第28話 父と娘の食卓
審理院付きの侍従に案内された小食堂は、王城の奥まった回廊の先にあった。
窓は細く、冬の光は銀の縁取りみたいに床へ落ちている。二人分だけ整えられた食卓には、白い卓布、薄い湯気を閉じ込めた銀蓋、まだ手をつけられていないパン籠、琥珀色の茶が入った細首のポット。どれも不足なく美しいのに、部屋の空気だけが妙に冷たかった。
アスティリア公爵は、もう席についていた。
法廷で見た時と同じ、隙のない礼服姿。立ち上がりもしない。勝敗のあとで父親が娘を迎える顔ではなく、損失報告を受ける前の当主の顔だった。
「座りなさい」
セシリアは指示された向かいの席へ腰を下ろした。
椅子の脚が石床を軽く擦る。小さな音だったのに、部屋の静けさのせいで、ひどくはっきり響いた。
給仕が無言で蓋を取る。
白蕪の薄いスープ。香草をまぶした鶏肉。胡桃入りの黒パン。冬梨の煮つけ。
王城らしく整った献立だったが、香りを吸いこんだ瞬間、セシリアの胸に浮かんだのは白梢の谷の鍋だった。少し煮崩れた豆。焼き色の不揃いな根菜。慌てて足した塩。そういうもののほうが、ずっと人の体温に近い。
公爵はナプキンを広げながら言った。
「今回の裁定は、王家が辺境を甘やかした結果だ。法と呼ぶには情が混じりすぎている」
最初の一言が、それだった。
お疲れでもない。
無事でよかった、でもない。
寒くなかったかとも、傷つかなかったかとも言わない。
セシリアは、自分の前のスープ皿を見つめた。表面に薄い膜が張りかけている。幼い頃からよく見た景色だった。父の話が終わるまで、料理はいつも冷める。
「とはいえ」
公爵は匙を持ち上げることもなく続ける。
「公の場でこれ以上争うのは得策ではない。そこでだ。お前が余計な発言を控えれば、家としても最低限の面目は保てる。王都では、感情的な離脱だったが、今は落ち着いているとだけ言えばいい」
「……それが、本日のお話でしょうか」
「本題はこれからだ」
公爵の声には、審理で敗れた者の乱れがほとんど残っていなかった。もう頭の中では、次にどこを切り分ければ傷が小さく見えるか、その計算へ移っているのだろう。
「白梢の谷は、このままではいずれ行き詰まる。雪、補給、魔物、税、何一つ安定していない。お前一人が気を張ったところで、辺境の泥は辺境の泥だ」
その言い方に、セシリアは静かに顔を上げた。
泥。
彼女の頭の中には、谷のぬかるみが浮かんだ。春先、雪解けの水で道が崩れた朝。ミルコフが板を打ちつけ、プラチャンが荷車の車輪へ縄を巻き、子どもたちが転んで笑い、アンナが呆れた顔で膝の泥を拭いていた。確かに泥だ。けれど、誰かが歩くために踏み固めた泥だった。
「分家筋への預け替えなら、まだ可能性はある。表向きは静養名目。時期を見て、相応の縁談へつなげる。家へ戻すのではない。こちらも譲歩している」
譲歩。
その言葉が、銀器より冷たく響く。
「戻す先がまだあるうちに、お前も意地を収めなさい。あの場で家名を捨て、辺境で妙な名をつけて食堂ごっこをしていた件は、こちらで整えてやれる」
食堂ごっこ。
セシリアは怒りで声を荒らげそうにはならなかった。
不思議なくらい、ならない。
代わりに、白梢の谷で覚えた呼吸が胸の底から上がってきた。熱のある子へ匙を運ぶ時の間。泣き出しかけたレクシーの隣へ椅子を寄せる時の静けさ。怒鳴れば負けるのではない。怒鳴らなくても届く相手と、届かない相手がいるのだと、あの谷で知った。
「父上」
公爵の眉が、わずかに動く。
その呼びかけを、彼はずいぶん久しぶりに聞いたのかもしれない。
「私は、あなたの娘であることを捨てたのではありません」
言葉は薄い氷の上へ置くように、ゆっくり出た。
「あなたに従う人生を捨てました」
公爵の手が止まる。
銀のナイフの先が皿へ触れ、かすかな金属音がした。
「……何だと」
「血のつながりが消えるとは思っておりません。母から受け取った手の癖も、味の見方も、火の気配に先に振り向くところも、きっとこの先も私の中に残ります。あなたの娘であった時間も、なかったことにはできません」
セシリアは一度だけ、卓上のパン籠へ目を落とした。
整いすぎた丸パンの焼き色。その均一さが、かえって遠い。
「ですが、誰に頭を下げるか。誰の皿へ最初の一口を出すか。どこで働き、どこへ帰るか。それを、家の都合で決められるまま生きるのは、もう終わりにしました」
「家の都合だと?」
公爵の声が低くなる。
「お前は公爵家の庇護で育った。衣食住も教育も、礼法も、すべて家が与えたものだ。その恩も理解せず、自立などと」
「理解しております」
言い返したのに、声は自分でも驚くほど穏やかだった。
「ですから長い間、役に立とうとしました。空いた皿を見て、こぼれた噂を拾い、機嫌の悪い席を繕い、間違いが起きぬよう先回りしてきました。けれど父上は一度も、それを私の人生としては見なかった」
公爵が唇を引き結ぶ。
反論より先に、表情がそれを否定していた。
「便利だっただけだと、今はわかります」
「思い上がるな」
短く吐き捨てた声で、初めて父親の苛立ちが剥き出しになった。
「お前がいなくても家は回る」
「ええ」
セシリアは頷いた。
「だから、離れました」
一瞬、公爵は言葉を失った。
勝つための議論ではない答え方だったからだろう。責めてもすがってもいない。ただ事実として卓上へ置かれた言葉は、取り消しにくい。
部屋の隅で湯気だけが細く立っていた。
給仕は下がっており、回廊の向こうの物音も遠い。
父と娘が向かい合っているのに、同じ卓布の上へ何一つ同じものを乗せられていない。セシリアはそのことを、少し悲しいと思った。悲しいが、もう取り戻せないともわかっていた。
「……では、どうするつもりだ」
しばらくして、公爵が言った。
怒鳴り損ねた声だった。
「その名で、一生辺境に埋もれる気か」
セシリアは窓の外へ目を向けた。
石壁の向こう、冬の空は白い。けれど彼女には、白梢の谷の朝のほうが先に思い浮かんだ。薪の爆ぜる音。まだ眠そうな子どもの頬。裏口に積もる雪。食堂の戸を開けた瞬間の、少し湿った湯気。
「埋もれません」
そう答えると、胸の内がすっと定まった。
「私はあの谷で、働いて、食べて、名を呼ばれて生きます。失敗もしますし、足りないことも山ほどあります。でも、あそこで差し出した皿は、誰かの明日のために置いたものです。私はその続きをやります」
「女一人で背負えるものではない」
「一人ではありません」
白梢の谷の顔が、次々に浮かぶ。
帳場で顎をしゃくるプラチャン。無言で紙を揃えるネマーニャ。ありがとう帳を抱えしめるレクシー。薪を運ぶミルコフ。字を書けたと笑った子どもたち。
「もう、一人に戻らないだけです」
公爵はそこで初めて、ほんのわずかに視線を逸らした。
それが敗北の形なのか、理解できないものを前にした戸惑いなのか、セシリアにはわからない。たぶん、どちらでもよかった。
彼女はナプキンを畳み、膝から卓上へ戻した。
「本日ここへ参りましたのは、父上を打ち負かすためではありません」
公爵は黙っている。
「終わらせるためです。私はもう、父上の前で何者になるかを試される席へ戻りません。公爵家の名も、そこで求められる役目も、あの夜に置いてきました。その名前は捨てました。けれど空っぽになったのではなく、自分で選んだ名を持ちました」
彼女はゆっくり立ち上がった。
「どうか、お忘れなく。娘を失ったのではありません。従わせる相手を失ったのです」
公爵の顔から血の気が引く。
怒鳴り返すより、その言葉のほうが深く刺さったのだとわかった。
セシリアは椅子を押し戻し、最後に一礼した。
王都で教わった礼法の形でありながら、今日だけは誰かへ従うためではなく、自分の区切りとして。
扉を開けると、回廊の冷気が頬へ触れた。
外ではネマーニャが壁際に立っていた。護衛の位置でも、見張る位置でもない。こちらが出てくるまで、黙って時間を預かる人の立ち方だった。
彼はセシリアの顔を見ると、何があったかを聞かなかった。
代わりに片手の紙包みを差し出す。
「王城の小食堂は、たいてい食事にならない」
包みの中には、旅籠で焼いてもらった胡椒入りの肉入りパンが二つ入っていた。まだ少し温かい。
セシリアはそれを見て、ようやく肩の力を抜いた。
笑うつもりはなかったのに、息と一緒に小さな笑みがこぼれる。
「……よくおわかりで」
「経験則です」
ネマーニャの返事はいつも通り平らだったが、その平らさが今はありがたかった。
二人で回廊の窓際へ寄る。
セシリアは紙包みを開き、ひと口かじった。胡椒と肉汁の熱が舌へ広がる。整いすぎた小食堂の献立より、ずっと生きた味がした。
父と向かい合った卓では、何一つ食べられなかった。
けれど、もう空腹のままではいない。
噛みしめた熱の向こうで、白梢の谷の灯が、帰る場所の形を持って胸の内へともり直していった。




