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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第21話 食堂閉鎖命令

 午後の白梢の谷は、妙に忙しい静けさへ包まれていた。


 昼のスープを配り終えた食堂では、椀が重ねられる音より、桶の水を替える音の方が大きい。床板は二度拭かれ、三度目の水が灰色から薄い茶へ変わりつつある。アンナは煮沸した布を竿へ掛け、レクシーは棚の瓶を中身ごとに並べ替え、プラチャンは厨房裏の排水溝へ腕ごと突っ込んで泥を掻き出していた。


 「うわ、何この沈殿。去年の冬から住んでるやつの性格が出る」

 「お前だろ、その頃から一番ここで飯食ってたの」

 レクシーが言う。

 「言い返せないのが腹立つな」


 ぷつぷつとした軽口が飛ぶたび、凍ったようだった空気が少しだけほどける。

 けれど誰も手は止めなかった。


 ミルコフは裏口の段差へ板を当て、釘を打ち直している。

 雪の季節、運び込まれた薪や樽で何度も削れた角を、今さらのように真っ直ぐへ戻していた。彼のそばでユノとトトが釘を一本ずつ渡す。危ないから離れていろと何度言われても、二人とも今日は妙に聞き分けがよく、叱られる前に一歩引いてはまた近づいた。


 「ゆがんでると、ひっかかる?」

 ユノが問う。

 「ひっかかる」

 ミルコフは短く答え、板の端を押さえる。

 「ひっかかったやつが皿を落とす」

 「じゃあ、まっすぐ大事」

 「大事だ」


 そのやりとりを聞きながら、セシリアは台所の中央卓へ書類を広げていた。

 営業記録。仕入れ帳。献立表。配給控え。修繕の記録。読み書き教室の参加名簿。共同井戸の水汲み当番表。書類の山は、見慣れているはずなのに、今日だけはどれも細い氷の上へ置かれているみたいに不安定に見える。


 「先生、長期運営の補足文、ここで合っていますか」

 「はい。ですが、冬季の共同調理回数を追記します」

 ネマーニャは別卓で魔導タイプライターへ向かいながら答えた。

 「『営業』だけだと、向こうは売買実績しか見ません。ここが炊き出し、診療所支援、雪害時の緊急食を担ってきたことまで一枚へ載せましょう」


 打鍵音が部屋の奥で乾いて鳴る。

 いつもなら、その音は食堂の柱みたいに頼もしい。今日は、その一打一打が時間と競争しているように聞こえた。


 アルベルトは昼から外へ出ていた。

 ローディンが食堂の衛生確認を午後へ回したあと、彼は監査補佐官二人を連れて倉の封緘と中継文書の写しを確保しに行ったのだ。去り際、「戻るまで、命令書へ署名しないように」とだけ残して。


 けれど、命令書はいつも、待ってくれる者の手では届かない。


 表で馬の気配が止まり、ほどなく戸口の鈴が鳴った。

 皆の手が、同時にわずかだけ止まる。


 入ってきたのはローディンだった。

 午前と同じ外套に、今度は革筒ではなく、板で挟んだ紙束を抱えている。後ろには部下が三人。記録院補佐官ではなく、監査局付きの書記と衛生係らしい。鼻へかかった匂いを嫌うように口元を布で覆い、何かを探す目で室内を見回す。


 「確認に来た」

 ローディンは言った。

 「営業施設白梢食堂、並びに付属厨房、倉庫、排水設備、帳場、許可関係書類」


 「どうぞ」

 セシリアはまっすぐ答えた。

 「見せるために揃えました」


 ローディンの視線が一瞬だけ中央卓へ落ちる。

 揃えられた帳面の列、乾いた布、磨いた鍋、棚の札。その全体を見て、彼はほんのわずかに面白くなさそうな顔をした。


 「先に帳場からだ」


 それからの時間は、やけに長く感じられた。


 帳簿は一冊ずつ開かれ、日付と支出が確かめられ、共同井戸の使用量まで問われた。衛生係は棚の裏へ指を差し込み、薬草瓶の口布を外して匂いを嗅ぎ、排水溝の勾配へ木片を転がし、裏口の板が新しいことにまで眉をひそめた。部下の一人は厨房の火床へしゃがみ込み、灰受けの深さを測る。別の一人は、配膳台の高さが規定値より指一本分低いと紙へ書いた。


 レクシーがたまらず口を開く。

 「そんなの、皿を置ければ同じでしょ」

 「規定は規定だ」

 衛生係が即答する。

 「指一本分の低さが、汚水跳ねや腰傷の原因になる」


 「この冬ずっと置いてきたけど、皿も腰も生きてるわよ」

 「経験則は規定に優越しない」


 プラチャンの額に青い筋が浮いたが、ネマーニャが首を横へ振ったので言い返さなかった。

 代わりに、排水溝の図面へ必要な修繕日を静かに書き足す。


 セシリアは呼吸だけを整え続けた。

 正しい指摘がまったくないわけではない。冬のあいだ、とにかく鍋を途切れさせず、人を倒さず、雪で滑らせずに終えることを優先してきた。だから、板の角や溝の蓋や、水桶の置き場へ、後回しにした小さな綻びはある。

 ただ、それを見つける目つきが、直すためのものではなく止めるためのものに見えるのがつらかった。


 「許可証を」

 ローディンが言う。


 セシリアは長期運営の補足書類と、谷の共有施設利用承認、暫定個人登録の写しを差し出した。

 ローディンはそれらを順に見て、最後の一枚を二本の指で摘む。


 「やはりな」

 低い声だった。

 「営業主体の正式登録名がない」


 「暫定個人登録で認められる範囲の短期運営と共同調理については、既に――」

 「既に冬をまたいだ」


 言葉を切るタイミングが、はっきり狙っている。

 ローディンは紙を卓へ戻し、今度は別の書面を開いた。


 「谷の共有施設利用承認は、寒季緊急措置として出されたものだ。雪害期間の炊き出し、配給補助、緊急避難者支援まではカバーする。だが、常設食堂としての営業継続は別件だ」

 「補足申請は出す準備をしています」

 セシリアは言った。

 「今日、必要書類も揃えました」

 「揃えたのは今日だろう」


 まるで、その一日の遅れだけで人を潰せると知っている声だった。


 「監査局は『これから出す』では判断しない。現時点で、営業主体の継続資格が不十分。加えて、衛生不備が三点。排水溝の蓋の緩み、灰受け規格の不足、配膳台の高さ不適合。軽微でも、同時発生なら改善確認が要る」


 レクシーが布巾を握りしめた。

 「そんなの今ここで直せるじゃない」

 「修繕した事実と、修繕後の再確認は別だ」


 ローディンは淡々としていた。

 怒ってもいない。侮ってもいない。だからこそ厄介だった。人の暮らしを止める判断を、天気の報告みたいな顔で口にできる。


 「よって」

 彼は紙束の最上段を表へ返した。

 「営業施設白梢食堂に対し、臨時閉鎖命令を出す。改善確認および継続資格審査が終わるまで、営業、配膳、代金受領を伴う飲食提供を停止せよ」


 食堂の中央で、何か見えないものが音もなく落ちた。


 ユノが、すぐには意味を呑み込めない顔でセシリアを見る。

 トトは持っていた釘を一本、床へ落とした。

 アンナが息を吸い、プラチャンは今にも何か言いそうに唇を噛む。ミルコフは木槌を置いたまま、戸口とローディンの距離を測る目になっていた。


 「臨時、ということは」

 ネマーニャが先に問う。

 「再確認を経れば解除される」

 「改善が認められればな」

 ローディンは短く返す。

 「もっとも、継続資格審査の方が先に詰まる可能性はある。暫定個人登録者が主体のまま、どこまで長期営業を認めるかは上で揉めるだろう」


 その言い方は、答えを与えるためではなく、別の道をほのめかすためのものだった。


 「上で揉める、ですか」

 ネマーニャの声がわずかに低くなる。

 「では、今日の閉鎖判断は衛生だけではない」

 「私は必要な項目を見ただけだ」


 ローディンはそう言って、命令書へ赤い封印札を重ねた。

 食堂の入口脇の壁へ、その札がぴたりと貼られる。


 白地に赤の文字。

 営業停止。

 改善確認待ち。


 たった数文字なのに、鍋の湯気まで冷たく見えた。


 表でそれを見た住民たちが、じわじわと集まり始める。

 昼のあいだ倉の仕分けを手伝っていた織り手の女。橋板を運んでいた木こり。診療所帰りの老人。誰も大きな声は出さない。ただ、貼られた札を見て、自分の胸の前へ手を持っていくような顔をする。


 「今夜の飯は」

 誰かが小さく呟いた。

 「明日の朝は」

 別の声が続く。


 セシリアは一歩前へ出た。

 膝の奥が少しだけ震えたが、声は出た。


 「今日この時点で、食堂としての営業は止まります」

 自分で言うたび、喉がひりつく。

 「ですが、谷の食べる手立てまで止めはしません」


 ローディンが何か言いかけたが、アルベルトの声がその前に飛び込んできた。


 「その通りだ」


 戸口へ入ってきた第二王子は、雪混じりの風を一緒に連れていた。

 後ろには補佐官二人と、午前に同行していた従者。彼は壁の封印札を見た瞬間、表情を変えた。


 「ローディン、早いな」

 「必要な確認は済みました」

 ローディンは一礼したが、声音は硬い。

 「衛生不備と継続資格の欠落がある以上、先に止めるのが妥当です」

 「私が戻るまで待てと言ったはずだ」

 「殿下は救援物資の件へ集中されていた。こちらは監査局の範疇です」


 言い返しは短かった。

 けれどその短さの奥に、王子であっても口を差し挟ませない線引きが見える。


 アルベルトは命令書を受け取り、素早く目を走らせた。

 途中で、眉間が深く寄る。


 「改善確認期日が三日?」

 「はい」

 「異常に短いな。継続資格審査の予備照会まで同時に掛けている」


 ローディンは答えず、ただ表情を消した。

 その沈黙だけで十分だった。


 ネマーニャが静かに言う。

 「三日で改善確認。だが、継続資格の照会は王都往復で最低でも十日はかかる」

 「そうだ」

 アルベルトは命令書を握ったまま、低く続けた。

 「つまり厨房を磨かせ、書類を積ませ、営業は止めたまま、答えだけ先延ばしにする。誰かが困って、別の条件へ縋りつくのを待つ形だ」


 セシリアはその言葉で、昨日の馬車の窓を思い出した。

 こちらを見るのではなく、鍋と戸棚と梁の長さだけを測っていた、あの細い目を。


 「婚姻交渉の時間稼ぎですね」

 自分の声が、思っていたより静かに出た。


 アルベルトは目を伏せ、それから頷いた。

 「おそらく。表向きは監査手続きだが、流れができすぎている」


 食堂の中で、一度、完全な沈黙が落ちる。


 悔しさはある。

 腹も立つ。

 だがそれ以上に、今ここで皆の顔から湯気みたいに引いていくものが見えるのが怖かった。

 この食堂は、ただ飯を出す場所ではない。ここが止まると、腹の段取りだけでなく、言葉を交わす場所まで減る。明日の約束が、急に紙一枚へ脅かされる。


 その時、戸口の外から甲高い声がした。


 「止まってる場合じゃないわよ!」


 叫んだのは織り手のマリカだった。

 いつも毛糸玉を腰へぶら下げて来る女で、寒い日は必ず椀を両手で包んでから飲む人だ。彼女は封印札の下へ立ち、食堂の中を見回した。


 「排水溝の蓋が緩いなら直す、台が低いなら脚を足す、灰受けが浅いなら鍛冶場から鉄板もらえばいいでしょ。誰か、鍛冶場に走って」


 「行く」

 木こりの青年がすぐ手を挙げた。


 「井戸から厨房までの運搬経路図、前の冬ので止まってたはずだ」

 診療所帰りの老人が言う。

 「わし、あの頃の当番表持ってる」

 「うちにもある!」

 別の女が応じる。

 「雪かき番と合わせれば日付埋まるよ」


 レクシーが目を丸くしたまま、外の人々を見る。

 「ちょ、ちょっと待って、今の流れ、誰の指示?」

 「誰のでもない」

 プラチャンが泥だらけの腕を上げた。

 「必要なのが見えてんだろ。じゃあ動く」


 そこで何かが切り替わった。

 守られる時の顔から、働く時の顔へ。


 ミルコフがすぐ表へ出て、木こり二人へ裏口の段差と手すりを指示する。

 アンナは診療所の煮沸釜を借りると言って布をまとめる。マリカは女たちへ声を掛け、棚布と窓布の洗い直し班を作る。プラチャンは板切れへ大きく必要項目を書きつけ始めた。


 『排水溝』

 『台脚』

 『灰受け』

 『運搬図』

 『井戸当番』

 『共同炊事証明』

 『証人署名』


 字が少し曲がっているのは、彼が地面や荷札へ書く方に慣れているからだ。

 けれど一行ずつ増えるたび、ただの不安が仕事へ変わっていく。


 「証人署名って、まだやるのか」

 木こりの青年が問う。

 「やる」

 ネマーニャが即答した。

 「むしろここからです。共同井戸の当番、清掃参加、食堂利用、配給受領、読み書き教室参加。誰が何を見て、何を知っているかを、自分の名で残してください」


 “自分の名で”という言葉に、何人かが少しだけ息を詰めた。

 以前なら、そこで手が止まっていたかもしれない。

 けれど今は違う。


 「私、書けるよ」

 最初に言ったのは、洗い場を手伝っている若い母親だった。

 「遅いけど。教室でやった」

 「俺も」

 橋の補修へ入っていた男が続く。

 「まっすぐじゃないけど、自分で書ける」

 「曲がっててもいい」

 ネマーニャは言った。

 「読めて、本人がそうだと認められるなら、それは立派な署名です」


 ユノがトトの袖を引く。

 「ぼくも、なまえ書く」

 「ぼくも。まえより、まっすぐ」

 「子どもは後でな」

 ミルコフが言ったが、耳の先が少しだけ甘い角度になっていた。


 ローディンはその様子を見ていた。

 食堂を止めれば、うつむくと思っていたのかもしれない。あるいは誰かが泣きつき、王都の婚姻話へ縋るとでも。

 だが白梢の谷の人々は、泣く前に箒を掴み、怒鳴る前に板を運び始めていた。


 「念のため言っておくが」

 ローディンが低く言う。

 「封印下の厨房で営業行為を続けた場合、命令違反として加重処分になる」

 「営業はしません」

 セシリアは答えた。

 「共同炊事と、各家への配り分けに切り替えます。代金も受けません」

 「記録を残せ」

 「もちろんです」


 その返答だけは、彼も否定しなかった。

 命令書に触れる資格がある者でも、共同炊事の鍋まで止める理屈は作りきれないのだろう。


 アルベルトが住民の方へ向き直った。


 「封印札は命令だ。だが、従うことと諦めることは同じではない」

 彼の声は、王都で育った者のそれだった。よく通り、少し硬く、でも今日は逃げなかった。

 「改善確認を三日後に前倒しで受ける。継続資格の照会は私の名で急がせる。中継倉と支援局の文書照合も並行する。白梢の谷が手を止めないなら、私も止めない」


 昨日なら、その言葉を簡単には信じられなかった。

 だが今日は、少なくとも彼が壁際へ逃げていないことだけは見える。

 それで十分だった。


 日が傾くまで、食堂の周りは働く音で満ちた。


 鍛冶場から運ばれた鉄板で灰受けが作り直され、配膳台の脚には端材が足された。裏口の段差はミルコフと木こりたちが一気に組み直し、排水溝はプラチャンが勾配を測って石を噛ませた。マリカたちは棚布を煮沸し、アンナは厨房用の新しい手拭いへ色糸で日付を縫い込む。洗った器具は並べ方まで変えられ、誰が見ても雑然とは言えない列になった。


 セシリアはそのあいだ、営業を止めた食堂の中で、食堂ではない仕事を続けていた。

 共同炊事の鍋を診療所側の竈へ移し、働く人へ温かな麦粥を回す。今夜のぶんは各家の鍋で仕上げてもらえるよう、下煮えまで済ませて渡す。誰にどれだけ必要かを聞きながら、いつもの椀ではなく蓋つきの持ち帰り鍋へ分ける。


 「ほら、ここから先は家で煮るだけ」

 そう言って渡すたび、人々の顔から少しだけ色が戻る。

 閉鎖命令の紙は壁へ貼られたままでも、腹の温度までは奪えない。


 夜になると、食堂の卓は再び並べ替えられた。

 今度は食事の席ではない。署名の席である。


 窓の外は群青へ沈み、竈の火が低く部屋を照らす。卓の上には炭筆、インク、筆記布、木板、証言用紙。ネマーニャが一枚目の見本を書き、横へ読み仮名を打ち、さらにその下へ空欄を作る。


 「名前を丁寧に」

 彼は言った。

 「急がなくていい。誰かの代わりではなく、自分の名を書くつもりで」


 最初に座ったのは、昼に“私、書けるよ”と言った若い母親だった。

 炭筆を握る指が少し震えている。けれど、一文字目を置いてからは逃げなかった。曲がりながらも自分の名が最後まで並ぶと、彼女は紙より先に、自分の手を見た。


 「書けた」

 「はい」

 ネマーニャが頷く。

 「書けています」


 次は木こりの青年。その次は老人。織り手。荷運び見習い。洗濯係。雪かき番。診療所手伝い。

 以前なら拇印か、せいぜい代筆の横へ印を置くだけだった人たちが、今夜は順番に自分の名を紙へ載せていく。


 レクシーはそのたび、証言欄へ短く補足を書いた。

 この人は冬のあいだ毎朝食堂の水桶を運んだ。この人は診療所の配給日に列を整えた。この人は遊技庭園の柵修繕へ入った。この人は共同井戸の清掃当番を三十七回務めた。

 ありがとう帳が、今夜だけは法の顔をしていた。


 プラチャンは搬入と配給の記録をまとめながら、時々列の後ろを振り返る。

 「おい、字忘れたやつ、今のうちに練習板使え。下手でもいいが、昨日より上手くなってると嬉しいぞ」

 「急に気ぶり役以外もやるんですね」

 アンナが言うと、彼は鼻を鳴らした。

 「こういう時に数字しか見ないやつは無能だ」


 ユノとトトは、少し離れた端卓で自分の名を何度も書いていた。

 まだ証人欄へ正式に載せるには幼すぎる。けれどトトの“ト”は昨日よりずっと揺れが減り、ユノの“ユ”は前より高く跳ねなくなっている。二人は書けるたびネマーニャへ見せに行き、そのたび「前より良いです」と言われて戻ってきた。


 セシリアはその光景を、共同炊事用の薄いスープを配りながら見ていた。


 思い出すのは、最初にこの谷へ来た日のことだ。

 寒さに肩をすくめ、名前を聞かれてもうまく答えられず、食べさせる相手の皿だけを見ていた頃。あの時の白梢の谷は、誰もが自分の明日だけで精一杯だった。

 今、同じ部屋で、同じ寒さの名残の中、皆は自分の名を書いて町を守ろうとしている。


 守られる側から、守る側へ。

 その変化は、剣を振るう音では来なかった。

 炭筆が紙を擦る、細く乾いた音でやってきた。


 「セシリアさん」


 呼ばれて振り向くと、アンナが一枚の紙を差し出していた。

 共同炊事の実施記録。誰へ何鍋分を渡し、代金を取っていないこと、食堂閉鎖命令下では営業を停止したこと、診療所と浴場で分担したことが整然と書かれている。


 「あなたの署名を」

 アンナは言う。

 「代表としてじゃなく、今日、自分で鍋を動かした人として」


 セシリアは紙を受け取った。

 インク壺の表面が、火を小さく映している。


 いまの自分の名は、まだ暫定個人登録のものだ。

 どこか途中の橋みたいな、落ち着かない名。

 けれどその橋の上にも、今日の働きはちゃんと載る。


 ペン先を置き、一文字ずつ書く。

 セシリア。

 名字のないその署名を見ても、今夜は少しも足りない気がしなかった。


 その時、戸口の鈴がまた鳴った。

 今度は馬ではなく、人が一人で来る足音だ。


 入ってきたのはベルマンの従者だった。

 昼に見た、飾り金具の多い馬車へ付き添っていた若い男である。彼は室内の卓と列を見て、明らかに予想外という顔をした。うつむく人間や泣き崩れる食堂を想像していたのだろう。ところが実際には、辺境の人々が真面目な顔で自分の名を書いている。


 「セシリア殿に」

 彼は小さな封筒を差し出した。


 受け取る前に、アルベルトが一歩前へ出た。

 「差出人は」

 「ヴェルトラム卿より」

 「ここで読んでよろしいな」

 「そ、それは……」

 「監査中の施設へ届く私信だ。王族立会いで開く」


 従者は抵抗できず、封はアルベルトの手で切られた。

 中の短い紙には、たった二行だけ記されていた。


 ――今ならまだ間に合う。

 ――承諾の返書があれば、営業再開の口添えは可能。


 部屋の空気が、今度は怒りで静かになった。


 ベルマンではない。ヴェルトラム伯の名でもない。

 もっと手前で、もっと露骨に、人の腹と居場所を使って首を縦へ振らせようとしている。


 アルベルトは紙を無言でネマーニャへ渡し、ネマーニャは一度読んでからセシリアへ差し出した。

 セシリアは最後まで読み、丁寧に折り直し、火のついていない灰皿へ置く。


 「よくわかりました」

 彼女は言った。

 「この閉鎖命令は、鍋の汚れを理由にしただけではないのですね」


 アルベルトの声は苦かった。

 「証拠として預かる」

 「お願いします」


 それだけで十分だった。

 誰ももう、これは単なる行き違いだとは思わない。


 だが不思議なことに、その紙を見たあと、セシリアの胸の中の震えは少しおさまった。

 怖さが消えたわけではない。ただ、相手が何をしたいのかが見えた分、こちらも何を守るかがよりはっきりしたのだ。


 列の後ろから、老人が咳払いをした。

 「次、わしか」

 「はい」

 ネマーニャが席を示す。


 老人はゆっくり座り、手元の見本を見てから炭筆を持った。

 指の関節が太く、字を書くより鎌を握ってきた手だ。それでも、一文字、一文字、呼吸を合わせるみたいに自分の名を紙へ置いていく。


 最後の払いが終わると、彼は少し照れたように笑った。


 「若い頃、名前なんざ税の時しか使わんかった」

 「今は違います」

 ネマーニャが答える。

 「今夜は、この町を守る時に使います」


 その一言で、列の後ろにいた何人かが背を伸ばした。


 夜更け近く、卓の上には署名の揃った紙が何十枚も積み上がっていた。

 共同井戸の清掃記録。冬季炊き出しの証明。配膳手伝いの当番表。遊技庭園の補修参加簿。読み書き教室の出席と到達度。食堂利用者の陳述。診療所から見た栄養改善の記録。裏口段差修繕の完了証明。


 どれも王都では取るに足らない紙切れに見えるかもしれない。

 だがこの谷では、それぞれが雪の日の歩幅や、空腹の夜や、名前を覚え直した時間の積み重ねだった。


 ネマーニャは最後の紙束を整え、麻紐で結んだ。

 その指先は少し赤い。長く打ち、長く教え、長く待った夜の手だった。


 「三日後までに足りるでしょうか」

 セシリアが問う。


 ネマーニャは紙束を見下ろし、それから住民たちを見る。

 棚布を絞り終えた女たち。泥だらけのまま列へ並んだ男たち。眠そうな顔で自分の名の練習を続ける子どもたち。鍋を抱え、空のままでは帰らせないつもりで立っているアンナ。全部の予定を頭へ入れた顔で残り時間を数えるプラチャン。戸口を背にして、もう誰にも不用意に食堂の中を踏ませない姿勢のミルコフ。


 「足ります」

 ネマーニャは言った。

 「書類の数ではなく、今日ここにある意思で足ります」


 その返事へ、レクシーが鼻をすすった。

 「先生、そういうこと真顔で言うからずるいのよ」

 「事実です」

 「だから泣くの」


 小さな笑いが起きる。

 泣き笑いみたいな、あたたかい方のやつだ。


 セシリアは壁の封印札を見た。

 赤い文字はまだ消えていない。明日も明後日も、そこに貼られたままだろう。

 それでも今夜、白梢の谷は止まっていなかった。


 鍋は別の場所で火を守り、床板は磨かれ、排水溝は直り、紙には名前が並んだ。

 かつては読めないまま渡される契約へ怯えていた人たちが、今は自分の名を書いて、自分の町のための証言を差し出している。


 その光景を前にすると、閉鎖命令は終わりではなく、線を引かれた場所に見えた。

 ここから先へ誰が立つのかを問う線だ。


 セシリアは封印札から目を離し、卓の上の紙束へ手を置いた。


 「明日もやりましょう」

 彼女は言う。

 「磨くところが残っているなら磨く。足りない紙があるなら探す。書けない字があるなら練習する。白梢の谷の食堂は、紙一枚に黙って取られるほど軽くありません」


 「はい」

 返事は、思ったより多く重なった。


 子どもから老人まで、重なった声の高さはばらばらだった。

 でも、そのばらばらが、この町だった。


 夜の終わりに近い火が、竈の奥で小さく鳴る。

 食堂は閉じられた。

 けれど、白梢の谷を支える手は、今夜、前よりずっと多く開いていた。



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