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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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24/32

第24話 新しい名を打つ夜

 その日の白梢の谷は、日が落ちるのが早かった。


 昼にベルマンたちの馬車が去ってから、広場にはいったん安堵の笑いが戻ったものの、夕暮れが近づくにつれて、今度は別の種類の静けさが町を包み始めた。雪の匂いを含んだ風が、食堂の煙突の先で細く鳴る。勝った負けたではない。ここから何を揃え、どの順で打ち返すか。その現実が、ひとりずつの背中へ落ちてきていた。


 診療所裏の簡易台でまとめた証言の紙束は、食堂の奥の長卓へ運び込まれた。侮辱発言の記録。救援物資の不一致。営業実績。診療所の栄養改善記録。共同炊事の分配簿。遊技庭園の修繕協力名簿。読み書き教室の出席札。どれも、これまでは「いつか要るかもしれないから」と積み上げてきたものばかりだ。


 それが今夜は、違う重さで卓の上に並んでいた。


 セシリアは蝋燭へ火を移しながら、その紙の山を見つめた。ひと束ずつに、誰かの顔が浮かぶ。病み上がりの子どもへ運んだ粥。雪道帰りの木こりたちへ渡した塩のきいた煮込み。びしょ濡れの荷運び班へ配った熱い茶。そういう皿の延長線上に、書類がある。以前の彼女なら、そんなことは想像もしなかっただろう。


 「先に腹へ入れましょう」


 レクシーが言って、大鍋の蓋を開けた。中には、鶏の骨と冬人参と玉ねぎを長く煮出した澄まし汁が入っている。刻んだ香草が浮き、湯気にまじって、ほっとする匂いが広がった。


 「今日は手が冷える仕事ばっかりだもの。指が強張ったままじゃ署名もきれいに書けないわ」

 「署名の前に飲ませるの、いかにもセシリアさんっぽい」

 マリカが笑う。

 「空腹の字は荒れるからな」

 プラチャンも真顔で頷いた。

 「それ、理屈として合ってるのかしら」

 「合ってなくても、うまいからいいのよ」


 アンナの言葉で、長卓のまわりに少しだけ笑いが戻る。


 セシリアは椀へ澄まし汁をよそった。今夜の汁は、力を奮い立たせるためではなく、気持ちのささくれをほどくための味にした。塩は強すぎず、喉に落ちる時に胸のあたりが静かになるよう、玉ねぎの甘みを最後まで待った。証人になる人たちが、勢いだけでなく、自分の意志で名を書くための一椀だった。


 「どうぞ」

 最初に差し出したのは、ネマーニャだった。


 彼はいつもの席ではなく、魔導タイプライターを据えた卓の端に立っている。器を受け取る指先に、ほんのわずかに力がこもった。火災の話をしてから、彼は何かにつけてセシリアの顔色を確かめるようになっていたし、セシリアもまた、彼の指先の具合を見るようになっていた。


 「ありがとう」

 彼は言って、ひと口だけ静かに飲んだ。

 その喉仏がわずかに動くのを見て、セシリアは自分の胸の奥まで少し落ち着くのを感じた。


 全員へ行き渡ったころ、ヤン爺さんが椀を両手で包んだまま、咳払いをした。


 「それでだ」

 しわの深い手の甲へ、蝋燭の光が揺れる。

 「今日中にできるものと、明日に回すものを分けよう。王都のやつらは、こっちが夜だからって待っちゃくれん」

 「うん」

 ユノが頷き、慌てて口を押さえる。子どもが割って入る場ではないとわかっているのだろう。

 だがネマーニャは首を横に振らなかった。


 「ユノも、トトも、今夜ここにいていい」

 彼は穏やかに言う。

 「聞いて覚えることもある」

 「……うん」

 今度はトトまで小さく頷いた。


 プラチャンが板切れへ炭で項目を書き並べていく。

 「侮辱発言の証人整理、これは今夜。営業実績の抜け確認、これも今夜。搬入記録と納税控えの照合、夜明けまでに半分。問題は」

 彼が炭を止める。

 「正式名だ」


 食堂の空気が、少しだけ変わった。


 誰も騒がなかった。

 けれど、そこだけは今夜の中心にあると、全員が知っていた。


 セシリアは、自分の椀を持つ手へ視線を落とした。温かいはずの縁が、急に熱く感じる。


 正式名。

 公的登録名。

 それがなければ、長期営業権も、土地権も、婚姻も、谷の代表としての資格も弱いままになる。逆に言えば、その名を定めれば、もう後戻りのしようがない。父の家へ戻る道を閉ざすのではない。もっとはっきりと、自分の足で別の道を選ぶことになる。


 「急がせたくはありませんが」

 ネマーニャが言った。

 「今日の証言熱が残っているうちに、登録書式まで進められるなら、その方が強いです。副本を整えて王都へ持ち込む流れも早くなる」


 そこまで説明してから、彼は一拍置いた。

 「ですが、決めるのはあなたです」


 セシリアは顔を上げた。


 彼はいつもの無表情に近い顔をしていたが、近くにいるとわかる。急かしていないのではない。急かしたくないのだ。自分が打つ文字が、誰かの一生を縛るものになり得ることを、この人は知っている。


 だからこそ、前に進むなら、自分で言わなければならない。


 「……候補はいくつか、ありました」

 セシリアはゆっくり言った。

 「以前、レクシーさんとアンナさんに相談した時に、少しだけ」

 「あったわね」

 レクシーが頷く。

 「花の名とか、川の名とか、やわらかい響きのものをいくつか」

 「でも、どれもしっくり来なくて」

 セシリアは笑った。困ったような、小さな笑いだった。

 「きれいすぎたんです。私には」


 その言葉に、アンナがすぐ眉を寄せる。

 「何それ。似合う似合わないを、また自分だけで決めてる顔」

 「そういうつもりじゃ」

 「あるでしょう」

 ぴしゃりと言い切られて、セシリアは少しだけ目を丸くした。


 アンナは椀を置き、彼女の前へ来る。


 「きれいな名が似合わないんじゃないの。王都で、きれいなものを誰かの飾りにされるのが嫌だっただけでしょう」

 「……」

 「そこを混ぜると決まらないわよ」

 アンナはため息混じりに言った。

 「名は飾りじゃなくて、暮らしで着るものなんだから」


 暮らしで着るもの。


 その言い方が、胸へ残る。

 豪奢なドレスではなく、雪の日に迷わず手を伸ばせる外套のようなもの。汚れても直して、また着るもの。そう思えば、少しだけ怖さの形が変わった。


 ネマーニャが卓の端に寄りかかるでもなく、まっすぐ立ったまま問う。

 「いま、あなたの中に残っている候補はありますか」

 「……ひとつだけ」

 セシリアは答えた。

 「でも、まだ、口にするのが少し怖いです」

 「では」

 ネマーニャは言う。

 「紙に書いてみましょう。声にする前でも、字にすると見えることがあります」


 彼は子どもたちの読み書き教室で使っている練習紙を一枚差し出した。

 罫線は広めで、余白が多い。

 失敗しても、次の行がある紙。


 セシリアは羽根ペンを取り、しばらく手元を見つめた。


 白梢の谷。

 自分が最初に見たのは、雪をかぶった白い枝だった。空の倉庫。壊れた看板。痩せた兄妹。そこへ無言で「食堂」と打ち出した人。あの時は、名を聞かれても答えられなかった。けれど今、谷の人たちが自分の皿を守ると言ってくれた。


 王都の家名は、血筋で与えられたものだった。

 では、ここで選ぶ名は何でできているのか。


 皿の温度。

 雪道の足跡。

 呼ばれた声。

 帰る場所。


 セシリアは、ゆっくりと字を書いた。


 ハクショウ。


 漢字ではなく、まず音で。

 どこの土地へ持って行っても、余計な家紋がつかないように。


 「白梢の谷の、ハクショウです」

 言ってから、ようやく皆を見る。

 「枝の白さだけじゃなくて、冬を越えても折れずに残る音として、持ちたいと思いました。……ここで生きると決めた日に、最初に見た景色なので」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 否定ではない。

 その名が、ひとりずつの胸へ落ちる時間だった。


 最初に息を吐いたのはレクシーだった。

 「うん」

 それだけ言って、目元を押さえる。

 「泣くならまだ早い」

 アンナが呆れたように言う。

 「だって、もう、すごくその人なんだもの」

 「その人って雑」

 「雑じゃないわよ。ちゃんと、その人」


 マリカは頷き、プラチャンは「帳簿の見出しにも書きやすい」と妙に実務的なことを言い、ユノとトトは小声で「はくしょう」「せしりあ・はくしょう」と練習し始めた。ミルコフだけは黙っていたが、耳が少しだけ前を向いている。


 ヤン爺さんが低く言う。

 「谷の名を背負うんじゃないな。谷と並んで立つ名だ」

 「はい」

 セシリアは答えた。

 その返事は、自分でも驚くほどまっすぐ出た。


 ネマーニャはまだ何も言わなかった。

 彼は紙の上の文字を見て、それからセシリアを見た。確認するように、もう一度。


 「公的登録名を、セシリア・ハクショウと定めますか」

 打鍵術師の声だった。

 優しさより先に、形式を整える声。

 けれど、その奥にある震えを、セシリアは聞き逃さなかった。


 「はい」

 彼女は答える。

 「私の公的登録名を、セシリア・ハクショウと定めます」


 魔導タイプライターの奥の魔石が、かすかに灯った。


 そこからの時間は、ゆっくりでいて、あっという間でもあった。


 ネマーニャが登録用の書式を引き出しから選び、王立記録院の正式書式へ差し替える。旧家名との切離し確認。暫定個人登録番号との照合。新登録名の希望表記。通称地との関連性。本人の自由意思の確認。営業継続の必要性。証人欄。補助証言欄。副本発行の希望数。


 「正式証人は五名」

 ネマーニャが淡々と告げる。

 「成人で、継続的に本人の生活基盤を知る者」

 「じゃあ、俺は入る」

 プラチャンが即答した。

 「荷運びと営業実績を数字で言える」

 「私も」

 アンナが言う。

 「診療所と衣服の補修記録がある」

 「帳場と食堂の実働は私」

 レクシーも続く。

 「なら巡回記録は俺だ」

 ミルコフが短く言う。

 「夜間の安全確保と住民保護の継続証言を出せる」


 あと一人。

 ヤン爺さんが口を開きかけた時、奥から別の声がした。


 「王族立会いの補助署名なら、私が入れます」


 食堂の戸口に立っていたのは、アルベルトだった。昼間の外套を脱ぎ、目立たない濃紺の上着に着替えている。それでも、立ち姿には王都の訓練が残る。


 「出しゃばるつもりはない」

 彼はすぐ付け足した。

 「だが、王前審理へ繋げるなら、今日この場に私がいたことは書式上も意味がある。君が嫌でなければ」


 嫌かどうか。

 少し前のセシリアなら、その問いに長く迷ったかもしれない。

 けれど今は、首を横に振れた。


 「お願いします」

 彼女は言う。

 「庇えなかったことを、帳消しにはしません。でも、今日の仕事は別です」

 アルベルトは一度だけ目を伏せ、それから頷いた。

 「それで十分だ」


 証人が決まり、長卓の空気がまた少し締まる。


 ネマーニャは各人へ欄を割り振り、必要事項を読み上げた。読み書き教室で字を習ったばかりの者でも迷わないように、言葉を細かく区切る。氏名。現在の居所。被証人との関係。知り得た期間。継続実績。自由意思確認の立会い。


 昔なら、こうした紙は王都の屋敷の執事や法務係が遠ざけるように持っていくものだった。けれど今夜は、谷の人たちが自分の名を、自分の手で書く。読める字で。震えながらでも。


 レクシーは舌先を少し出して、いつもより丁寧に署名した。

 アンナはまっすぐで、針の目みたいに揃った字を書く。

 プラチャンの字は角ばっているが、数字が妙に美しい。

 ミルコフは最初だけ眉をしかめ、それでも途中から迷わず筆を進めた。

 アルベルトの署名は、王族らしく無駄がなく、その隣に押された確認印だけが少し冷たい光を返した。


 正式証人欄の外側には、補助証言欄が設けられた。

 ユノとトトは、法的証人にはなれない。けれど「日常的保護と継続居住の実態を示す補助記述」は添付できるとネマーニャが説明すると、二人は真剣な顔で練習紙を前へ寄せた。


 「なまえ、わすれないって、かいていい?」

 トトが聞く。

 ネマーニャは目線を合わせ、頷いた。

 「いい。短くても、自分で書いたなら有効です」

 「じゃあ書く」

 ユノが先にペンを取る。


 その姿を見て、セシリアは胸の奥がくしゃりと鳴るのを感じた。


 自分の名を持つ夜に、子どもたちもまた、自分の字で誰かを支える。

 あの読み書き教室の灯りは、ここへ繋がっていたのだ。


 すべての署名と証言が揃った時には、窓の外は完全に夜になっていた。雪がまた細かく降り始め、戸板の隙間で風が低く鳴る。食堂の中だけが、蝋燭の火とかまどの赤さで別の時間を保っていた。


 ネマーニャは最後の確認紙を整え、タイプライターの前へ座った。


 誰も声を立てなかった。

 ユノでさえ、椅子のきしみを怖がるみたいに動きを止める。


 登録名の打鍵は、ただ字を写すだけではない。

 本人が受け入れる名かどうか。強制ではないか。証言と矛盾がないか。書式全体がひとつの誓いとして噛み合っているか。打鍵術師は、指先でそれを確かめながら進める。


 ネマーニャの右手が、最初の鍵へ触れた。


 かすかに、震えた。


 セシリアは息を止める。

 彼もまた、自分の震えに気づいているはずだった。火災の夜以来、未来へ関わる術式ほど、彼の手は過去を思い出す。守れなかった名前。書き切れなかった書類。燃えた紙束。


 けれど今夜の震えは、それだけではないのだと、セシリアにはわかった。


 この人は、怖がっている。

 間違えることをではなく、自分の打つ文字が、誰かの選び直した人生へちゃんと届くかどうかを。


 「ネマーニャさん」

 思わず呼ぶと、彼の肩がわずかに揺れた。


 セシリアは長卓の向こうから、けれど手出しをしない距離で言う。


 「私は、この名を選びました」

 ゆっくり、一語ずつ。

 「誰かに言われたからではありません。追われたからでも、怯えたからでもありません。白梢の谷で生きるために、自分で選びました」

 彼の目を見る。

 「だから、打ってください」


 ネマーニャは何も答えなかった。

 ただ一度、深く息を吸った。


 それから、指が落ちた。


 カン、と乾いた音。

 続いて、迷いのない連打。


 セ。

 シ。

 リ。

 ア。


 ひと文字ごとに、白い紙へ黒い字が現れるたび、食堂の空気が少しずつ変わる。誰もが見守っているのに、不思議と静けさは壊れない。むしろ打鍵の音だけが、雪の夜の中で道をつくっていくようだった。


 小さな間を置いて、姓が始まる。


 ハ。

 ク。

 ショ。

 ウ。


 最後の打鍵が落ちた瞬間、用紙の縁を走る魔導罫線が淡く青く光った。

 旧家名との紐付け確認。

 暫定個人登録番号との一致。

 本人意思の承認。

 証人五名の照合。

 立会補助署名の有効化。


 ひとつずつ、まるで夜の中へ灯りが入るみたいに、印が浮かび上がっていく。


 そして、紙の中央下へ新しい承認紋が定着した。


 セシリアは、そこでようやく息を吐いた。

 自分がどれほど肩へ力を入れていたのか、抜けてから気づく。


 「……できた」

 プラチャンが小さく言う。

 「できたわね」

 レクシーの声は、泣きそうなのを堪えている。

 「まだ副本を取る」

 ネマーニャだけが、いつもの調子を崩さない。


 けれど、その声の最後が少しだけ掠れていた。


 副本が二通、三通と打ち出される。王都提出用。谷保管用。本人所持用。文字の並びは同じなのに、一枚ごとに重みが違って見える。セシリアはそのうちの一枚を受け取った。


 そこには確かに書かれていた。


 セシリア・ハクショウ。


 もう空欄ではない。

 けれど誰かにあてがわれた札でもない。


 その名を見た途端、胸の奥のどこかが静かに嵌まる音がした。大きな感動ではなかった。泣き崩れるような劇的さでもない。もっと確かな、冬の扉がきちんと閉まった時みたいな感覚だった。


 「呼んでみてもいい?」

 トトがそわそわしながら聞く。

 セシリアは笑って頷いた。


 トトは背筋を伸ばし、やけに丁寧な声で言う。

 「セシリア・ハクショウさん」

 隣でユノも真似をする。

 「セシリア・ハクショウさん」

 「長いな」

 プラチャンがぼやく。

 「最初はそういうもんでしょう」

 アンナが返す。

 「でも、いい響き」

 マリカが言う。

 「寒い土地の音なのに、ちゃんとあったかい」


 ヤン爺さんは鼻を鳴らし、「明日から帳簿の表紙を直さんとな」と呟いた。

 ミルコフだけは腕を組んだまま何も言わなかったが、尻尾の先が一度だけゆっくり揺れた。


 アルベルトは少し離れた位置で新登録証を見つめ、それから静かに頭を下げた。

 「よい名だ」

 その言葉に、昔なら混じっていたはずの王都の重さはなかった。


 ネマーニャは最後の副本を整え、紙束の角を揃えた。

 その手は、もう震えていない。


 セシリアはふと、最初に名前を問われた日のことを思い出した。

 あの時この人は、壊れた看板へ「食堂」と打ち出したあと、余計な慰めも憐れみもなしに、次は何と呼ばれたいと聞いた。

 答えられなかった。

 けれど今なら、答えがある。


 「ネマーニャさん」

 「はい」


 彼が顔を上げる。

 蝋燭の火が、灰色の瞳へ小さく映る。


 「ありがとうございます」

 セシリアは言った。

 「名前を急がせず、でも逃がさず、ここまで持ってきてくださって」


 彼は少しだけ目を細めた。

 考える間のような、呼吸の間のような、短い沈黙。


 それから、ごく自然な声で言った。


 「似合う」


 たった一言だった。


 形式の説明でも、書類上の確認でもない。

 打鍵術師でも記録係でもなく、ただ彼自身が口にした言葉だった。


 その瞬間、セシリアの胸の奥で、さっききちんと閉まったはずの扉が、今度は別の熱でふっと開いた。頬が熱くなる。どう返せばいいのかわからない。ありがとうでは足りない気がして、だからといって別の言葉も見つからない。


 助けを求めるみたいにレクシーの方を見たら、彼女は両手で口を押さえ、肩を震わせていた。

 「だめ」

 小声で言う。

 「今のはだめ。聞いた? 皆、聞いた?」

 「聞こえた」

 プラチャンが真顔で頷く。

 「今のは帳簿じゃなくて別帳面だな」

 「ありがとう帳の新しい頁ね」

 マリカがすかさず言う。

 「書かないでください」

 セシリアは思わず言ったが、声がまるで効かない。


 ユノとトトはきょとんとしているだけだが、アンナは呆れ半分の顔で天井を仰いだ。

 「こんな大事な夜にまで、そういうこと挟む?」

 「挟んでない」

 ネマーニャは即答した。

 しかし耳が少しだけ赤い。

 「挟んでるのよ、それ」

 レクシーが涙目のまま言う。


 食堂に、やわらかい笑いが広がった。


 つい先ほどまで、証人欄と確認印と副本の枚数を数えていた場所なのに、その笑いがあるだけで、いつもの夕食後の空気へ少し似てくる。書類の夜でも、ここは食堂なのだと思う。


 セシリアは新登録証を胸へ抱いた。

 紙の角が、服越しにしっかり触れる。


 自分はもう、誰かに与えられた家名の中にはいない。

 白梢の谷で選び直した名を持ち、これから王都へ向かい、これから戦う。

 怖さがなくなったわけではない。父も、公爵家も、制度も、きっと簡単ではない。


 それでも、今夜は確かだった。


 この名は、雪の谷で、皆の署名と、あたたかい汁物の湯気と、打鍵の音の中で生まれた。

 そして、その最後に「似合う」と言ってくれる人がいた。


 窓の外では、白い枝へまた新しい雪が降り積もっていく。

 けれど食堂の中では、かまどの火も、蝋燭の火も、誰かの頬の赤みも、まだ消えそうになかった。



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