第25話 昼下がりの遊園地、ふたたび
セシリア・ハクショウという新しい名が紙へ定着してから二日、白梢の谷はどこか息を浅くしていた。
食堂の朝はいつも通りに始まる。薪が鳴り、鍋が温まり、パン生地が布の下で静かに膨らむ。けれど、その「いつも通り」の中へ、王都という言葉だけがうすい氷みたいに混じっていた。
帳場ではプラチャンが納品控えを何度も見直し、診療所前ではアンナが包帯棚の残りを指で数え、レクシーは盆を運びながらも、入口の戸が鳴るたび一瞬だけ肩を強ばらせる。子どもたちまで、食後にすぐ外へ飛び出さず、食堂の隅で声を潜めていた。
王都へ出す副本の束。
監査の返答待ち。
いつ届くかわからない召喚状。
紙切れはまだ火も噴いていないのに、人の背中だけは少しずつ丸めていく。
昼前、セシリアは裏口の水桶を運びながら、ふと遊技庭園の方を見た。
冬の光の下で、門札が静かに立っている。
『白梢の谷 昼下がりの遊園地』
ネマーニャが打ったあの札は、寒い日でも見る者の胸のどこかへ小さな灯を置く。けれど今日は、通りがかる大人たちでさえ視線を向けるだけで足を止めなかった。
楽しい場所がある。
それを知っていても、そこへ向かう気力が萎む日がある。
たぶん今が、そういう日だった。
セシリアは水桶を下ろし、濡れた手袋のまましばらく門札を見つめた。
守りたいものは、いつも大きな鍋や書類束の中だけにあるわけではない。午後の二刻。木馬の揺れ。滑り台のあとで赤くなる鼻先。仕事の話をしないで済む半刻。そういうものが失われる時、人は思っている以上に静かに痩せる。
彼女は踵を返した。
鍋の火加減を見るためではない。昼のまかないを盛りつけるためでもない。
今日は、別の順番で皆を集める必要があった。
◇
「今日の午後、遊技庭園を開けませんか」
昼のまかないに、豆と燻肉の煮込みを配り終えたところで、セシリアは長卓へ向かってそう言った。
匙の動きが、あちこちで止まる。
「開いてるだろ。札は掛かったままだ」
プラチャンが言う。
「子ども向けにはね」
レクシーが補う。
「そうではなくて」
セシリアは首を振った。
「今日は、大人も入園可です」
長卓の端で、トトがぱっと顔を上げた。
「おとなも?」
「ええ。ユノも、トトも、木こりさんも、洗濯場の方も、橋番の人も、皆です」
数拍遅れて、アンナが吹き出した。
「それはまた、ずいぶん思いきったわね」
「必要だと思いました」
「必要、ねえ」
プラチャンは煮込みの椀を持ったまま眉を寄せる。
「今の谷でいちばん足りてないのが遊びとは、言い切りにくいが」
「今の谷でいちばん足りてないのは、顔を上げる時間です」
言ってから、セシリアは自分でも少し驚いた。
けれど口にしてみると、鍋の底へ沈んでいた言葉がようやく掬えた気がした。
「皆さん、食べる量は戻ってきました。眠れる日も増えました。でもこの二日は、湯気の向こうで目だけが忙しいんです。何か届く前から、何かに負ける顔をしています」
ミルコフが腕を組んだまま、短く鼻を鳴らした。
「その顔で罠張ると、指を切る」
「ほら」
レクシーがすぐ乗る。
「巡回士のお墨付きまで出たわ」
「お墨付きではない」
「似たようなものよ」
長卓の上で、くすりと小さな笑いが転がった。
それだけで、さっきまで固かった空気がほんのわずかにほどける。
ネマーニャはしばらく黙って椀の縁へ視線を落としていたが、やがて顔を上げた。
「半刻なら取れます」
「先生」
「午後の作業を前倒しにして、見回り番は組み直す。食堂側は持ち帰りを増やす。入園札と注意書きは私が打ちます」
「もう乗ってくれるんですね」
「乗るとは言っていません」
「言葉の選び方がずるい」
アンナが呆れたように言う。
すると、トトが身を乗り出した。
「せんせいも、のる?」
「乗りません」
「まだきいてない」
「今聞かれたので今答えました」
トトは納得していない顔をしたが、そのやり取りで今度は長卓のあちこちから、もう少し大きな笑いが起きた。
プラチャンは匙を置き、しばらく天井を見たあと、観念したように言う。
「……わかった。午後の材運びは一刻ずらす。代わりに午前中のうちに雪掻きと柵見回りは終わらせる。遊ぶなら、仕事の顔で遊ぶなよ」
「難しい注文ですね」
セシリアが言うと、彼は肩をすくめた。
「だから練習だ」
◇
午後の支度は、思っていた以上に本気だった。
アンナは診療所の布棚から丈夫な端切れを選び、輪投げ用の布輪を二十本も縫った。プラチャンは空き樽を三つ転がしてきて、子どもでも倒せる軽さの的へ作り替える。ミルコフは遊技庭園の隅に残っていた細い坂を雪で均し、小さな橇滑りの一角を作った。レクシーは木箱の中へくじ札を入れ、当たりが出たら焼きりんご串を一本渡す仕組みまで考えた。
ネマーニャは入口の門柱へ、新しい札を一枚増やした。
『本日 大人も入園可』
その下へさらに、
『走る前に笑うこと』
と打ち添えたものだから、セシリアは思わず二度見した。
「先生、とうとう札で冗談を言うようになったんですね」
「冗談ではありません」
「では本気で?」
「むしろ本気です。怒った顔のまま輪投げをすると、外した時に空気が悪くなります」
「具体的すぎます」
セシリアは笑いながら、食堂の裏で焼きりんごの鍋を回した。
芯を抜いた小ぶりの林檎へ、蜂蜜と少しの香辛料、刻んだ木の実を詰める。冷たい風の中でも指先がかじかまないよう、生地で包んで串へ通し、最後に熱い蜜を刷毛で塗る。口に入れると頬の内側からじんわり温まり、甘さのあとに少しだけ息が軽くなるような味を目指した。
名前はまだつけていない。
つければ、たぶんまたレクシーが妙なものを考える。
今日はそれでいい気もしたが、少なくとも自分からは言い出さないでおこうと決めた。
開園の時刻が近づくと、子どもたちだけでなく、大人たちまで妙に落ち着かなくなった。
橋番を終えた男が「ちょっと様子を見に来ただけだ」と言い訳しながら門のそばへ立ち、洗濯場の女たちは「布輪の強度確認よ」と真面目な顔で輪投げ台を覗く。アルベルトまで、外套の襟を整えながら何食わぬ顔で現れた。
「殿下も来られたんですね」
セシリアが言うと、彼は咳払いをした。
「今日は、殿下ではなく手伝いだ」
「王族の手伝い、遊技庭園向きではありませんね」
「だから、その……一般参加で頼む」
レクシーがその背後で、肩を震わせながら俯いた。
◇
午後の鐘代わりに、プラチャンが木片を二度打ち鳴らした。
「半刻だけだ! 子ども優先! 大人は泣くな!」
最後の一言で、すでに泣く準備をしていたわけでもない大人たちが一斉に抗議し、遊技庭園は開始早々から騒がしくなった。
木馬にはユノとトトが並び、橇滑りの小坂にはもう三人ほど列ができる。輪投げ台ではアンナが子どもの手首の角度を直し、樽倒しではマルダ婆さんが誰より真剣な顔で球の重さを見比べていた。
アルベルトはくじ札の箱の前で立ち尽くしていたが、トトに袖を引かれた。
「おうじさまも、ひく?」
「私も?」
「きょうは、おとなも」
その一言に逃げ道を塞がれたらしく、彼はたいへん慎重な手つきで箱へ指を入れた。引いた札には、ネマーニャの整った文字でこう打たれている。
『滑り台 一回』
見た瞬間、プラチャンが盛大に吹いた。
「できすぎだろ!」
「公平なくじです」
ネマーニャは真顔で言う。
「公平に殿下を滑らせるなくじです」
レクシーが追い打ちをかける。
アルベルトはしばらく札を見つめたあと、腹を括った顔で滑り台の方へ向かった。
そこへ、仕事着のまま来ていたプラチャンが「じゃあ俺が安全確認だ」と並び、なぜか二人続けて階段を上ることになる。
子どもたちは大喜びだった。
「おとながふたり!」
「どっちがはやい?」
「ころんだらだめだよ!」
だが、滑り台は元々、王族の幼い子ども用に作られていたものだ。
大人の男が二人並ぶには、どう考えても狭い。
アルベルトがぎこちなく腰を下ろし、プラチャンが工具袋をどこへ置くか迷っているうちに、トトが待ちきれず叫んだ。
「いっせーのーで!」
二人はほぼ同時に滑った。
正確には、滑ろうとした。
先に動いたのはアルベルトだった。だが外套の裾が引っかかって勢いが鈍り、その背に半歩遅れたプラチャンの膝が当たる。前へ行きたい王族と、止まれない荷運び頭が一つの塊になり、そのまま雪の着地点へずるりと落ちた。
どさっ。
一拍遅れて、遊技庭園の真ん中で、大きな笑い声が上がった。
誰か一人ではない。
子どもたちも、見物の大人たちも、アンナも、レクシーも、ミルコフまで口元を押さえている。
そして、その中に。
ネマーニャの声があった。
短く、堪えきれずこぼれたような笑いだった。
乾いた吐息ではなく、喉の奥からきちんと出た音。肩が一度揺れ、灰色の瞳が細まり、いつもならまっすぐ結ばれている口元が、はっきりとほどける。
セシリアはその顔を見て、手にしていた焼きりんご串の皿を危うく取り落としそうになった。
知っているつもりだった。
この人がやわらかく目を細めることも、子ども相手に声が低くなることも、無表情のまま人のために徹夜することも。
けれど、こんなふうに、楽しいから笑う顔は、まだ知らなかった。
知らなかったものは、思っていたよりずっと胸へ響く。
「見た?」
いつのまにか隣へ来ていたレクシーが、肘でそっとつついた。
「……はい」
「だめね、その返事」
「何がですか」
「完全に見惚れた人の返事よ」
「そんなこと」
「あるわ」
否定しようとしたのに、頬が先に熱くなる。
レクシーはそれを見て、声を出さずに笑った。
「王都へ行く前に、そんな顔を覚えたのは危ないわね」
「危ないって何がですか」
「帰ってきたくなる理由が、また一つ増えるってこと」
その言葉へ、セシリアは反論できなかった。
遊技庭園では、転んだ二人がようやく起き上がっていた。アルベルトの肩には雪が積もり、プラチャンの工具袋から木釘が二本飛び出している。トトは腹を抱えて笑い、ユノは「だからいっぺんにだめって書いとけばよかった」と、妙に真面目な反省を口にした。
「次回から打ちます」
ネマーニャがまだ笑いの余韻を残した声で言う。
「大人は一人ずつ滑ること」
「遅い!」
プラチャンが雪を払いながら抗議した。
そのあとも、午後の遊技庭園は賑やかだった。
マルダ婆さんは輪投げで五本中四本を決め、賞品の焼きりんご串を二本も獲得した。ミルコフは橇滑りの終点で子どもを受け止める役に回っていたのに、トトから「ミルコフもすべる」と指名され、結局一度だけ小坂を降りる羽目になる。長い脚をどう畳んでも窮屈そうだったが、着地点で待っていたユノとトトに拍手されると、困ったように耳を伏せた。
アンナは輪投げ台の横で小さな破れを見つけるたび針を入れ、レクシーは賞品の数が合うたび「先生、台帳に」と言い、ネマーニャは本当に遊技庭園の仮台帳を作り始めた。
「そこまで残す必要ありますか」
セシリアが聞くと、彼は当然の顔で答える。
「楽しかった記録ほど、後で効きます」
「後で?」
「辛い日に見返した時です」
その言葉が、胸のちょうど痛い場所へ落ちた。
セシリアは門のそばへ立ち、遊技庭園を見渡した。
雪を蹴る靴音。樽が倒れる乾いた音。輪投げの布輪が杭へ引っかかる時の軽い音。焼きりんごの甘い匂い。笑って、転んで、起きて、また並ぶ人たち。そこには王都も、公爵家も、監査の印もない。ただ、午後の二刻を惜しむ人たちがいた。
守りたい。
その気持ちは前からあった。
飢えた皿を見た時から。凍えた指先を見た時から。
でも今は、もっと輪郭がはっきりしていた。
守りたいのは命だけではない。こういう無駄に見える時間ごと、この谷の暮らしなのだ。
日が傾く頃、ネマーニャが隣へ来た。
湯気の立つ小さな椀を差し出される。焼きりんごの蜜を溶いた温い飲みものだった。
「食堂主が冷えてはいけません」
「先生もです」
「私は先ほど笑ったので少し温まりました」
さらりと言われて、セシリアの心臓がまた跳ねた。
この人は自分がどんな顔を見せたのか、わかっているのだろうか。いや、たぶんわかっていないから困るのだ。
ネマーニャは遊技庭園の方を見たまま、静かに言った。
「こういう午後を残すために、王都へ行きます」
セシリアは椀を両手で包んだ。
あたたかい。
指先だけでなく、胸の奥へも熱が染みる。
「はい」
彼女は答えた。
「鍋も、看板も、遊技庭園も、戻ってきたらまた開けられるように」
「戻ります」
「ええ」
「あなたの席も、私の席も、もうありますから」
ネマーニャは一度だけ目を閉じ、それから短く頷いた。
その横顔は笑ってはいなかったが、さっきの笑いがまだどこかへ残っているように見えた。
閉園の時刻になり、プラチャンが再び木片を打ち鳴らす。
「今日はここまで! 大人も文句言うな!」
「言ってないわよ」
「顔が言ってる」
「明日もやるなら許す」
「交渉が早い!」
そんな声を背に、子どもたちは名残惜しそうに門をくぐった。
アルベルトは外套についた雪を払いながら、「王都の庭園よりよほどよい」と小さく呟き、マルダ婆さんは賞品の串を一本トトへ分けてやっていた。
夕方、食堂へ戻る直前。
坂の下から一台の馬車が現れた。
王都の青い封蝋を押した筒を抱えた伝令が、凍った道を慎重に上ってくる。
遊技庭園にいた何人かが、その色に気づいて顔をこわばらせた。
けれど今度は、誰も俯かなかった。
セシリアは門札を一度だけ見上げた。
『白梢の谷 昼下がりの遊園地』
その下で、ネマーニャがいつのまにか、新しい小さな札を打っている。
『戻ったら、また明日の午後に』
淡い光が冬の夕暮れへ浮かび上がる。
王都から来る紙は、きっと冷たい。
それでも帰る場所の札がこうして先に灯っているのなら、雪の道も少しだけ短く思えた。




