第一章3 『油断大敵』
今まで闘いとは無縁の生活を送ってきた彼女にとって、その闘い――いや、殺し合いは想像を絶するものだった。
先に仕掛けたのは影狼だった。限界まで前傾姿勢となり、正面に立つ目障りな人間を排除すべく駆け出した。四肢で力強く地面を踏み抜き、一瞬にして少女に肉薄した。
だが、影狼の敵意を一身に受ける少女は冷静だった。巨大な戦鎚を担いでいるとは思えないほど軽やかにステップすると、勢い良く突進してくる影狼の側面に回り込む。そして、戦鎚を構えると限界まで身を捻り、重い一撃を影狼の胴体に叩き込んだ。
ドンッと腹の底に響くような音と共に衝撃が辺り一帯を襲う。闘いを見守っていた彼女の方にも衝撃波が襲い、立っているだけで精一杯になってしまう。
攻撃を受けた影狼は、悲鳴を上げることすらできずに宙を舞い、民家を囲む壁に思いっきりめりこんでしまった。
「……もしかして、やったかしら? あれだけの威力だもの。死んでない方がおかしいわよ。」
「……それはフラグ……」
「え? ………噓でしょ」
闘いが終わったと思っていた彼女は、信じられないものを見てしまう。あれだけの威力の攻撃を受けておきながら、依然として影狼は原型をとどめていた。ゆっくりと起き上がり、こちらの様子を窺っている。
「なんであいつはあそこまで頑丈なの? いくら何でもあの強度はおかしいわよ……。今まで発見されてる影狼は、あそこまで大きくないし頑丈でもないわ」
「……あいつはたぶん魔力量が通常種よりも多い。 ……だからより大きく成長するし、魔力による防御も強力……」
「マリョク……? さっきも言ってたけど、それって一体……」
『魔力』という彼女にとって聞き覚えのない単語が耳に入ってくる。思わず少女に聞き返してしまうが、それを気が立っている影狼が待ってくれるはずもなかった。
影狼は様子を窺うのを止め、再び少女たち目掛けて突っ込んで来る。
「……! 後ろに下がってて!」
少女は彼女が離れたのを確認し、再び戦鎚を構える。目線の先には、先ほどと同じように一直線に突っ込んで来る影狼の姿がある。少女はこれをチャンスと捉える。次こそは確実に仕留めると意気込み、手に力が籠る。
「……次は魔力で身体能力を強化すれば、確実に仕留められる……」
だが、少女にとって完全に予想外のことが起きる。影狼は少女の方へ突進してきた。そこまでは同じだった。
ただ、影狼が民家の影を前脚で踏んだ時に異変は起きた。
――奴の巨大な身体がその影へと吸い込まれて消えたのである。
「なっ………!?」
少女は攻撃の目標を見失ってしまい、次の攻撃に備えようとする。しかし、すでに戦鎚を振りかぶった状態から無理やり動きを変えようとしたことで、少女は一時的に無防備な姿勢になってしまう。
戦鎚は威力が強力な分、その重量が仇となり動きの修正が難しい。そのため、怪力と技術を備えた少女でも、致命的な隙ができてしまった。
「あなた! 後ろの影から奴が出てくるわよ! 早くそこから離れて!!」
「っ!!」
避難して引き続き闘いを見ていた彼女から忠告が飛んでくる。それと同時に、少女の背後の影から影狼が這い出てくる。だが、今の少女に次の攻撃に対応する余裕はなかった。
「がはっ……!」
避けることも守ることもできない少女の身体に、影狼は容赦なく突進を浴びせた。
少女の身体は、壊れた人形のように勢いよく後方に吹っ飛ばされた。受け身を取ろうとするも、何回も地面に強く打ち付けられ、一直線に道の遠くの方に転がった。
だが、影狼の追撃は終わらない。すぐに動けない少女に追いつくと、左脚で少女を押さえつけた。そして、鋭い爪の付いた右の前脚を何度も少女の細い身体に振り下ろした。何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も。前脚が振り下ろされるたびに、少女の身体はビクンッと痙攣し、辺りは絵の具をぶちまけたかの様に紅に染まっていく。
影狼は自らの持つ残虐性を隠しもせずに、先ほどの仕返しとばかりに攻撃の手を緩めない。それどころか、少女への攻撃は激しさを増していく。
「ガガガガガッ!」
「……え、うぁ、あ……。待って、そんな……。あの子が、死んじゃう……」
遠くから凄惨な様子を見ていることしかできない彼女は、ショックのあまり言葉を失ってしまう。
自分の命の恩人であり、同い年にも見える少女が、ただただ獣に蹂躙されている光景は、高校生の彼女にはあまりにも刺激が強すぎた。
とても残酷と一言では表現し切れない光景を前に、彼女が嘔吐しそうになった、その時だった。
「ガガガガガッ………ガ? ――ガァッ!?」
「えっ!?」
驚くことに、影狼が後方に吹き飛ばされたのだ。これには、一連の光景を見ていた彼女も思わず瞠目する。
影狼もまた、突然の事態に動揺していた。殺すつもりであれだけ痛みつけたのだ。否、彼女は確実に死んでいた。そう確信できる程、少女の身体は壊していたはずだ。
だが、伝わってきた衝撃は少女により引き起こされたものだろう。今はそれだけで十分だ。早くあの人間を殺さなければ。そう決め、立ち上がろうとする。が、よろけて立ち上がれない。意識も曖昧になってきた。
何故か。その理由も分からず、影狼は一時的に意識を失ってしまった。
* * * * * * * * * * * *
「――脳震盪。……それが奴が動けない理由」
「脳震盪ってそんな簡単になるものなの?」
「……奴の顎に全力で蹴りを入れた。 ……いくら頑丈な奴でも、顎なら少ない力で脳を揺らすことが可能。脳震盪を引き起こすことも容易……」
闘いを見守っていた彼女は、戻ってきた少女から包帯をもらって額の傷の処置をしていた。
影狼を一時的とはいえ、倒すことができた理由を聞いてひとまずは納得する。
「そうなのね。 ……ところで、あなたは何でそんなにピンピンしてるの……?」
少女から話を聞いた彼女は、もっともな質問をする。この目で確かに少女の身体が影狼に蹂躙されるのを見たのだ。だが、今の少女の身体には傷一つ付いていないのだ。まるで、最初から全てなかったかのように。
目の前の少女は答えたくないのか、黙ってしまった。そこで、彼女はもう一つの疑問を口にする。
「というかあなた……。 ロングコートの下にブラジャーとショートパンツしか身に着けてなかったの? いくら何でも露出が多すぎるわよ……」
少女の白いロングコートや限りなく少ない布面積の衣服はボロボロとなり、瑞々しい四肢や引き締まったお腹、細いラインの上半身からくびれに至るまで露わになってしまっている。
「……衣服は極力少ない方が身軽で動きやすい……。 それに傷の処置も楽だし……」
「本当かしら……? 誰か誘惑したい人でもいるんじゃないの?」
「……………………」
「なんでそこで黙るのよ……。まさか、本当に誰か……」
「そんなことよりも大事な話がある……!」
「露骨に話題変えたわね……」
少女は少し顔を赤らめたかと思えば、ゆっくりと口を開いた。
「……まず、私の名前は『あなた』じゃない……。 ――フィーア、それが私の名前……」
「そうなのね、ごめんなさい。 ……さっきは助けてくれてありがとう、フィーア」
「……どういたしまして。大したことはしてないと思うけど……」
黒髪のポニーテールと青い目を持つ少女――フィーアは、頬を僅かに染めて視線を泳がせながら、彼女を指差して言った。
「……あなたの名前を……教えて欲しい……」
「ああ、そうね。私も名乗らないといけないわね。私の名前はね――」
彼女は一呼吸置いて、今は亡き父と母の遺してくれた名を口にする。
「――影内 明よ。アカリと呼んで頂戴」
「……分かった……!」
二人は握手を交わし、お互いに微笑みあった。だが、それも一瞬のこと。フィーアの目つきが真剣なものに変わる。
「……奴の強さは私の想定を超えていた。 ……アカリ、奴が気絶している間に、奴の情報を知っている限り教えて欲しい」
「分かったわ。まず、奴の名前は影狼。その名の通り影に入り込めるけど、体躯に比べて極端に面積の小さな影には入り込めないわ。影に入り込むには身体の一部が触れてないといけないみたい。あと、額の表面に埋め込まれている水晶に何の役割があるかは分かってないけど、そこを攻撃されると怯むらしいわ。これが国が公表している情報の全てよ」
フィーアは、矢継ぎ早に出された情報を聞くと、口に手を当てて考え込む。そして、三十秒ほどで情報の整理が終わったのか、口を開いた。
「……アカリを頼ってもいい……かな? ……私だと、その、警戒されちゃうから……」
「いいよ」
「即答!? ……いいの?」
即答されるとは思ってなかったのか、フィーアが初めて目を見開いてアカリを見る。
「うん、フィーアは私の命の恩人だから。 ――それに、大切な人をみすみす死なせたくないもの」
「……アカリ……分かった。お願い……!」
そうして、彼女たちは動き出した。漆黒の怪物の討伐に向けて。
* * * * * * * * * * * *
意識が戻り、影狼は起き上がっていた。彼は気が立っていた。見つけた獲物を仕留め損なうどころか、突然現れた人間に二度も強烈な当たりを貰ったのだ。苛立たない訳がない。
ふと前を見ると――先ほどまで追っていた獲物がいるではないか。もう一人の怪力の人間は、姿が見えない。
だが、そんなのは関係ない。早く獲物を食らいたいのだ。空腹は、彼にとって最も耐え難い苦痛だった。格好の獲物目掛けて、影狼は走り出す。
獲物はこちらに背を向け逃げ出すと、角を左に曲がって行った。
罠かもしれない。だが、もう一人の人間が何をしようと、油断さえしなければこの身体には大した傷はつけられない。彼は問題ないと判断し、追跡を続ける。
影狼は角を左に曲がった。獲物は十数メートル先にいた。手に小さな黒い球を持って、こちらを見ていた。彼は警戒し、回避態勢をとろうとする。だが、獲物は間髪入れずにそれを頭上へと放り投げた。頭上へ上がった球は、前触れもなく破裂した。
「……グッ!!」
耳をつんざくような音と視界を真っ白に染める閃光に影狼は悲鳴を上げる。五感が優れている彼にとって、この音と光は効果抜群だった。
この予想外の事態に、彼は即座に影に潜ることを選択した。閃光のせいで視界は最悪だが、身体のどこかが影に触れることが出来れば逃げの一手を打てる。幸いなことに、辺りは民家の影が多い。早く影に…………おかしい。影がない。
今更になって、彼は気づいた。 ――頭上の閃光に周りの影が消されていることに。
影狼は獲物だと侮っていた人間にまんまと誘導されたのだ。逃げ場のない鳥籠へと。
球が投げられると同時に、黒い影が影狼の頭上に飛び出していた。彼女は、無防備な状態の獣の額目掛けて、
――勢い良く戦鎚を振り下ろした。




