの魔力は相当なものに違いない。
……今すぐ、この少年の前から逃げ出したい。
そんな気持ちを必死に押し殺し、私は奥様に向かって、なんとか笑顔を作った。
「サラフィーナと申します。これから精一杯、頑張らせていただきます」
けれど、私の挨拶など、奥様の耳には届いていないようだった。
ヨナサーラ様は、私の顔を不躾にじろじろと眺めると、顎を上げ、ふんっと鼻を鳴らした。
「本当に、つまらない顔をしていること。あなた、不妊でどこの家にも嫁のもらい手がないからと、平民だろうが老人だろうが、男と見れば色目を使って誘惑し、金をせびるそうね。しかも、あなたにいびられて、使用人が何人も辞めたとか。アンネリータから、ゴッフルのオスですら逃げ出すような恐ろしい女だと聞いていたけれど……本当ね」
……は?
なに、その噂。
ゴッフルとは、この世界で最も忌み嫌われている魔獣だ。
腐った魔物の肉を好んで食べるせいか、ひどい悪臭を放つ。口はだらしなく開き、鋭い牙がむき出しになっている。全身を黒い毛に覆われ、特に目の周りは毛がうっそうと茂っているため、視界は悪いらしい。その代わり、嗅覚は恐ろしく鋭い。
さらに最悪なのは、その食性だ。
ゴッフルは、獲物の四肢を傷つけて動けなくすると、生きたまま巣穴へ持ち帰る。そして、すぐには食べず、わざわざ体の一部を腐らせてから食べるのだ。
ゴリラがぶくぶくに太ったような巨体で、見た目は愚鈍そうだが、動きは意外なほど素早い。
森で死臭がしたら、とにかく逃げろ。
それが、この魔獣に遭遇したときの鉄則だった。
……いやいやいや。
そんな魔獣のにすら逃げられる女って、どんな扱いよ!
しかも、ここにきてアンネリータの名前が出てくるとは。
どこまでも私の邪魔をしよって……ぐぬぬ。
アンネリータがヨナサーラ様に私の噂を吹き込んだということは、つまり、現王の母親が率いる派閥の人間にも話が広まっている可能性が高い。
今、王国内で最も力を持つ一大勢力だ。
そこに、こんな根も葉もない噂が出回っているとしたら……。
目の前が、すうっと暗くなった。
最大派閥に嫌われた下級貴族の令嬢なんて、いったい誰が雇ってくれるというのだろう。
耐え切れなくなったら、この屋敷から逃げ出して、別の勤め先を探せばいい。
そんな、かすかな希望を抱いていたのに。
あっさり打ち砕かれてしまった。
「母上、ご安心ください。私、セバスシェルドが、その腐った根性を叩き直してみせます」
ぼっちゃま――セバスシェルドは、私をちらりと見て、にやりと笑った。
自信満々に言い放つその姿は、まるで正義の味方気取りだ。
「まあ、セバスシェルド。正義感が強く、許せない気持ちはわかります。でも、あなたがこのような下賤な女の世話をする必要はありませんよ」
ヨナサーラ様は、心底嫌そうに私を見た。
「いいえ、母上。グラント王国の筆頭領主家の物として、不埒な貴族令嬢に正しい道を示 すのは私の義務です。お任せください」
……おお、言うねえ。
そんなセバスシェルドの姿に、ヨナサーラ様は目に涙を浮かべた。
「まあ、立派になって……。母はうれしいわ」
……。
目の前で、いったい何を見せられているんだろう。
あんたの息子が一番の問題児じゃん。
そう心の中でつぶやくにとどめた。
この母にして、この息子あり。ってことか。
ヨナサーラ様は、黒みがかった赤い髪に、鋭く切れ長の一重の目。すっと通った鼻筋とシャープな輪郭が、近寄りがたいほどの美しさを際立たせていた。
涼やかな青い瞳は冷たく、薄い唇には人を見下すような笑みが浮かんでいる。
容姿は少年と似ても似つかない。
けれど、相手を値踏みするような目つきも、口元に浮かぶ人を小馬鹿にした笑みも、そっくりだった。
……なるほど。性格は、母親譲りらしい。
こうして私は、セバスシェルドの側仕えとして、この屋敷での生活を始めることになった。




