第一二章 ぼっちゃまの意外な一面
初出勤から十日目。
私は超ご機嫌だ。
もちろん、二日目以降も順調に、毎日飽きもせずいびられ続けている。
扉を開けたら、上からゴミが降ってきたり。
台所のドアになぜかロープが張られていて、めずらしくぼっちゃまと同じものが食べられると思っていたスープを、外にぶちまける羽目になったり。
ザ・小学生男子って感じのいびりだ。
日本なら、ギャングエイジとか呼ばれているお年頃。
ほんと、ギャングとは恐れ入る。
しかも、そんな子供に権力を持たせているんだから、この家の生活は某独裁者がいる共和国並みだ。
で、なんで私の機嫌がいいかって?
なんと、ぼっちゃまが明日から一週間ほど、王都にある本宅へ行くのだ。
小柄なせいか、てっきり十歳くらいだと思っていたが、実は来年には十二歳になるらしい。
中央貴族院には十二歳になる年に入学する決まりで、そのための手続きや準備をするのだそうだ。
ひゃっほい!
ぼっちゃまも、奥様も、ソルトロイドさんもいないのよ。
ってことは、仕事はお・や・す・み!
自由!! 万歳!!
以前は王都に行きたいと思っていたけど、あのぼっちゃまと一緒なら、この家で大人しく待っています。
なんと、ぼっちゃまは来年にはこの家を出るんだよ。
ということは、この生活もあと一年ちょっとの辛抱じゃん。
そしたら、私のバラ色ライフが始まるのだ……。
って、私の当初の望みって、なんだっけ???
とにかく、ぼっちゃまから離れられるのが嬉しすぎて、それ以上考えるのはやめた。
そんな、自由まであと一歩という夕方。
念のため、もう一度荷物を確認するようにと、ソルトロイドさんから言いつけられた。
もう、これで三回目なんですけど。
明日からのことを思い浮かべ、ニコニコしながら再び荷物の中身を確認する。
「ふぇ……」
思わず、間抜けな声が出た。
ぼっちゃまのお気に入りの、白い魔獣の毛で作られたふわふわのスリッパに、紫色の汚れがべったりとついていた。
よく見ると、果物の汁のようだ。
そこへ、運悪くぼっちゃまが戻ってきた。
「おい、下女。荷物は完璧だろうな……。私の、スリッパが……。
お、おまえ!!!! わざと汚したな! この性根の腐った女め!」
ぼっちゃまは激高した。
顔を真っ赤にして、全身をぶるぶると震わせる。体からあふれ出した魔力が、周囲の空気をびりびりと震わせた。怒りに染まった瞳が、私をギロリと睨みつける。
それもそのはず。
昨年、尊敬する兄から誕生日プレゼントにもらった、大切なスリッパだったのだ。
普段のぼっちゃまは、物の扱いがとにかく粗い。けれど、このスリッパだけは別だった。汚さないように、傷つけないように、いつも大事に履いていた。
さすがの私も、こればかりは気をつけて扱っていたのに……。
ふと見ると、扉の陰で料理人見習いのコリンナが、ぶるぶると震えていた。
彼女のエプロンは、なぜか表と裏が逆になっていた。
そして、今、前にしている部分には紫色のシミがうっすらと見えた。
――ああ、なるほど。
ぼっちゃまのお気に入りのベリーのクッキーを箱に入れようとして、前かがみになった拍子に、エプロンについた汚れをスリッパにこすりつけちゃったんだろうな。
コリンナは私と関わらないようにしていた。
でも、いつも心配そうな目で私を見つめていたし、何度か話しかけようとしてくれていたのを、私は知っている。
ふぅっと、ひとつため息をつく。
そして、ぼっちゃまに向かって言い放った。
「きっと、これは神様の思し召しですわ。心が汚れているあなたに、この純白のスリッパは似合わないということなのでしょう」
「ふ、ふざけるな! おい、ソルトロイド! さっさとこの女を始末してしまえ!」
ぼっちゃまは叫び、ソルトロイドさんに私を処分するよう命じた。
あー、私の命って、スリッパよりも軽いんだ。
思わず目をつぶった。
次に生まれ変わるなら、金持ちのペットになって、思いっきり甘やかされたいな……。
……あれ?
いつまでたっても、衝撃がこない。
ソルトロイドさん、親切にも痛みを感じないように、あの世へ送ってくれたのかな。
恐る恐る目を開けると、そこには苦虫をかみつぶしたような顔をしたソルトロイドさんがいた。
「ぼっちゃま、申し訳ございません。その下女は旦那様の所有物です。旦那様の許可なしには処分できません」
なんと、この屋敷に私を派遣したのは、屋敷の当主様だったのだ。
「なんだと、ソルトロイド! 俺の命令が聞けないのか!」
怒り心頭のぼっちゃまに向かって、ソルトロイドさんは申し訳なさそうに答えた。
「ぼっちゃま、これは貴方様をお守りするためです。ぼっちゃまと母上様を信用して預けられた下女に何かあれば、旦那様の信頼を裏切ることになります。どうか、ご辛抱ください」
それでも納得がいかなかったのか、ぼっちゃまは私に殴りかかってきた。
「このっ、このっ! お前なんか、お前なんか!」
小さな拳が、何度も私の体に叩きつけられる。
私は身を縮め、必死に耐えた。
顔もお腹も痛い。きっと、体中あざだらけだろう。
でも、仕方ない。
ぼっちゃま、本当に大事にしていたんだもの。
殴り疲れて、少しは気が済んだのか。
ぼっちゃまは、
「お前だけは違うと思ったのに……」
と、ぼそりと謎のセリフをつぶやくと、静かに部屋を出ていった。
ソルトロイドさんは、入口で硬直しているコリンナと私をちらりと見てから、ぼっちゃまの後を追いかけていった。
はぁぁ~。
明日の早朝から、ぼっちゃまがいなくなってくれて助かった。
帰ってきたら、どうなるかわからない。
私はよろよろと部屋を出て、自室へ向かった。
ぼっちゃまが帰ってくるまでに、森でホームレス生活をする準備をしなきゃだね。
あたたたた……。
部屋に戻ると、水で濡らしたタオルで患部を冷やした。
あーあ。
なんで私、コリンナをかばったんだろう。
だって平民だし、仲良くもない。
でもさ、今日のことでひとつだけわかった。
この家でどんだけ嫌われたって、私の命までは奪われない。
だけど、ぼっちゃまが戻ってきたらどうなるかわからない。
この家のご主人様がお優しい方だとしても、息子の大事にしているものを故意に汚したとなれば、容赦はしないだろう。
どちらにせよ、ここから逃げ出さなければ、私の命は風前の灯火だ。
とりあえず今夜はこのまま寝て、明日から逃亡生活について考えよう。
小屋に戻ると、入口の前に人影があった。
ソルトロイドさんだった。
あ、やっぱり処分しにきたんだ……。
逃げ出そうと思ったけれど、彼の身のこなしを考えると、私に勝ち目はなさそうだ。
大人しく近づく。
ソルトロイドさんは、私の体をじろじろと見回した。
「まったく、飛獣と同じように体を洗っていたとは。貴族令嬢として嘆かわしい」
そうつぶやくと、ソルトロイドさんは私に杖を向けた。
「ハイル」
呪文を唱えた途端、ついさっきまで全身を襲っていた痛みが、嘘のように消えていった。
あまりのことに、私は目をぱちくりさせた。
どうして、わざわざ私を治療してくれたんだろう?
不思議そうに見つめる私に、ソルトロイドさんは呆れたようにため息をついた。
「コリンナであれば、ただ処分すればよかったものを。わざわざ私に魔力を使わせるとは。面倒この上ない下女だ」
自分から魔力を使って治癒してくれたわりには、ソルトロイドさんは納得のいかない顔をしていた。
まるで、誰かに頼まれて仕方なくやった、とでもいうように。
そう言い残し、立ち去ろうとする。
私は慌てて、
「ありがとうございます」
と、お礼を伝えた。
「礼はぼっちゃまへ言いなさい」
ソルトロイドさんはそう言い残すと、屋敷に向かって足早に去っていった。
???
ぼっちゃまが、私の治癒をソルトロイドさんに頼んでくれたの?
ってことは、許してもらえたのかな。私も……コリンナさんも。
ソルトロイドさんの治癒魔法、めちゃくちゃ効いた。
体がふわふわして軽くなった。ケガの痛みだけでなく、これまでの疲れまで吹き飛んだみたいだ。
いいな。私も治癒魔法が使いたい。
「ハイル」
試しに自分に向かって唱えてみたけど……魔力がまったく動かない。
私には適性がないのか、それとも魔力が足りないのか。どちらにせよ、無理だった。
そういや、暗くてよく見えなかったけど、ソルトロイドさんの杖を持つ腕に、どこかで見たことがあるような黒い金属の腕輪があった。
そこには、色まではわからなかったけれど、石が埋め込まれているように見えた。
実家を出てから、不思議と毎晩夢を見る。
ただ、いつも同じで、登場人物の顔はぼやけて見えないし、名前や呪文も聞き取れない。
この小屋で寝るようになってからは、私と同じ布の腕輪をした男性が、女性――少女だったり、大人の女性だったり――に本を読んでいる夢を毎晩見る。
だけど、今夜は夢を見なかった。
見なかったというより、見えなかったといった方が正しい。
ノイズがひどくて、何も見えなかったのだ。
電波の悪いテレビを見ているようで、声も途切れ途切れだった。
そして、朝。
目を覚ました途端、めまいがした。
気分が悪い。ひどい車酔いをしたときみたいだ。
なんとか小屋の外へ這い出して、思いっきり吐いた。
すると、誰かが必死に背中をさすってくれた。
ひとしきり吐いて落ち着くと、その人は水を飲ませてくれた。
コリンナだった。




