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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第27話 王前審理


 王都の朝は、白梢の谷の朝より音が多い。


 石畳を打つ荷車の車輪。店先を開ける蝶番の音。鐘楼から落ちてくる時刻の鐘。城下へ戻ってきたはずなのに、セシリアにはそのどれもが、ひどく遠い場所の響きに思えた。


 旅籠で荷を整え直し、四人はまだ雪の残る街路を王立審理院へ向かった。

 先頭を歩くプラチャンは、証拠箱の紐の緩みを何度も指先で確かめている。ネマーニャは外套の下に打鍵手袋を納め、歩幅を一定に保ったまま、頭の中で提出順を並べ替えているようだった。アルベルトは王族の徽章を隠さず胸元へ留め、余計な圧をかけぬよう、けれど逃げもせぬ顔で前を見ていた。


 審理院の建物は、王城の広間よりずっと飾り気がない。

 高い天井と、よく磨かれた石の床。冬の冷えを抱えたままの長机。法衣の擦れる音。紙を繰る乾いた気配。ここでは絹の裾より、署名の一画のほうが重いのだと、ひと目でわかる空気だった。


 通された審理の間の最奥には、簡素な壇がある。

 中央に国王、左右に審理官、書記官、記録院の立会人。傍聴席には王都貴族や実務官たちが控え、公爵家の紋章はその中でもよく目立った。


 アスティリア公爵は、茶会の夜と同じように隙のない礼服姿で座っていた。

 ただ、あの夜の悲嘆にくれた父の顔はどこにもない。そこにあるのは、損を回収しに来た貴族の顔だった。


 開廷の打杖が鳴る。


 「本日の審理対象は、北方開拓地白梢の谷における土地利用権、共同食堂営業権、暫定個人登録から正式登録への継続妥当性、並びに旧アスティリア公爵家による権利主張の当否」


 朗々と読み上げられる文言を聞きながら、セシリアは一度だけ息を吐いた。

 もう、あの夜の毒騒ぎを弁明する席ではない。

 白梢の谷で積み上げた日々が、本当にこの国の紙へ届くかを問う席だ。


 先に立ったのは公爵家側だった。

 代理人の老練な法務官が、滑らかな声で主張を並べていく。


 「セシリア嬢は旧公爵家から離脱したとはいえ、白梢の谷への移送、初期生活費、開拓補助、救援予算の配分は、長く公爵家の管理下にありました。名を変えたところで、実質的支配は継続しております。よって谷の中核施設たる共同食堂と周辺地の運営権は、旧家の統制下へ戻すのが妥当です」


 傍聴席の何人かが頷く。

 王都では、長く管理した者が当然のように持ち主面をする理屈が、いかにももっともらしく聞こえるのだろう。


 法務官はさらに、薄い笑みを浮かべた。


 「正式登録名『セシリア・ハクショウ』についても、その成立過程には疑義があります。由緒なき辺境共同体の情緒的承認を、公的登録へ持ち込んだ可能性が高い」


 その言葉に、セシリアの胸の奥で静かな怒りが澄んだ。

 白梢の谷を知らぬ者は、すぐに情緒という言葉で片づける。雪かきで裂けた指先も、空の鍋が鳴る音も、夜更けに集めた署名の震えも、温かい椀を先に差し出す手つきも、全部まとめて曖昧なものへ押し込めようとする。


 けれど今、隣にいるネマーニャは動かなかった。

 むしろ、やっと自分の番が来たというように、静かに一歩前へ出る。


 「反証を提出します」


 その声は高くないのに、審理の間の端まで真っすぐ届いた。


 許可が下りると、ネマーニャは証拠箱の蓋を開けた。

 中から取り出した最初の一束は、白布で包まれた正式登録副本だった。


 「王立記録院北方出張所立会いの下、本人意思確認を経て成立した正式登録です。旧家名との紐付けは切断済み。長期契約、営業継続、納税主体としての資格に瑕疵はありません」


 彼が頁を開き、審理官へ差し出す。

 硬質な紙の上に、はっきりと打ち出された文字。


 セシリア・ハクショウ。


 初めてその名を見た夜の、自分の指の震えを思い出す。

 だが今は違う。あの名は、もう怖さの記憶ではなく、帰る場所の証明だった。


 「記録院備え付け機の使用を願います」


 国王が短く頷く。

 法廷脇の記録台へ置かれた魔導タイプライターへ、ネマーニャが向かった。

 布を外し、指先を鍵盤へ置いた瞬間、空気が変わる。


 打鍵音は、冬の石の間へ細く鋭く跳ねた。

 無駄のない速さで、紙が吸い込まれ、文字が並ぶ。争点整理表。権利主張。根拠書類。対抗証拠。提出番号。必要なものだけが、迷いなく打ち出されていく。


 あの人はこういう時、まるで火を扱う人に似ている、とセシリアは思った。

 熱く見せびらかすのではない。必要な場所へ、必要なだけ、確かな火を置いていく。


 複写された整理表が審理官と書記官の手元へ配られる。

 公爵家側の法務官の表情が、そこで初めてわずかに揺れた。


 「提出するのは、共同食堂営業契約、仕入れ帳、納税控え、橋銭支払控え、診療所連携記録、修繕協力名簿、住民署名簿、読み書き教室出席札です」


 乾いた紙の音が、ひとつずつ机へ置かれていく。

 数だけなら地味だった。だがその一枚一枚が、白梢の谷で過ごした朝と昼と夜の現物だった。


 「食堂営業は旧公爵家の命令ではなく、谷の住民共同体との契約に基づいて開始され、継続されています。納税は北方窓口へ直接。補修費も労務配分も、谷側の帳簿で完結している。旧公爵家を経由した支配は、書類上、既に存在しません」


 公爵家側の法務官が口を挟む。


 「辺境の帳簿など、いくらでも作れましょう。問題はその理解能力です。署名した者たちが、内容を本当に読めたのか」


 待っていたような反論だった。

 ネマーニャは視線すら揺らさない。


 「ですので、読み書き教室の記録を提出しています」


 彼は薄い束を開き、何冊かの小さな綴りを前へ並べた。

 角の擦れた練習帳。拙い線で何度も書かれた名前。日付。短い文。


 「受講者は契約や配給、納税の文言を自力で読めるところまで段階的に学習しています。署名だけを教えたのではありません。何へ署名しているかを読むために教えました」


 一冊を審理官の手元へ滑らせる。


 「こちらは橋番担当者の練習帳。こちらは共同炊事の配給確認用の写し。こちらは冬番人員表の読解訓練札。筆癖は署名簿と一致します。複数人の癖が混ざっているため、単独の代筆でもありません」


 ざわり、と傍聴席が揺れた。

 王都の人間にとって、辺境の者が契約文を読むことは、あまり想定されていないのだろう。


 さらにプラチャンが一歩出た。

 工匠族の短い指が、机上の別の書面を押さえる。


 「こちら、公爵家側提出の救援物資管理表ですが、粉袋の数が合ってるようで合ってません」


 彼の声は大きくない。

 けれど谷で荷と人を回してきた男の口調には、数字へ対する遠慮のなさがあった。


 「三の月二十四日延期と書いてあるのに、翌日到着分の荷印がない。こっちは中継倉受領控え。こっちは白梢の谷の受領控え。袋数は二十六で同じでも、等級表記が違う。上等品扱いで予算を取っといて、届いたのは粗悪品でした」


 書記官が両方の紙を並べる。

 印影の位置、墨の濃さ、欄外の追記。見比べれば、あとから都合よく継ぎ足した箇所が、素人目にも浮いた。


 「つまり、公爵家は保護者としての権利を主張しながら、実際には谷へ流す物資すら途中で都合よく扱っていた、ということです」


 ネマーニャが打ち出した整理表の該当箇所を、審理官が指先でなぞる。


 「支配の根拠として出された文書自体の信用が低い。そういう主張ですね」


 「はい」


 法務官が顔をしかめた。


 「王都で整えられた制度を、辺境の感傷が乱すのは問題です」


 その瞬間、アルベルトが立った。

 外套を払い、王族の紋章がまっすぐ見える位置へ出る。


 「では、王家の名で述べよう」


 審理の間の空気がぴんと張った。

 公爵家側も、傍聴席も、一斉に彼を見る。


 アルベルトはセシリアではなく、まず国王の前へ頭を垂れた。


 「私は、白梢の谷における正式登録立会いの補助署名に関与しました。また、旧公爵家の使者が、谷の住民共同体を侮辱し、セシリア・ハクショウ殿へ再従属と婚姻を条件とした帰還を迫った場にも居合わせています」


 公爵が初めて、はっきりと顔色を変えた。


 「殿下、それは」

 「事実です」


 アルベルトの声は揺れなかった。


 「加えて、王家は白梢の谷を旧公爵家の私的回収地として認めていません。納税主体として機能し、住民共同体が実務を維持している以上、そこは失敗者の捨て場ではなく、国の一部として扱うべきです」


 一拍置いて、彼は続ける。


 「……茶会の夜、私は黙りました」


 その言葉だけで、セシリアの胸が小さく震えた。

 彼はあの日の名を出さず、それでも逃げなかった。


 「見ているだけで、正しい側に立った気になっていた。だが黙ることは、都合のよい側へ立つことと同じでした。だから今は、見たことだけを述べます。セシリア・ハクショウ殿は、自らの意思で名を選び、谷の人々は自らの意思でその運営を支えている。そこへ旧公爵家が戻る余地はありません」


 審理の間が静まり返る。

 誰かの咳払いひとつ、やけに遠かった。


 国王が、初めてセシリアへ視線を向けた。


 「セシリア・ハクショウ」


 新しい名で呼ばれる。

 王都の石壁の中で、その音が妙にまっすぐ落ちてきた。


 「その名も、食堂も、谷での生き方も、そなた自身の選択か」


 セシリアは一歩前へ出た。

 膝は震えていない。指先も、冷えてはいるが止まっていない。


 「はい」


 自分の声が、自分のものとして響く。


 「私は白梢の谷で、自分の仕事を選びました。誰が食べるかを考えて鍋をかけ、誰が寒いかを見て席を増やし、その対価として帳簿をつけ、税を納め、契約を結びました。新しい名は、その暮らしへ責任を持つために選んだものです」


 公爵の視線が突き刺さる。

 けれどもう、胸の内側まで届かなかった。


 「では、評を告げる」


 国王の声は低く、余計な飾りがない。


 「正式登録『セシリア・ハクショウ』の有効性を認める。白梢の谷における共同食堂営業権および住民共同体による土地利用継続について、旧アスティリア公爵家の実質支配の主張は退ける。今後、当該共同体への妨害、名義の巻き戻し、強要的婚姻交渉を禁ずる」


 書記官の筆が走る。

 その音を聞いた瞬間、セシリアはようやく、肺の奥へ空気が入るのを感じた。


 勝った。

 そう思ったのは、歓声のためではない。

 鍋の湯気、ありがとう帳、雪の朝の署名、子どもたちの拙い文字、夜通しで合わせた帳簿、その全部が、紙として退けられなかったからだ。


 隣でプラチャンが小さく拳を握る。

 ネマーニャは何も言わなかったが、記録台の脇で手袋越しの指を一度だけゆるめた。アルベルトは長く息を吐き、ようやく肩の力を抜いた。


 公爵家側はもはや大声を上げられなかった。

 反論を試みても、提出済みの紙が、それを一枚ずつ塞いでいる。

 積み重ねた日々のほうが、家名より重くなったのだ。


 閉廷の打杖が鳴り、人々がざわめきと共に立ち上がる。

 その時、審理院付きの侍従がセシリアの前へ来て、静かに頭を下げた。


 「セシリア・ハクショウ様。アスティリア公爵より、非公式の対話を願い出ております」


 セシリアは眉をひそめた。

 侍従は続ける。


 「国王陛下は強制なさらぬとのことです。ただ、当事者間で言葉を残したまま国へ帰すのは、かえって禍根になるやもしれぬ、と。城内の小食堂を一刻だけお使いいただけます」


 父と娘のための席。

 その言い方だけ聞けば、ずいぶん温かなものに聞こえる。

 けれどセシリアは知っていた。あの人が食卓に持ってくるのは、たいてい愛情ではなく勘定だ。


 それでも、逃げずに終わらせる時が来たのだとも思う。


 ネマーニャが何も言わずに、ほんのわずかにこちらを見た。

 無理に止めもしない。背を押しもせず、ただ、選ぶ時間をそのまま置いてくれる。


 だからセシリアは、ゆっくりと頷いた。


 「承ります」


 勝ったはずの審理のあとで、胸の中に別の冷たさが落ちる。

 王都の石壁の向こうで、昼の鐘が鳴りはじめていた。



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