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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第23話 彼女の皿を守る人たち

 物置小屋から出ると、朝の光は思ったより強かった。


 さっきまで灰の匂いと古い紙の中にいたせいで、白梢の谷の空気がやけに新しく感じる。雪はもう柔らかく、通路の端では踏み固められた氷が薄く光っていた。けれど、馬車の前に立つ人影だけは、冬より硬いままだ。


 濃紺の外套に、磨いた長靴。雪道を来たはずなのに裾へ泥がほとんどついていないのは、谷へ入る手前で従者に払わせたのだろう。先頭に立つのは、やはりベルマンだった。前に来た時より手袋の革が上等になっている。後ろには若い従者が二人、そのさらに脇へ、見覚えのない文官風の男が控えていた。


 馬車の側面には、アスティリア公爵家の紋章。


 それを見た瞬間、セシリアの体のどこかが、少しだけ昔の姿勢を思い出しかけた。

 肩を狭くして、先に相手の機嫌を読む姿勢。

 けれど、その癖が戻りきる前に、半歩後ろからネマーニャの足音が重なる。さらにその向こうで、ミルコフが木靴の踵を鳴らした。


 白梢の谷は、もう王都の庭ではない。


 「ずいぶん大勢で迎えてくださるのですね」

 ベルマンが薄く笑った。

 「もっとも、歓迎ではなく警戒でしょうが」


 「用件を」

 セシリアは言った。


 ベルマンは彼女を見たあと、わざとらしく周囲へ視線を巡らせる。

 診療所の裏手の配膳台。共同炊事用の鍋。封印札の貼られた食堂の扉。雪を掻き分けて集まってきた住民たち。子どもたちはまだ少し離れた場所にいて、ユノとトトはマリカの後ろから半分だけ顔を出している。


 「公爵閣下からの最後の温情です」

 ベルマンは言った。

 「これ以上、娘君がこのような――」


 そこで一拍置き、彼は食堂と谷を見回した。


 「野蛮な流刑地で評判を擦り減らさぬよう、迎えを出された」


 空気が、ぴしりと鳴った気がした。


 声を荒げた者はまだいない。

 けれどミルコフの耳がすっと伏せられ、アンナの持つ薬缶の蓋が小さく鳴った。プラチャンは抱えていた書類束をゆっくり持ち直し、レクシーはありがとう帳を胸へ押し当てる。アルベルトも一歩だけ位置を変えたが、今はまだ口を挟まなかった。


 セシリアは一度だけ呼吸を整えた。


 「白梢の谷は、流刑地ではありません」

 「制度上は似たようなものです」

 ベルマンは肩をすくめる。

 「王都で余った者、行き場をなくした者、記録の端へ追いやられた者が流れ着き、寒さと欠乏の中で身を寄せ合う。貴族の娘が人生を賭けるには、あまりに下賤で、あまりに先のない土地だ」


 その言い方が、セシリアの胸の中の古い傷へ触れた。


 王都にいた頃、父の客人たちはよくそういう目で人を見た。

 価値のある者。

 使い道のある者。

 切っても惜しくない者。

 その線の外へ追いやられた者は、暮らしを持つ前に、まず数にされる。


 「帰還の準備を」

 ベルマンは続ける。

 「食堂ごっこはもう十分でしょう。閉鎖命令まで出た以上、ここでの評判づくりも失敗だ。正式名もなく、営業権も危うく、証人と呼べる身分の者もいない。これ以上この谷へしがみついても、あなたの価値がさらに下がるだけです」


 「価値」

 セシリアは小さく繰り返した。


 自分の声が、思ったより遠く聞こえた。

 さっきまでネマーニャの過去を聞いていた胸の中へ、今度は自分の昔の痛みが入ってくる。あの家では、誰かの前で笑った数も、うまく礼をした回数も、婚姻の釣り合いも、全部まとめて“価値”と呼ばれた。


 けれど今、その言葉をここで聞くと、鍋の匂いまで汚されたような気がした。


 「失敗ではありません」

 セシリアは言った。

 「私はここで働いています」


 「働く?」

 ベルマンは鼻で笑う。

 「炊き出し同然の真似事をして、読み書きを教え、子どもと遊んで、それで土地が守れると? あなたはまだ理解しておられない。谷を守るには、名前と爵位と資金が要るのです。情だけでは冬を越せません」


 「越えましたけど」

 ぽつりと声がした。


 皆が振り向く。

 言ったのは、いつも昼の一番遅い時間に食堂へ来る木こりの青年だった。名はオズワル。冬のあいだ何度も見ていたが、注文以外の言葉をセシリアはほとんど聞いたことがない。彼はいつも帽子を目深に被り、椀を空にすると静かに去っていく人だった。


 ベルマンが眉をひそめる。

 「何です」

 「だから」

 オズワルは帽子を脱ぎ、耳の後ろを掻いた。

 「情だけじゃ冬は越せねえ、って言ったでしょう。俺、越えましたけど」


 その声は大きくない。

 けれど、妙に遠くまで届いた。


 「去年の一の月の終わり、伐採班が雪崩で遅れて、三日まともな飯がなかった」

 彼は言った。

 「その時、この人の鍋で食いつないだ。椀一杯の麦と豆の煮込みだったけど、あれで手ぇ動いた。手が動いたから林縁の倒木処理に戻れた。戻れたから橋の材が切れた。橋が切れたから、今の荷馬車が通ってる」


 オズワルはそこで一度口を閉じる。

 言い慣れないのだろう。

 けれど引き下がらなかった。


 「俺はうまいこと言えません。でも、この人の皿で冬を越えた」


 ベルマンの口元の笑みが、わずかに固まった。


 「それは個人的な感想でしょう」

 「はい」

 今度は別の声がした。


 若い母親だった。読み書き教室へ子を連れて通っていた、細い三つ編みの女だ。彼女もまた、いつも食堂では先に子どもへ匙を持たせ、自分は残りを静かに食べるだけだった。


 「個人的です」

 彼女は子どもの肩へ手を置いたまま、まっすぐベルマンを見る。

 「でも、うちの家では大事でした。うちの子、去年の冬は熱が下がっても泣く元気もなくて、ずっと毛布の中で黙ってたんです。でも食堂へ通うようになって、ここで温かいの食べて、遊技庭園で走るようになって、この春は朝起きると先に『今日は何かな』って聞くんです」


 ベルマンは何か言い返そうとした。

 けれど彼女はその前に続けた。


 「それから、この人は、私の名前をちゃんと呼びました」

 少し震えた声で、しかしはっきりと。

 「ずっと誰かの妻とか、あの子の母とかじゃなくて、リッタさんって。こっち見て、ちゃんと」


 レクシーが胸の前でありがとう帳を抱き直す。

 アンナは薬缶を持つ手を少しだけ下ろした。


 セシリアは、何か言おうとして言えなかった。


 ただ鍋を出しただけだと思っていた。

 名を呼ぶのも、食堂では当たり前のことだと思っていた。

 けれど目の前の女の人は、その当たり前を、そんなふうに抱えていたのか。


 「この人に名で呼ばれた」

 リッタは言い切った。

 「それで、私はここへいていいんだって思えた」


 その一言が、セシリアの胸の奥へまっすぐ入る。

 父の家では、名は縛るために使われた。

 婚姻の席では、値踏みのために呼ばれた。

 でもここでは、自分が呼んだ名が、誰かを居ていい場所へ繋げていたのだ。


 ベルマンが咳払いをした。

 「情緒に訴える話で制度は覆りません」

 「制度の話ならあるぞ」

 プラチャンが言った。


 彼は抱えていた紙束の上から数枚を抜き、風で飛ばないよう親指で押さえた。

 「共同井戸の清掃参加簿。冬季炊き出し改め共同炊事の受領控え。橋板補修の労働分担表。読み書き教室の出席簿。営業停止中の無償配分記録。だいたいあんたらが欲しがる紙だ」

 「それを正式証拠と呼ぶには」

 「足りねえって顔してるな」

 プラチャンは鼻を鳴らす。

 「わかってる。だから今、集めてる最中だ。けどな、紙が足りねえから価値がねえ、って話は別だろ」


 ベルマンはあくまで冷ややかな顔を保とうとしていたが、目の奥には苛立ちが見え始めていた。

 公爵家の使者が辺境の広場で、黙っているはずの人間に一つずつ口を挟まれている。王都ならそこで衛兵を呼べば済む。

 だがここでは、相手が鍋を持つ手で、そのまま暮らしの正しさを差し出してくる。


 「白梢の谷の人間が何人集まろうと」

 ベルマンは声を強めた。

 「所詮は流されてきた者同士の慰め合いです。公的な名もなければ、由緒もない。娘君が戻れば、公爵家が正式な保護と婚姻の場を用意できる。ここに残れば、あなたはいずれこの谷と一緒に埋もれるだけだ」


 「埋もれてたのは、前の冬までだ」


 今度は老人だった。

 診療所帰りに必ず食堂の隅へ座り、薄い粥を静かに啜っていた男。セシリアは彼の名前を知っている。ヤン爺さん。けれど本人の前でそう呼んだことは一度しかない。気恥ずかしそうに笑っていたから、二度目からは少し遠慮した。


 老人は杖を雪へ突き、ベルマンを見た。


 「わしらはな、食うもんも字も、毎年ちょっとずつ足りんかった。足りんまま歳だけ取って、あとは雪の多い年に何人減るか、みたいな暮らしだった」

 彼の声はしわがれていたが、妙によく通った。

 「でもこの娘さんが来てから、子どもの頬へ色が戻った。診療所の待ち時間に、前より罵り合いが減った。仕事の段取りが紙になった。読めんかった名が、少しずつ読めるようになった」


 老人はそこで、セシリアへ一度だけ視線を向ける。


 「この人が来て、子どもが笑うようになった」


 ユノとトトが、マリカの後ろでぎゅっと手を繋ぎ直した。

 その近くにいた別の子どもまで、なぜか同じように指を絡める。


 セシリアは喉の奥が熱くなるのを感じた。

 泣くつもりではなかった。

 こんな場で、父の家の使者の前で、弱い顔を見せたくない。

 けれど、老人の言葉は、どこか守りの薄い場所へ入ってくる。


 自分は、役に立たなければここへいてはいけないと思っていた。

 だから毎朝鍋を見て、仕入れを数え、札を書き、足りないものを埋めてきた。

 誰かが笑うようになったかどうかなんて、ちゃんと考えたことがなかった。


 「くだらない」

 ベルマンが吐き捨てるように言った。

 「子どもの笑顔が、土地の権利や営業許可に変わるとでも?」


 「変わらねえよ」

 ミルコフが初めて口を開いた。


 低い声だった。

 それだけで、周囲の空気が少し沈む。


 「でも、だからって踏みにじっていい理由にもならねえ」


 彼はゆっくり一歩前へ出た。

 大きな体が馬車とベルマンの間へ入るだけで、従者の肩が強張る。


 「俺はここの番だ。門番でも、用心棒でも、雪かきでもいい。名前はどうでも働く。けどな、この食堂の灯りがついてから、夜回りの足音が変わった」

 「何の話です」

 「空腹で倒れるやつが減った。酔って喧嘩するやつも減った。帰る場所がない顔でふらつくやつが、ここで一度腹へ温かいもん入れてから寝るようになった」


 ミルコフはセシリアを見ないまま言う。

 「だから、この皿は俺の見張る範囲だ」


 皿。

 その言葉に、レクシーがとうとう一歩前へ出た。


 「だったら、これも見せなきゃね」

 彼女は胸へ抱えていた帳面を開く。


 ありがとう帳。

 最初は子どもたちの“ありがとう”を書き留めるために始まった、小さな記録帳だ。角は擦れて柔らかくなり、途中から紙の色もばらばらになっている。インクの濃さも、書いた日の忙しさで違う。


 ベルマンは露骨に顔をしかめた。

 「何です、それは」

 「法廷の証拠じゃないわ」

 レクシーはぴしゃりと言った。

 「でも、あんたが今ここで一番見落としてるものよ」


 彼女は帳面を開いたまま、一頁目を指で押さえる。


 「『二の月十一日。トトが苦い薬を飲めた。飲めたら、セシリアさんが林檎を少し煮てくれたから』」

 次の頁。

 「『三の月二日。ユノが自分の名前を最後まで書けた。書けたらセシリアさんが札にして棚へ貼ってくれた』」

 また次。

 「『四の月七日。橋板運びの帰り、みんなで遅い昼。木こり班がおかわりした』」

 「くだらない日記ですな」

 ベルマンが言う。


 レクシーは帳面を閉じなかった。

 むしろ静かになった。


 「そうよ。日記よ。すごくくだらない」

 彼女は言う。

 「誰がどの日に泣き止んだとか、誰がどの椀で熱いって笑ったとか、誰がはじめて自分で注文したとか。王都のお偉いさんに見せたら、鼻で笑われるようなことばっかり」

 その声が少しだけ震える。

 「でもね、ここで暮らすのって、そういうくだらないことで冬を越えるのよ」


 帳面をめくる指先が、かすかに赤くなっている。

 この人もずっと、言わないまま書いてきたのだとセシリアは知る。


 「ありがとう帳は、法の証拠じゃありません」

 ネマーニャが静かに補った。

 「ですが、心の証言ではあります」


 ベルマンが鼻で笑い返す。

 「心の証言」

 「はい」

 ネマーニャは言う。

 「公的手続きには、まだ別の書式が要る。証人欄、日付、照合番号、所在地、継続実績。ですが、人が人に与えた変化そのものは、制度の外にあるからといって無価値にはなりません」

 彼はレクシーの帳面へ目を落とした。

 「むしろ、その外にあるものを見落とすから、王都の紙はよく人を置き去りにする」


 アルベルトが小さく目を伏せた。

 その一言には、彼自身へ向けられた棘も混じっているのだろう。

 だが今日は、誰もその棘を避けなかった。


 ベルマンは苛立ちを隠さず言った。

 「では、その帳面とやらで娘君の営業権が守れると?」

 「守れないでしょうね」

 アンナがあっさり言った。


 ベルマンが一瞬言葉を失う。

 アンナは薬缶を脇の台へ置き、きっぱりと続けた。


 「帳面だけじゃ守れない。だから私たちは衛生記録も、診療所の栄養改善記録も、共同炊事の分配簿も揃えるの」

 その視線が冷たく光る。

 「でも、だからって帳面がいらないとはならないわ。病人を診る側から言えば、数値だけでは回復しないの。食べた量、熱、顔色、それから、生きる気の有無も見るのよ」


 彼女はセシリアの方へ少し顎を向けた。


 「この人が来てから、診療所で『どうせ無理だ』って言う子が減った」

 その言葉は淡々としていた。

 「薬が効いた分もある。暖かくなった分もある。けれど、食堂へ行けば誰かが名前を呼んで、明日の献立を話してくれる、その効果は確かにあった」

 アンナはベルマンを見る。

 「それを“情緒”で切り捨てるなら、あなたは腹の中身しか人を見ていない」


 その言い方に、周囲から小さく息を呑む音がした。

 だがベルマンは反論する前に、また別の声へ遮られる。


 「わたしも言う」


 マリカだった。

 彼女は毛糸玉の入った籠を地面へ置き、両手を腰へ当てる。


 「前の冬まで、うちの織り場なんて、仕事がない時は誰も口きかなかったわ。寒いし、指痛いし、先も見えないし。けど食堂ができてからは、昼にみんなで何食べたかで午後の空気が変わるの。しょうもない話をするようになったの」

 「しょうもない話」

 ベルマンが皮肉るように繰り返す。

 「ええ、しょうもない話」

 マリカは負けなかった。

 「昨日のスープに何入ってたとか、遊技庭園で誰が転んだとか、先生がまた難しい顔してたとか、そういうの。けど、そういうのがある時の方が、夜に首括るやつが減るのよ」


 その場が、しん、とした。


 白梢の谷は明るいだけの土地ではない。

 冬の長さも、貧しさも、名を失った人たちの沈黙も、どこかへ消えたわけではない。

 マリカの一言は、それを飾らず外へ出した。

 だからこそ重かった。


 「……あんた、言い過ぎ」

 レクシーが小さく言う。

 「言い足りないくらいよ」

 マリカは答える。

 「この人が来てから、そういう夜が減ったのは本当でしょう」


 誰も否定しなかった。


 ベルマンは初めて、少しだけ後ろへ重心を移した。

 理屈で押せば引くと思っていた相手が、別の種類の現実を次々に出してくる。その現実は格式も格式ばった言葉も持たない。けれど、谷で暮らす人間の声だから、踏み潰そうとすると今度は自分の足元が汚れる。


 「……結局、あなた方は娘君に情を移しただけだ」

 ベルマンが言う。

 「一時の施しに恩を感じている。それだけでしょう」


 「違う」

 小さな声がした。


 今度はトトだった。

 マリカの後ろから半歩出て、ぎゅっと拳を握っている。ユノがその袖を掴んでいたが、本人は前を見るのをやめなかった。


 「セシリアさん、のこりもの、くれない」

 トトは懸命に言う。

 「ちゃんと、たべるぶん、きいてくれる。おおいときは、おおいっていう。すくないときは、あとでねっていう。……だから、しんじる」


 ユノも、少し遅れて頷いた。


 「おなまえ、わすれないし」

 「それな」

 プラチャンがぼそりと言う。

 「大人でも忘れるのに」


 小さな笑いが起きる。

 笑いの中で、セシリアはもう耐えきれず、瞬きをした。

 涙がこぼれる前に戻したかった。

 でも戻らない。


 自分のしてきたことは、まだ足りないと思っていた。

 もっと書類を揃えなければ。

 もっと権利を確かにしなければ。

 もっと役に立たなければ、白梢の谷に居続ける理由にならない。

 そう思っていた。


 けれど今、皆の口から出てくるのは、役に立った数字だけではなかった。

 自分が出した皿の温度。

 呼んだ名前。

 聞いた声。

 明日の話をする習慣。


 そんなものまで、誰かは覚えていてくれたのか。


 「セシリアさん」


 呼ばれて振り向くと、レクシーがありがとう帳を差し出していた。

 「持ってて」

 「でも、これは」

 「今はあなたが持つの」


 帳面は思ったより重かった。

 紙の枚数以上の重みがあった。

 子どもの拙い字。大人の書きかけ。レクシーの急いだ筆跡。ところどころに挟まった、買い物札の切れ端や、遊技庭園の入場札の半券。

 くだらない、とさっき彼女は言った。

 でもそのくだらなさは、たぶん人が生きる方の重さだ。


 ベルマンが最後の形を整えるように襟を直した。

 「感動的な寸劇は結構」

 声はもう、来た時ほど滑らかではない。

 「ですが、娘君。あなたがここに残れば残るほど、公爵閣下のお考えは硬くなる。次は温情では済まぬでしょう。谷の再編も、営業の継続も、正式名の取得も、全て難しくなる」


 「なら、なおさら帰れません」


 セシリアは気づいたら、そう言っていた。


 言い終えてから、自分の声の揺れに気づく。

 震えてはいる。

 けれど、折れてはいなかった。


 「私は今日まで、自分の価値を自分で証明しなければ、この谷にいてはいけないと思っていました」

 ベルマンではなく、白梢の谷の人たちを見る。

 「だから働きました。鍋を見て、帳面をつけて、札を書いて、足りないものを探しました。でも今、皆さんが話してくださったことで、ようやくわかりました」


 ありがとう帳を胸へ抱く。

 胸板の向こうで、心臓が速い。


 「私は、もう受け取っていたんですね」

 言葉を探しながら、それでも続ける。

 「居ていい理由を。皆さんから」


 誰かが鼻をすする音がした。

 たぶんレクシーだ。あるいは自分かもしれない。


 「だから帰りません」

 セシリアははっきりと言った。

 「脅しでも、婚姻でも、この谷を値札に変えさせません。正式な名が要るなら決めます。必要な紙があるなら揃えます。でも、それは父に差し出すためではなく、ここで働き続けるためにします」


 その言葉のあと、少し遅れて、いくつもの息が重なった。

 安堵と、驚きと、たぶん同じ決意の息だ。


 ネマーニャが、その半歩後ろで静かに立っている。

 何も言わない。

 ただ、彼の指先が、いつでも書類を受け取れる位置にある。


 ベルマンはしばらくセシリアを見ていた。

 その目には、以前のような“説得すれば戻る娘”を見る色がもうない。代わりにあるのは、予定外の反発へ対する計算だ。


 「承知しました」

 ようやく彼は言った。

 「今日のところは、言葉を持ち帰りましょう。ですが、次はあなたの感傷に付き合う場ではありません」


 「こちらも次は、証人と書式を揃えます」

 ネマーニャが静かに返した。

 「本日の侮辱発言についても、記録しておきます」


 ベルマンの口角がわずかに引きつる。

 「侮辱?」

 「ええ」

 ネマーニャは平坦だった。

 「白梢の谷を野蛮な流刑地と表現し、住民を由緒なき者と断じ、共同体の継続価値を一方的に否定した。私は聞きました。ここにいる人々も聞きました」

 彼は一呼吸置く。

 「心の証言は法の証拠ではない。ですが、侮辱の現場を見た証人なら、十分に数えられます」


 今度こそ、ベルマンは返答を飲み込んだ。


 従者へ合図し、馬車へ向き直る。

 車輪が雪混じりの泥を噛み、ゆっくりと向きを変える。公爵家の紋章が遠ざかっていくまで、誰も追い立てるようなことはしなかった。

 ただ、誰一人として頭を下げなかった。


 馬車の音が坂の向こうへ消えると、白梢の谷の広場に、急に風の音が戻った。

 張りつめていたものが少しだけほどける。


 「……足、震えた」

 最初にそう言ったのは、オズワルだった。

 「俺も」

 リッタがすぐ続く。

 「途中で帰りたくなった」

 「わかる」

 マリカが笑う。

 「でも言えたじゃない」


 その一言で、ようやく皆の顔に笑いが戻る。

 大きな勝利の笑いではない。雪道から無事戻った時みたいな、まだ息の整わない笑いだ。


 レクシーが目元をごしごし拭きながら言った。

 「だめ、皆が急に喋るから。いつも食べる時は静かなのに」

 「飯がある時は口が忙しいんだ」

 プラチャンが肩をすくめる。

 「今日は腹の代わりに別のもんが詰まってたんだろ」

 「詰まり方の例えが雑」

 アンナが呆れたように言う。


 小さな笑いがまた重なる。

 ユノとトトまでつられて笑っている。


 セシリアはありがとう帳を抱えたまま、どうしていいかわからず立っていた。

 涙はさっきより引いた。

 でも胸の奥は、まだ熱いものが波打っている。


 「セシリアさん」

 今度はヤン爺さんが呼ぶ。

 「はい」

 「さっきのは、みんな思ってたことだ」

 老人は杖の先で雪を軽く払った。

 「言うのが遅かっただけでな」


 その言葉へ、あちこちから頷きが返る。


 「俺、うまく言えなくて悪かった」

 オズワルが帽子を握りしめる。

 「十分すぎます」

 セシリアは首を振った。

 「本当に」

 「ほんとに?」

 レクシーが覗き込む。

 「すごくよかったわよ。“この人の皿で冬を越えた”って。あれ反則」

 「反則って何だ」

 「泣くでしょ、あんなの」

 「泣いてたのはお前だろ」

 「そうだけど」


 また笑いが起きる。


 セシリアはようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 笑っていいのか、まだ迷う。

 でも皆が笑っているから、つられて唇が緩む。


 その時、ありがとう帳の上へ、もう一冊、紙束がそっと重ねられた。

 ネマーニャだった。


 「本日の証言、今のうちに整理しましょう」

 彼は言う。

 「感情が鮮明なうちに、日時と発言者を記録へ落とします。侮辱発言の文言も含めて」

 いつもの平坦な調子なのに、どこか少しだけ柔らかい。

 「それから、証人候補の一次整理も。第24式の改名登録へ転用できる欄があります」


 実務の話だ。

 けれどその実務が、今はやけにあたたかく感じられる。


 「はい」

 セシリアは答えた。

 声が、今度はちゃんと自分のもののように聞こえた。


 ネマーニャは一瞬だけ、ありがとう帳へ目を落とす。

 「それは、別綴じで保管を」

 「法の証拠じゃないのでしょう」

 「はい」

 「でも、心の証言なんですよね」

 「そうです」


 彼はそこで、ごくわずかに目元を和らげた。


 「でしたら、一番上へ置きます」

 セシリアは言う。


 ネマーニャは何も否定しなかった。

 ただ、肯定の代わりみたいに紙束の角を揃える。


 診療所裏の簡易台では、アンナが再び湯を注ぎ始めていた。マリカは子どもたちを集めて、昼前までにできる軽い手伝いを割り振っている。プラチャンはもう板切れへ新しい見出しを書いていた。『本日証言』。『侮辱発言』。『改名証人候補』。ミルコフは馬車の去った坂道をしばらく見てから、何事もなかったように通路の雪を均し直す。


 白梢の谷の朝は、さっきまでより少し騒がしくなった。

 けれど、その騒がしさは悪くない。

 口を閉じていた人たちが、一度言葉を外へ出したあとの音だ。


 セシリアは胸の前の帳面へ手を置く。


 自分にはまだ正式な名がない。

 守るための紙も、まだ揃いきっていない。

 父の家も、王都の制度も、きっとここからもっと厄介になる。


 それでも。

 それでも、もう前みたいには怖くなかった。


 誰かの価値表へ戻されるのではなく、誰かの皿の記憶に残っている。

 その事実は、爵位よりずっと静かなのに、今のセシリアをしっかり支えていた。


 風が吹き、封印札の端がかすかに揺れる。

 けれどその前に立つ人の数は、もう昨日より多い。


 今度は彼女が皆を守る番であり、同時に、彼女の皿もまた皆に守られていた。



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