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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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22/32

第22話 先生の過去、炎の夜

 翌朝の白梢の谷は、雪がやんでいるぶんだけ、かえって寒かった。


 空は青いのに、吐く息は白く重い。食堂の正面扉には、昨夜の封印札がまだ赤々と貼られたままだった。朝日を受けると、それは紙というより、冬の壁へ打ちつけられた小さな警告みたいに見える。


 けれど谷の人々は、その前で立ち止まってはいなかった。


 ミルコフは入口脇の雪を踏み固め、監査官がぬかるみだの排水だのと言い出せないよう通路を整えていた。アンナは診療所の裏手に簡易の配膳台を出し、食堂のかまどが使えないあいだも温かい飲み物だけは切らさぬよう、大鍋を借りて湯を沸かしている。プラチャンは昨夜まとめた紙束を種類ごとに分け直し、紐の結び目へ小さな木札を付けていた。レクシーはありがとう帳の複写用に、朝から紙と筆を乾かしている。


 閉じられているのに、止まってはいない。


 セシリアはそれを見て、胸の奥に少しだけ息の通る場所ができるのを感じた。昨夜の手紙の二行は、まだ腹の底に石のように残っている。それでも、目の前の朝は、その石の上へちゃんと積み直されていた。


 「休んでいなくてよかったんですか」

 診療所の裏手で椀を並べながら、アンナが訊いた。


 「眠れたので大丈夫です」

 そう答えたものの、実際には浅い眠りだった。夢の中で何度も、封印札が鍋の蓋に貼りついて、いくら引いても剥がれない場面を見た。


 「嘘ね」

 アンナはあっさり言った。

 「でも、今はそのくらいの顔の方がちょうどいいわ。『閉鎖命令が出たので寝込みました』みたいな顔をしてると、あっちが喜ぶもの」


 セシリアは少しだけ笑った。

 「たしかに」


 その時、谷の入口側から馬の鈴が短く鳴った。

 昨日の監査馬車ほど大げさではない。護衛も最小限。けれど王都式に手入れされた蹄の音で、誰が来たのかはすぐわかった。


 アルベルトだった。


 雪を払って馬から降りた彼は、今日は王族の外套ではなく、旅向けの濃灰の上着を着ていた。だが、背後の従者が抱えている箱だけは、どう見ても旅の荷物ではない。灰青色の革で縁取りされた、王立記録院の保管箱だ。


 セシリアの視線へ気づくと、アルベルトはほんの一瞬だけ言葉を探すような顔をした。それから、無理に丁寧さを整えず近づいてくる。


 「朝から失礼する」

 「監査の追加ですか」

 「違う」

 彼は首を振った。

 「これは、私的に持ち出したわけではないが、表向きの監査資料でもない。……ネマーニャ殿にも聞いてほしい話がある」


 その名を出された瞬間、セシリアの肩が少しだけ固くなった。

 ネマーニャは食堂裏の物置小屋で、昨夜の書類を乾燥棚へ移しているはずだ。


 「先生に、ですか」

 「ああ」


 アルベルトは箱を見た。

 「王都で探していた、土地の件に繋がる古い副簿の話だ。白梢の谷だけの問題ではない。そして、たぶん――」

 彼はそこで一度、声を落とした。

 「記録院火災の件とも無関係ではない」


 空気が、そこでひやりと変わった。


 アンナが手を止める。

 湯気の立つ薬缶の音だけが、やけにくっきり聞こえた。


 セシリアはすぐに返事をせず、アルベルトの目を見た。以前なら、その目の奥にある迷いを読み違えたかもしれない。けれど今はわかる。彼はここで、曖昧な同情を持ってきたのではない。持ってくるべきでないものを、あえて持ってきている顔だ。


 「裏へ」

 セシリアは言った。

 「子どもたちの耳がある場所では話したくありません」


 案内された物置小屋は、薪と予備の椅子、干した香草束、使っていない看板板などが肩を寄せ合う狭い場所だった。窓は小さいが、今朝の光はまっすぐ入り、舞う埃を白く見せている。


 ネマーニャは紙箱を抱えたまま振り向いた。

 アルベルトの姿と、従者が持つ保管箱を見た瞬間、彼の指先が止まる。


 「殿下」

 「朝からすまない」

 「その箱は」

 「記録院第二保管庫の焼損分類箱だ」


 ネマーニャの目が、一度だけ細くなった。


 焼損分類箱。

 その言葉自体は事務的なのに、言われた途端、小屋の空気へ灰の匂いが混じった気がした。もちろん実際にはそんな匂いはしない。ただ、そう感じるだけで十分だった。


 アルベルトは従者へ合図し、箱を古卓の上へ置かせる。

 金具が外れる、小さな音。

 中から出てきたのは、焼け焦げた紙片ではなく、厚い副簿数冊と、封筒に入れられた写し、それから黒ずんだ金属板だった。魔導タイプライターに差し込む識別板の一種らしい。


 ネマーニャの顔色が、すっと変わる。


 「……訓練室の個人識別板」

 彼が低く言った。

 「なぜ、それが」


 「王立記録院本館火災のあと、焼損しながらも読める資料だけを別庫へ回した記録がある。そこに、正式事故報告へ添付されなかった箱の一覧が残っていた」

 アルベルトは封筒から一枚を抜いた。

 「私は白梢の谷の古い土地移管書類を追っていて、その途中で妙な符号を見つけた。『辺境整理特例台帳・北方第四群』。年代が十八年前で、保管責任者欄に、当時の打鍵教官補佐の印がある」

 「私の印ですね」

 ネマーニャは、紙を見なくてもわかるように言った。


 セシリアはその横顔を見る。

 驚いてはいる。だが、まったく知らない話を聞かされた顔ではない。どこか、とうとう来たか、という静けさがあった。


 「白梢の谷が載っているのですか」

 セシリアが訊く。


 アルベルトは頷いた。

 「白梢の谷だけではない。冬の被害が大きかった北方の小集落をいくつかまとめ、『実質維持困難』として王都管理地へ切り替える下準備の書類だ。表向きは救済と再編だが、続きの紙には鉱脈と林地、それから水利の見込みまで書かれている」

 「人の暮らしの紙ではなく、土地の値札ですね」

 セシリアの声が、自分でも驚くほど冷たく落ちた。


 「そうだ」

 アルベルトは短く認める。

 「しかも、同じ箱から、救援物資の帳簿雛形も出た。書式は最近白梢の谷へ回された粗悪品の帳簿と酷似している。十八年前から続く流れの可能性が高い」


 プラチャンがいたら机を叩いていたかもしれない。

 セシリアは叩かなかった。ただ、昨夜見た二行の手紙が、ここで急に長い影を持ち始めたのを感じた。


 ネマーニャはまだ立ったままだった。

 卓へ近づくでもなく、遠ざかるでもなく、箱と距離を測るように立っている。


 「先生」

 セシリアが呼ぶと、彼はわずかに目を動かした。


 「この台帳を、先生が保管していたのですか」

 「保管していました」

 「内容は」

 「途中までしか読みませんでした」


 彼はそこで一度、言葉を切る。

 小屋の外では誰かが薪を割っている。こつ、こつ、と一定の音がする。暮らしの音なのに、今は異様に遠かった。


 「訓練用の打鍵例文に混ぜるには、数字の並びが不自然だった」

 ネマーニャは言った。

 「北方四群の救援終了予定日と、維持困難判定日が近すぎた。しかも村の人口減少幅が、別の公的報告より大きかった。誰かが死者数を増して書いているか、生存者を抜いている。気になって控えを見に行くうち、土地移管の草案へ行き当たった」


 「その時点で、先生は何を」

 「複写を作りました」

 彼は即答した。

 「正式な持ち出しではありません。保管規則違反です。けれど、原本だけでは消されると思った」


 アルベルトが静かに息を吐く。

 「やはり」


 「やはり、とは」

 ネマーニャの声は平坦だった。平坦だが、その薄さが逆に危うい。


 アルベルトは副簿をめくり、別の写しを出した。

 「火災当夜、訓練室と北側保管廊下の消火結界が、事前に弱められていた記録だ。通常は二重管理で、単独では切れない。だが当日は、上層部の緊急閲覧申請を理由に一時的な簡略化が通っている」

 「どこの上層部ですか」

 「署名は代理名義だ。だが添え書きにある搬出予定品目が、辺境整理特例台帳と一致する」


 セシリアは思わず息を飲んだ。


 事故ではなかった、とまではまだ言い切れない。

 けれど、偶然の火事として済ませるには、紙が悪すぎた。


 ネマーニャは卓へ歩み寄り、黒ずんだ金属板を指先で持ち上げた。

 ほんの小さな板なのに、その手が少し重そうに見える。


 「これは」

 彼が呟く。

 「弟子の識別板です」


 セシリアの心臓が強く打った。

 昨夜まで、彼は“弟子”としか言わなかった。その言葉の向こうに、まだ名前があるのだと、今さらのように気づく。


 「名前は」

 訊くつもりはなかったのに、口から出ていた。


 ネマーニャはしばらく黙ってから答えた。

 「カイルです。十五でした」


 小屋の中の光が、その名前の上で止まった気がした。


 「打鍵の速さより、紙を読む速さがある子でした。訓練用の誤字を、いつも私より先に見つけた」

 ネマーニャは識別板を見たまま続ける。

 「火災の前日、あの子は言ったんです。『北方四群の人口表、変です』と。私は、気づいていました。けれど、まだ口に出させない方がよいと思った。巻き込みたくなかった」


 巻き込みたくなかった。

 その言葉と、十五という歳が、セシリアの胸のどこか深い場所へ重く落ちる。


 「当日、訓練室へ呼び出しが来たのは私だけのはずでした」

 ネマーニャが言う。

 「ですが、カイルは先に来ていた。複写した紙の束を見つけたのでしょう。問い詰めるより早く、廊下の向こうで火の手が上がりました」


 彼の声は整っている。

 それが却って痛々しかった。

 崩れないよう、崩さないよう、十八年も同じ位置で支えてきた声だ。


 「私は紙を燃やされると思った。だから、複写を隠した箱を先に出そうとした」

 彼は笑いもしないまま言う。

 「同時に、カイルを外へ出そうとした。両方できると思った。昨日お話しした通りです」


 昨日、彼はそこまでしか言わなかった。

 けれど今日は、その先がある。


 「廊下へ出た時、煙はもう変だった」

 ネマーニャの視線がどこも見ていない方向へ向く。

 「紙棚だけの火ではない。油が撒かれた匂いがした。消火結界が弱いことにもすぐ気づいた。誰かが、燃え広がりやすいよう手を入れていたんです」


 アルベルトは何も挟まない。

 ここはもはや、王子の報告ではなく、ネマーニャが自分の記憶を自分の口で並べ直す時間だった。


 「私はカイルに階段へ向かえと言いました。自分は複写箱を持って後ろから追う、と」

 「追えなかった」

 セシリアが、思わず小さく言う。


 ネマーニャは頷いた。

 「梁が落ちました。訓練室前の天井が先に崩れた。あれは火の回り方として妙だった。私は箱を落とし、打鍵台の脚を使って隙間を作ろうとしたが、間に合わなかった」


 彼の右手が、識別板を握る。

 指の節が白くなる。


 「避難誘導の術式を打てば、別棟は助かるとわかっていました。打ちました。実際、助かった者は多い。けれど、その一打のあいだに、私はカイルのそばへ戻れなかった」


 小屋の中は、もう誰も動かなかった。


 セシリアは、その場面を想像しないようにしても、してしまう。

 熱で歪む廊下。

 崩れる天井。

 紙と煙の匂い。

 十五の少年。

 戻りたいのに、手は別の命を助けるために鍵盤へ落ちる。

 その選択をした瞬間から、たぶんネマーニャの中では、どちらを選んでも敗北だった。


 「事故報告書では、複写機の火花と紙塵の引火で処理されました」

 アルベルトが低く言う。

 「だが、この副簿と結界記録、それに保管搬出指示の写しを合わせると、少なくとも偶発だけでは説明がつかない」

 「それでも、証拠として足りるかは別です」

 ネマーニャが返した。


 「そうだ」

 アルベルトは正面から認めた。

 「足りない。これだけでは『意図があった可能性』までしか出せない。だが、あなたが抱えた疑いが妄想ではなかったことは示せる」


 ネマーニャはそこで初めて、少しだけ苦い顔をした。

 「妄想と片づけた方が楽だったのですよ」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 楽だった、というのは、諦めの言い換えではない。

 もし本当に事故なら、自分の判断の遅れと、速さへの過信だけを責め続ければよかった。だがもし、誰かが火を大きくするよう仕組み、その背後に不正文書を隠したい都合があったのなら、ネマーニャは十八年ものあいだ、自分だけでなく、誰かの悪意まで背負って黙っていたことになる。


 それは、罪悪感よりたちが悪い。


 セシリアはようやく理解した。

 この人が王都を去ったのは、ただ怖かったからではない。壊れたからでもない。

 言えば潰される相手がいて、言うには証拠が足りず、しかも最も守りたかった弟子は戻らない。その状態でなお生きて働くには、黙るしかなかったのだ。


 「先生」

 セシリアは、そっと呼んだ。


 ネマーニャは識別板から目を離さない。


 「私は」

 彼は自分から話し出した。

 「火災のあと、上司へ訴えました。結界の弱さも、書類の不自然さも、油の匂いも。ですが返ってきたのは、『大勢を救ったのだから、自分を責めるな』でした」


 ひどくやさしい形をした、封じ方だった。


 「数日後には、保管規則違反の件で逆に始末書を求められた。複写を作ったことも、私的閲覧の範囲を越えたことも事実ですから」

 彼は乾いた声で言う。

 「全面的に間違ってはいない。だからこそ、黙らせるのに都合がよかった」


 「その始末書へ署名したのか」

 アルベルトが問う。


 「しました。しなければ、カイルの件まで私の独断が原因として処理されると思った」

 ネマーニャはやっと顔を上げた。

 「……違いましたか」


 アルベルトは返事に詰まった。

 王族である彼に、今ここで「違う」と言い切る資格は薄い。王都はたしかに、そういうふうに紙で人を折る場所なのだ。


 セシリアは、その沈黙の中で一歩だけ近づいた。


 「先生は、逃げたのではありません」

 言葉は驚くほど自然に出た。


 ネマーニャがわずかに眉を寄せる。

 「ですが私は、何も暴けなかった」

 「暴けない状態へ追い込まれたんです」

 「同じことです」

 「違います」


 自分でも少し強い声だった。

 けれど止めなかった。


 「証拠が足りないのに告発すれば、先生一人が潰されて終わります。複写を作ったことまで逆手に取られたなら、なおさらです。それでも先生は、紙の読み方も、書き方も、人を守る記録の作り方も捨てなかった。白梢の谷で、それをずっと続けてきた」


 セシリアは、卓の上の黒い識別板を見る。

 十五歳の少年の名が刻まれた、小さな金属片。

 失われたものは取り戻せない。けれど、その日から止まったはずの手が、昨日も今日も、谷の人々の名を書いている。


 「黙って耐えることは、諦めることとは違います」

 セシリアは言った。

 「先生は耐えていたんです。今日まで」


 ネマーニャの喉が、微かに上下する。

 何かを言い返すより先に、呼吸が乱れた。


 外でまた薪の割れる音がした。

 白梢の谷の朝は進んでいる。誰かが湯を配り、誰かが雪を掻き、誰かが看板を拭く。その普通の朝へ、十八年前の夜が、今ようやく言葉を持って入り込んできている。


 アルベルトは静かに副簿を閉じた。

 「私はこの写しを王都の別系統へ回す。少なくとも、火災の再検証請求は出せる」

 「殿下」

 ネマーニャが言う。

 「請求を出せば、今度はあなたが敵を増やします」

 「もう増えている」


 アルベルトは苦く笑った。

 「白梢の谷へ来た時点で、私はだいぶ遅いのだろう」


 その一言に、セシリアは彼を許したわけではないまま、少しだけ現実の人間として見た。完璧に間に合わない人間が、それでも間に合わせようとして遅れてやって来る。そのみっともなさもまた、王都には少ないものだ。


 ネマーニャは識別板を卓へ戻し、指先で一度だけ整えた。

 雑に置けないのだろう。

 十八年経ってもなお。


 「カイルの名は、事故報告の末尾にしか残りませんでした」

 彼は静かに言った。

 「死者一名。訓練補助見習い。年齢十五。原因、避難遅延」

 その淡々とした読み上げが、逆に残酷だった。

 「私は、その文面を打ちました」


 セシリアは思わず目を閉じた。

 自分で、自分の弟子の死を、そういう紙へ整えなければならなかったのか。


 「打たされた、ではなく」

 ネマーニャは続ける。

 「打ちました。最後まで打ったのは私です。だから、どこまでいっても、私は無関係ではいられない」


 「無関係でいろとは言いません」

 セシリアは目を開けて言う。

 「でも、全部の責任をひとりで背負えとも思いません」


 言いながら、彼女は自分の中にあった何かが、昨日までと違う形になったのを感じた。


 ネマーニャは、ただ優しくて、ただ頼れて、ただ少し不器用な先生ではない。

 紙が人を殺すことも、人を生かすことも知っていて、その両方を見たまま、なお記録の側へ戻り続けている人だ。

 そこには、恋のやわらかな憧れだけでは届かない硬い傷がある。


 それでも。

 それでもセシリアは、距離が遠のいたとは思わなかった。

 むしろ、はじめて本当に、この人の立っている場所が見えた気がした。


 小屋の扉が、そこで二度、遠慮がちに叩かれた。


 「セシリア、先生」

 レクシーの声だった。

 「外でちょっと揉めそう」


 アルベルトが眉を寄せる。

 「誰と」

 「公爵家の使者。今朝のうちに来るなんて、あの人たちも暇じゃないのね」


 吐き捨てるようなわりに、レクシーの声は抑えられていた。子どもたちへ聞かせない配慮だろう。


 セシリアは深く息を吸った。

 今聞いた話の重みが消えたわけではない。胸の奥に、まだ熱い灰のように残っている。

 けれど、それを抱えたまま、次の戸口へ行かなければならない。


 「行きましょう」

 セシリアが言う。


 ネマーニャは一瞬だけ目を伏せた。

 「……今の話を聞いたあとで、私は」

 「先生」

 セシリアは彼の言葉をやわらかく遮った。

 「今の話を聞いたからこそ、です」


 彼は何も返さなかった。

 ただ、ほんの僅かに呼吸を整え、それから卓の脇に置いていた紙束を持ち上げる。昨夜まとめた営業記録、衛生記録、利用者署名、修繕完了証。

 人を守るための紙だ。


 アルベルトも箱を閉じ、従者へ預けた。

 その顔に迷いはまだある。だが、迷ったまま立つことを、もうやめるつもりはないらしい。


 小屋の扉を開けると、冬の光が一気に差し込んだ。

 眩しさに目が慣れるまでのほんの一瞬、セシリアはネマーニャの横顔を見る。


 この人は、炎の夜からまだ完全には出られていない。

 誰かを守ろうとするたび、あの梁の落ちる音が追いかけてくるのだろう。

 だからこそ、その傷は、恋を簡単に進ませない。


 けれど同時に、セシリアは知ってしまった。

 彼が白梢の谷で打ち続けてきた一文字一文字は、逃げた人間の手つきではない。

 焼け跡の向こうで、それでも人を守る形を捨てなかった人の手だ。


 外では、公爵家の紋章をつけた馬車の前で、ミルコフがもう仁王立ちしていた。

 レクシーは腕を組み、アンナは湯気の立つ薬缶を持ったまま、いつでも熱湯をぶちまけられる顔をしている。プラチャンは書類束を抱え、使者の靴先と荷札と袖口を順に見ていた。


 白梢の谷の朝は、静かには終わらない。


 セシリアは前へ出る。

 その半歩後ろに、ネマーニャの足音が重なった。


 炎の夜は消えない。

 だが消えないままでも、並んで戸口へ立つことはできるのだと、冬の光がはっきり示していた。



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