第26話 王都への道、雪を越えて
王都の青い封蝋が押された命令書は、その夜のうちに三度読み返された。
一度目は、食堂の大卓で全員そろって。
二度目は、ネマーニャが書式と日付と印影の位置を確かめるために。
三度目は、皆が寝静まったあと、セシリアが台所の灯りの下でひとり、言葉の冷たさを確かめるためにだった。
王立審理院出頭命令。
期日は六日後。
争点は、白梢の谷の土地利用権、食堂営業権、暫定個人登録から正式登録への継続妥当性、および旧アスティリア公爵家との権利関係。
かつて彼女を潰すために使われた王都の紙が、今度は白梢の谷そのものへ手を伸ばしている。
セシリアは紙を閉じ、指先で封の跡をなぞった。
逃げる気は、もうなかった。
ただ、行って帰る。それだけだ。
けれど、その「帰る」が胸の内で言葉になった時、ほんのわずかに呼吸が深くなるのを感じた。
翌朝、まだ空の藍が薄まる前から、食堂の裏手は人で埋まっていた。
雪は夜のうちにまた増えていた。井戸の縁にも、薪小屋の屋根にも、荷車の車輪の跡にも、やわらかな白が静かに積もっている。吐く息は濃く、鼻の奥へ差し込む冷気は痛いほどだったのに、誰ひとり、寒さを理由に動きを止めなかった。
「こっちの樽は保存食。右だ、右。書類箱と一緒に積むな」
朝いちばんに声を張っていたのはプラチャンだった。
毛皮の肩当てへ雪を乗せたまま、荷馬車の周りを忙しく歩き回っている。彼が指差す先では、干し肉の包み、乾燥豆の袋、固焼きパン、湯を沸かすための小鍋、予備の毛布、馬の飼葉が手際よく積み分けられていく。道中の荷と、審理へ持ち込む証拠の荷を混ぜないためだった。
「混ぜたらどうなるの」
ユノが真顔で聞くと、プラチャンは即座に答えた。
「パンくずが納税記録に挟まる」
「だめだ」
「だめだな」
トトまで神妙に頷いている。
荷車の脇では、ネマーニャが膝上の板へ紙を挟み、積み込む物を一つずつ読み上げていた。
「王立審理院提出用 正式登録副本三通」
「ある」
セシリアが答える。
「営業日誌原本、食堂開業日以後すべて」
「ある」
「納税記録。橋銭支払控え。開拓地物資受領控え。診療所連携記録」
「あります」
アンナが布袋を抱えて進み出る。
「住民署名簿」
「これよ」
マルダ婆さんが胸元から布で包んだ束を出した。
「ありがとう帳の写し」
「……それ、法廷で使う書類に入るんですか」
レクシーがそろそろと差し出した薄い帳面を見て、セシリアは思わず聞き返した。
ネマーニャは帳面を受け取り、表紙を一枚だけ開く。
そこには、たどたどしい字で、こう書いてあった。
『この人の皿で、うちの弟が冬を越しました』
『先生へ 字をおぼえたので名前がかけます』
『白梢の谷へ来てから、ひるがへったのがたのしみです』
紙面を追ったネマーニャの指が、一瞬だけ止まった。
「法的な主証拠ではありません」
彼は静かに言った。
「ですが、補助資料として添付する価値はあります。数字だけでは見えない継続実態があります」
レクシーの顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ持ってく?」
「持っていきます」
「やった」
そのやり取りを見て、セシリアは胸の奥で小さく笑った。
もう、自分だけで戦う旅ではない。
書類箱の中に入るのは紙だけではなく、谷で積み重ねた日々そのものなのだ。
プラチャンは昨夜のうちに、書類専用の木箱を作っていた。
蓋の内側へ油紙を何重にも張り、縁には溶かした樹脂を薄く塗り込めてある。雪と湿気を防ぐためだった。見た目は無骨だが、角には金具が打たれ、揺れでも中身が傷まないよう底へ羊毛が詰められている。
「過剰じゃありませんか」
セシリアが言うと、プラチャンは鼻を鳴らした。
「王都の偉い連中は、紙で人を殺すだろ。だったら紙の鎧くらい着せる」
木箱の蓋を開けると、中には仕切りが細かく作られていた。副本は平らに。営業日誌は紐で縛って横へ。納税記録は印影が擦れないよう別布で包み、住民署名簿は折れを防ぐため板紙で挟む。ありがとう帳の写しだけは、いちばん上へ薄い布を一枚噛ませて載せられた。
「きれい……」
思わず漏らすと、プラチャンは照れたように顔を背けた。
「箱だ」
「でも、きれいです」
「箱だって言ってる」
その横で、ミルコフは旅用の槍の穂先を点検していた。
彼は王都までは同行しない。谷へ残り、橋と門の見回りを引き受ける役だった。太い指で革紐を締め直しながら、低い声で言う。
「こっちは任せろ」
それだけだった。
けれど、その短い一言の重みを、セシリアはもう知っている。
診療所の前ではアンナとマリカが、留守の間に足りなくなりそうな薬草と食料を書き出していた。
裏庭の干し棚には、薄切りの根菜と薬草束が追加で吊るされている。夜番の順番表まで作られていて、読み書き教室で覚えた字が雪明かりの中でもはっきり読めた。
「戸締まりは、二度確認します」
アンナが言う。
「橋番は交代を増やします」
ミルコフが続ける。
「食堂の火は私たちで回すよ。味は少し落ちるけどね」
マリカが肩をすくめる。
「少しなら許します」
セシリアが返すと、皆が笑った。
笑い声は白い空気へ細く立ちのぼり、すぐに冷えるはずなのに、不思議と場のぬくもりは消えなかった。
アルベルトが姿を現したのは、空がようやく白みはじめた頃だった。
王都にいた頃よりもずっと地味な濃紺の外套をまとっているが、帯びた剣の位置と、立った時の重心が王族の訓練を隠しきれない。今日は護衛を最小限に抑えるため、王家の紋章も見えないように内側へしまっていた。
「遅れた」
「いえ」
ネマーニャは紙から目を上げる。
「むしろ予定より早いです」
アルベルトは荷車の横へ来ると、積み込まれた書類箱に目を留めた。
「これが全部、谷の生活か」
「はい」
セシリアは頷いた。
「鍋の数も、塩の量も、橋の修繕費も、皆の名前も入っています」
彼はしばらく何も言わずにいたが、やがて低く口を開いた。
「王都にいた頃の私は、書類は人を従わせるためのものだと思っていた」
白い息が言葉の切れ目でほどける。
「だが、ここへ来てからは違う。残された紙は、誰かが確かに生きた証明にもなるのだとわかった」
セシリアは答えなかった。
答える代わりに、書類箱の金具へそっと手を置いた。冷たかった。でも、その冷たさが今は心強い。
出発前、食堂の中で短い朝食が出された。
湯気の立つ麦粥に、少しだけ干し肉を刻み、刻んだ香草を散らしただけの簡素なものだ。それでも、皆で囲むと不思議にごちそうに見える。
「道中で体を冷やすな」
マルダ婆さんが言う。
「変な宿のシーツは信用しないこと」
アンナが真顔で続ける。
「先生は寝ないで書類見るな」
レクシーがネマーニャを睨む。
「セシリアは胃を空にしたまま怒るなよ」
プラチャンが匙を向ける。
「私は怒る前に食べます」
「それは知ってる」
トトとユノは、旅の間に持っていてほしいと言って、小さな毛糸の輪を二つ差し出した。
昨夜、レクシーに教わって作ったものらしい。ひとつは少し歪んだ白で、もうひとつは灰色だった。
「白はおねえちゃん」
「灰は先生」
「なんで灰なんですか」
ネマーニャが珍しく問い返すと、トトは得意げに胸を張った。
「いつも灰の服だから」
誰も反論できなかった。
毛糸の輪は、馬車の内側の取っ手へ結ばれた。
揺れるたび、白と灰の小さな輪がぶつかり合い、音もなく戻る。
いよいよ出る時刻になると、谷の入口まで、思っていた以上の人数が集まっていた。
橋番の男たち、洗濯場の女たち、診療所へ通う年寄り、読み書き教室へ顔を出していた開拓民たち。食堂へ毎日来る者も、週に一度しか来ない者も、皆が厚着の襟を立てて、雪の道の両脇へ並んでいる。
別れを大きな言葉で飾る者はいなかった。
「薪は南の小屋から先に使う」
「食堂裏の戸、立てつけが悪いから気をつけろ」
「橋の縄は三日後に張り直す」
「戻ったら橇の続きをやる」
そんな現実的な声ばかりが飛ぶ。
けれど、そのひとつひとつが、無事に戻ることを前提にしているのがわかった。
セシリアは荷馬車へ乗り込む前に、皆の顔を見た。
以前の王都で見た群衆は、誰かを裁く時だけよく揃った。けれど、ここにいる人たちは違う。鍋の蓋の音や、橋の縄の手触りや、雪かきの重さまで共有してきた人たちの顔だった。
「行ってきます」
彼女が言うと、返ってきたのは一斉の「行ってこい」ではなく、あちこちから重なる実務的な声だった。
「早く戻れ」
「途中で食べ損ねるな」
「先生、紙なくすな」
「王都の道で滑るなよ、王子」
その最後に、レクシーが一歩前へ出て、胸を張って言った。
「食堂、守っとくから」
セシリアはうなずいた。
その一言へ、返す言葉はたくさんあるはずなのに、喉の奥がつまって、結局「お願いします」しか出てこなかった。
馬が嘶き、車輪が雪へ沈んだ。
ゆっくりと、白梢の谷が後ろへ流れはじめる。
御者台にはプラチャンが座り、手綱を握った。隣にはアルベルトが座り、道の見通しと周囲を警戒している。馬車の中には、セシリアとネマーニャ、それから足元に固定された書類箱。揺れに合わせて金具がかすかに鳴るたび、中の紙束の重さが膝へ伝わってくるようだった。
谷の門を抜ける時、セシリアは窓布を少しだけ持ち上げた。
見送る人々の向こうに、食堂の煙突からまっすぐ煙が上っている。遊技庭園の門札も、雪の中でまだ読めた。
『戻ったら、また明日の午後に』
胸の内で、その文が静かに灯る。
谷を出て半刻もすると、道は急に厳しくなった。
踏み固められた街道とはいえ、端は吹き溜まりになり、轍も浅く隠れている。小さな橋を越えるたび馬の脚が沈み、御者台からプラチャンの短い指示が飛んだ。
「左寄せるな。そっちは下が空洞だ」
「前、枝!」
「殿下、右の縄抑えろ!」
アルベルトはすぐに身を乗り出し、荷布が風でめくれないよう押さえる。王都で絹の帳を扱っていた手が、今は凍りつく縄を握っている。その変化が不自然に見えないのは、この数か月で彼もまた谷の側へ片足を置いたからだろう。
昼前、最初の休憩を取ったのは、針葉樹に囲まれた古い継ぎ場小屋だった。
屋根の半分は雪に埋もれていたが、炉だけは生きている。先に入っていた荷運びの男二人が火を分けてくれ、プラチャンが馬へ水をやる間、セシリアは持ってきた乾燥根菜と豆を小鍋へ入れた。
「この状況でも作るのか」
アルベルトが少し驚いたように言う。
「この状況だからです」
セシリアは鍋をかき回した。
「冷えている時の考えごとは、だいたい悪い方へ寄ります」
塩をひとつまみ。乾燥きのこを砕いて加える。最後に、食堂から持ってきた香草油をほんの一滴だけ落とした。
それだけで、小屋の中の空気が少し変わる。
荷運びの男たちは、匂いに釣られて思わずこちらを見た。
セシリアは椀を六つ並べ、彼らの分までよそった。
「旅先で他人へまで配るのか」
ネマーニャが問う。
「鍋は多い方が安心します」
「論理が食堂主です」
小さく笑ったその声が聞けただけで、セシリアの肩から力が少し抜けた。
熱い汁をすすった瞬間、凍えていた指先がようやく自分のものへ戻る。アルベルトは最初、湯気で眼鏡が曇ることに戸惑っていたが、二口目には無言で椀を抱え込んでいた。プラチャンは飲み終えたあと、「塩気がちょうどいい」とだけ言い、荷運びの男のひとりは「王都の宿飯よりいい」と感心した。
その褒め言葉を聞いたアルベルトが、なぜか少し誇らしげな顔をしたので、セシリアは不思議に思い、次の瞬間に少しだけおかしくなった。
午後の道は、さらに雪が深かった。
峠へ差しかかる頃、風の向きが変わる。木々の間を抜けてきた白い粒が、横から馬車の板壁を叩いた。視界は薄く霞み、道と斜面の境目が曖昧になる。
「飛ばすなよ」
アルベルトが御者台で言う。
「飛ばせる路面か」
プラチャンが返す。
馬車は進むというより、雪を押し分けながら前へ滲んでいくようだった。
中で書類箱が滑らないよう、ネマーニャは片手を箱へ置き続けている。節ばった指先が金具へかかり、白くなっていた。
「代わります」
セシリアが手を伸ばすと、彼は首を振る。
「大丈夫です」
「ずっと押さえていたら、手が固まります」
「固まっても、まだ打てます」
その返事が、冗談なのか、本気でそう信じているのか、一瞬わからなかった。
けれど次の揺れで箱が大きく軋み、ネマーニャの肩がほんのわずかに強張ったのを見て、セシリアは彼の膝へ自分の毛布を半分かけた。
「これは書類箱ではなく、人へです」
「……はい」
短い返事のあと、沈黙が落ちる。
だが気まずさはなかった。揺れる車内で、同じ毛布の端が互いの膝を覆っているだけで、寒さの感じ方が違ってくる。
その日、泊まったのは峠の手前にある小さな継ぎ宿だった。
石造りの建物は古く、廊下の板はところどころ軋み、窓の隙間風も遠慮がない。それでも、屋根があり、火があり、扉に閂がかかるだけで十分だった。
書類箱は宿の主人の目の届く場所ではなく、四人で囲む食卓のすぐ横へ置いた。ネマーニャは夕食の前に鍵と封紐を三度確かめ、アルベルトは審理院へ出す順番を再確認し、プラチャンは馬の蹄鉄の傷み具合を見てからようやく椅子へ座った。
食卓へ出たのは硬い黒パンと塩漬け肉の煮込みだった。
悪くはない。けれど、白梢の谷の食堂で出す皿より、ほんのわずかに「誰が食べるか」が抜けている味がした。
セシリアはそのことに気づいて、ああ、と内心で思う。
自分はもう、ただ料理を作るだけの人間ではなくなっていた。誰が冷えやすいか、誰が匙を持つ手を痛めているか、誰が甘い匂いで機嫌を直すか。そういうことまで含めて皿を考えるようになってしまっている。
それはたぶん、谷に暮らしたせいだ。
夕食のあと、宿の廊下は早くも静かになった。
風の音だけが、外壁のどこかを擦っている。
セシリアが水差しを取りに一階の小部屋へ降りると、先にネマーニャがそこにいた。
細い窓の前に立ち、雪に曇る闇を見ている。灯りは背後の卓に置いた小さなランプだけで、横顔の輪郭が淡く浮いた。
「眠れませんか」
声をかけると、彼は少しだけ肩を揺らした。
「……いえ。寝る前に、明日の書類順を頭へ入れておこうと」
「それを眠れないと言うのでは」
彼は否定しなかった。
セシリアは水差しを卓へ置き、その隣へ立つ。
窓の外は何も見えない。白いものが流れているのだけはわかる。昔の彼が王都から逃げる時に見た夜も、こんなふうに道の先が見えなかったのだろうかと、ふと思った。
「怖いですか」
尋ねた瞬間、踏み込みすぎたかもしれないと思った。
だがネマーニャは怒らなかった。しばらく考えるように息を置いてから、窓硝子へ視線を落としたまま言う。
「怖くない、と言ったら嘘になります」
その答えが、妙にうれしかった。
この人は、強く見せるために嘘をつかない。
「王都へ戻るのは、正直、気が重いです。あそこでは紙一枚で人の声が消える。打つ指が一つ遅れれば、それだけで誰かの冬が変わることもある」
彼の右手が、無意識のように左手首へ触れた。
古い火傷の痕がある場所だと、セシリアは知っている。
「でも」
ネマーニャはそこで、ごく薄く息をついた。
「帰る場所がある旅は、思ったより怖くない」
ランプの火が、その言葉のあとで小さく揺れた。
セシリアは返事を急がなかった。
急ぐと、この胸の奥で広がったものを取り落としそうだったからだ。
窓の外では、雪が闇へ溶け続けている。
ここは途中の宿で、白梢の谷ではなく、王都でもない。なのに、彼が「帰る場所」と言った時、セシリアの頭に浮かんだのは、食堂の大卓と、煙の匂いのする天井と、遊技庭園の門札と、夕方の鍋を覗き込む彼の横顔だった。
「帰る場所は」
ようやく口を開く。
「あなたの席も含めて用意してあります」
言ってから、遅れて熱が上がってきた。
これは食堂主として自然な言葉なのか。それとも、そういうふりをしただけなのか。自分でも判別がつかないうちに、頬が先に白旗を上げた。
ネマーニャのほうも同じだった。
彼は何か言いかけてやめ、珍しく視線をどこへ置くべきか迷っている。耳までわずかに赤くなっているのを見てしまい、セシリアはますます困った。
「……席、ですか」
「はい」
「帳場の横ですか」
「そこがいちばん落ち着いておられますから」
「そうですか」
「そうです」
会話が妙に細切れになる。
けれど、嫌ではない。
むしろ、この不器用なやり取りごと、大事にしまっておきたいと思った。
ネマーニャは咳払いをひとつして、ようやく口元を少し緩めた。
「では、帰らないわけにはいきません」
「ええ。困ります」
「先生不在で書類が滞ります」
「それだけですか」
「……それだけでは、ありません」
最後の言葉は、宿の壁に吸われるほど小さかった。
それでも、確かに届いた。
翌朝は、前日よりさらに冷え込んだ。
桶の水面が薄く張り、馬の吐く息が白く長い。だが風は弱まり、峠越えにはむしろ好都合だった。
朝のうちに継ぎ宿を出ると、道は次第に下りへ変わる。
高い針葉樹の列が途切れ、凍った川沿いの街道へ出る頃には、遠くの空がわずかに明るく開けていた。
その途中、王都側から来る荷馬車とすれ違う。
相手は王都商人らしく、こちらの荷を一目見るなり、訝しげに眉を寄せた。谷の名を聞くと、鼻で笑う者もいた。
「そんな北のはずれから、審理へ?」
「雪の中を好き好んで?」
だがプラチャンは御者台から一歩も引かない。
「好き好んではない。取り返しに行くだけだ」
それだけで十分だった。
商人たちはそれ以上何も言わず、車輪の音を鳴らして去っていった。
昼過ぎ、丘を一つ越えたところで、アルベルトが前方を指差した。
「見える」
セシリアは窓布を上げる。
雪曇りの向こう、灰青の空の下に、尖塔がいくつも突き出ていた。
王都。
塔も、城壁も、あの頃と形は変わっていないはずなのに、以前より遠く見える。
たぶん、自分の立つ場所が変わったからだ。
かつては、あの中に居場所を探していた。
今は違う。
あそこへ行くのは、白梢の谷へ帰るためだった。
馬車の中で、書類箱が小さく鳴る。
ネマーニャがその蓋へ手を置き、セシリアは自分の膝の上で指を組んだ。
恐れは消えていない。
けれど、恐れだけでもない。
橋の縄の感触も、食堂の湯気も、雪の遊技庭園も、大卓の席も、皆の声も、ちゃんと背に積んできた。
御者台でプラチャンが短く言う。
「着いたら、まず宿。次に馬。次に審理院までの道確認」
「その次に」
アルベルトが応じる。
「勝つ」
白い道の先で、王都の門が少しずつ大きくなっていく。
セシリアは窓布を下ろさず、まっすぐ前を見た。
雪を越えた先で待つのが、冷たい紙と、古い名前と、王城の石壁であっても。
帰る席は、もう後ろにある。
だから彼女は、二度と俯かない。




