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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第29話 白梢の谷へ戻れ

 父との対面を終えて旅籠へ戻るころには、王都の空はもう夕方の鈍い鉛色へ沈みかけていた。


 石畳の隙間に残った雪が、踏まれるたび薄く鳴る。道行く人々は審理の結果など知らぬ顔で肩をすぼめ、店先では焼き栗の煙が細くのぼっている。王都はいつだって、人の人生がひっくり返る日でも、夕餉の支度を止めない。


 旅籠の二階奥に借りた部屋では、プラチャンが証拠箱の金具を最後まで確かめ直していた。

 もう勝ったのだからそこまでしなくても、と誰かが言えば、彼はきっと、勝ったあとに壊れる荷がいちばん困る、と真顔で返すのだろう。


 ネマーニャは窓際の机に魔導タイプライターを置き、審理の控えを書き起こしていた。

 正式裁定の文言。提出済み資料の返却予定。白梢の谷へ持ち帰るべき副本の整理。指先は静かだったが、打鍵の間にだけ、疲れの色がにじんでいる。


 セシリアは外套を脱ぎ、旅籠の女将が持たせてくれた湯で手をあたためた。

 湯気が上がるのを見つめていると、さっき父へ言った言葉が、今になって胸の奥で重く沈み直してくる。あれで終わったのだ。終わらせたのだ。けれど、終わったからといって、白梢の谷の冬が待ってくれるわけではない。


 「少し、何か作ってきます」

 セシリアが言うと、プラチャンが顔を上げた。

 「もう食うのか」

 「食べるものではなくて、明日の道中用に少しだけ」

 「明日?」

 「帰り道のぶんです」


 その時だった。


 階下から、靴音が駆け上がってきた。廊下を滑るような速さで近づき、扉が二度、短く叩かれる。


 「入れ」

 ネマーニャが言うと、扉の向こうからアルベルトが入ってきた。


 濃紺の外套の肩に雪がついている。王族の顔ではなく、急報を抱えた男の顔だった。後ろには、城下の伝令所で働くらしい若い書記が一人、息を切らして立っている。


 「悪い。休む前に聞いてくれ」

 アルベルトはそう言って、封の切られた紙を卓へ置いた。

 「北方補給路の確認を回していた。今日の昼過ぎ、白梢の谷向けの冬物資が、灰鐘の宿場で足止めされた」


 プラチャンの顔つきが変わる。

 「理由は」

 「道路凍結、馬の脚損、荷票の再確認。名目はいくらでも並んでいる。だが」

 アルベルトは短く息を吐いた。

 「止めた補給商の帳場に、公爵家の出納係と同じ印墨が使われていた」


 部屋の空気が、一段冷えた。


 表向きは裁定へ従い、裏では兵糧を止める。

 あの人ならやる。やるとわかっていたはずなのに、実際に形になると、怒りより先に計算が走った。谷の倉。塩の残り。乾燥豆。診療所の保存薬。永火のかまどの薪。子どもたちが腹いっぱい食べられる日数。


 セシリアはすぐに問い返した。

 「どれくらいの荷が止まっていますか」

 「麦袋八、乾燥肉四、塩樽二、薬草箱一、釘箱二、油樽一」

 プラチャンが即座に数えるように呟く。

 「止められたら困る物だけきれいに抜いてやがる」


 ネマーニャはもう席を立っていた。

 「灰鐘の宿場から先へ、別系統の荷を回せる中継は」

 「二つある」

 アルベルトが答える。

 「ただし小さい。雪の深い脇道しか使えん」

 「十分です」


 彼がタイプライターへ紙を差し込んだ、その時、さらにもう一度、扉が叩かれた。


 今度の音は、さっきより乱れていた。


 若い書記が振り返って扉を開ける。

 入ってきたのは、北方の外套を着た騎手だった。裾も手袋も雪と泥で固まり、片膝をついたまま肩で息をしている。馬を飛ばし続けた者の呼吸だった。


 「……白梢の谷、北方伝令所経由、急報」

 騎手は胸元から、油紙に包んだ細長い筒を取り出した。

 「灰森の巡回士から。途中の継ぎ場で二人替えました。ここへ、すぐにと」


 ネマーニャが筒を受け取る。

 封蝋は簡素な北方印だが、紙の外側へ走り書きされた一言で、セシリアの胸が鳴った。


 ミルコフの字だった。


 ネマーニャが封を切る。

 中には、打鍵ではなく手書きの短い報せが入っていた。急ぎすぎて筆圧がいつもより強い。


 『補給未着。

 谷外縁に餓え群れ。

 灰角五、痩狼多数、夜に寄る。

 柵二重。火は保つ。

 持久三日。

 白梢の谷へ戻れ。』


 最後の一行だけ、ひどく大きかった。


 戻れ。

 頼むでもなく、来てほしいでもなく、命令の形だった。

 ミルコフがそんな書き方をする時は、迷っている暇がない時だけだ。


 セシリアの指先から、さっきまで残っていた父との対話の冷えが、すっと抜けていった。

 代わりに、はっきりした熱が入る。


 「三日では足りません」

 彼女は立ち上がった。

 「今あるものを持って出ます。走りながら食べられて、冷えても固くなりにくいものを作ります」


 プラチャンも同時に動く。

 「馬だ。四頭じゃない、交代分もいる。宿場ごとに繋ぎ替える。女将に厩の口利き頼む」

 「橋札もだ」

 アルベルトが言う。

 「北門、東街道、灰鐘、黒樅、北梁。通行優先札を私の名で切る。公ではなく緊急輸送扱いにする」

 「公のままでいいだろうに」

 プラチャンが吐き捨てる。

 「公のままだと、公爵家に嗅ぎつけられる」

 アルベルトの声は低かった。

 「今夜は速さだけを取る」


 ネマーニャの打鍵が始まる。


 乾いた音が、旅籠の部屋いっぱいへ跳ねた。

 白梢の谷支援要請。北方中継倉への荷分割指示。灰鐘宿場の補給差し止め記録保存命令。黒樅猟師組合への迎撃応援願い。修道院薬草庫への緊急融通照会。橋番所への夜間通行通達。打ち出された紙が卓の端へ滑り出るたび、若い書記と騎手が目を見張る。


 「三通ずつ」

 ネマーニャが言う。

 「一通は現地。一通は控え。一通は、妨害された時のため別路へ」

 「先生」

 アルベルトが低く呼ぶ。

 「王都近郊の記録塔にも一枚」

 「わかりました」


 彼は止まらない。

 あの人の指は、誰かの未来を縛る文字のためだけにあるのではない。今夜は、人を生かすための紙を増やしていく。


 セシリアはもう廊下へ出ていた。


 旅籠の厨房は、夕食の仕込みで湯気に満ちていた。焼き皿の油がはぜ、骨を煮る鍋の匂いが天井へこもる。女将が振り向き、彼女の顔を見るなり事情を聞かなかった。ただ、片方の腕で袖をまくりながら言った。


 「どれだけ要る」

 「今夜すぐ持ち出せるだけ、全部」

 「いい返事だね」


 厨房の卓へ、材料が次々と集まる。

 固めの黒パン。茹で豆。塩漬け肉。乾燥林檎。玉ねぎ。獣脂。蜂蜜。酢漬けの蕪。卵。粗挽き粉。胡椒。乾かした香草。


 セシリアは迷わなかった。

 黒パンは湯へ浸して戻し、塩漬け肉と豆を叩いて混ぜ、玉ねぎを獣脂でよく炒める。そこへ粉と卵を少しだけ足して、手のひらへ収まる薄焼きの包みへしていく。冷えても齧れる。歩きながらでも食べられる。塩気は強め、脂は多すぎず、噛むほど腹へ残るように。


 もうひとつ、乾燥林檎と蜂蜜と砕いた木の実で、甘い携行菓子も作った。

 疲れた時、口へ一欠け入れるだけで頭が落ちないように。ユノやトトに渡すなら、どんな味が安心するか。ミルコフなら夜目を落とさぬ程度の甘さ。アンナなら空腹で倒れずに済むくらい。レクシーなら忙しい合間でも笑えるひと口。そうやって顔を思い浮かべるたび、祝福の厨房は静かに熱を帯びていった。


 女将が焼き台の火を強める。

 「いい匂いだね」

 「急ぎですから、見た目は後回しです」

 「見た目まで整えてる時間があるなら、そりゃそうしな」

 「はい」

 「でも今夜はこれでいい。走る人の飯は、きれいより先に着かせるんだ」


 その言葉に、セシリアは小さく笑って頷いた。


 焼き上がった薄包みは布でくるみ、さらに油紙で包む。

 甘い携行菓子は小袋へ分け、塩を強めた肉豆包みとは別にした。食べる順番を間違えないよう、ネマーニャが後で札を打ってくれるはずだ、と考えたところで、自分がもうあの人の動きを前提に手を動かしていることに気づく。


 厨房の戸口に、ちょうどそのネマーニャが立っていた。

 紙束を抱えたまま、湯気の中へ入ってくる。


 「灰鐘へ向かう便と、北梁へ回す便を分けました。猟師組合から返答があれば、谷の外縁で合流できる可能性があります」

 「ありがとうございます」

 「食べる順番の札も」

 彼は短く続けた。

 「しょっぱい方から。甘い方は眠気が出る前に」

 「やっぱり考えていましたね」

 「考えます」

 彼はごく当たり前のように言った。


 セシリアは焼き上がったばかりの薄包みをひとつ差し出した。

 「先生、味見を」

 「いま?」

 「いまです。走りながらでは感想を聞けませんから」

 「感想が必要ですか」

 「必要です」


 ネマーニャは受け取ると、まだ熱の残るそれを半分に割った。

 湯気の向こうで、炒めた玉ねぎと肉の香りが立つ。彼はひと口食べ、少しだけ目を伏せる。


 「……速く走れます」

 「それは褒め言葉ですか」

 「今夜は、最上級です」


 その返答がうれしくて、けれど胸を弾ませている暇はなかった。

 谷で待つ人たちの顔が、熱の向こうに次々浮かぶ。


     ◇


 出発は、夜の鐘が二つ鳴る前になった。


 北門の外は、朝よりも冷えていた。門灯が風に揺れ、馬の鼻息が白く立つ。プラチャンが手綱と荷締め紐を最後に引き、アルベルトは夜間通行札を衛兵へ見せる。騎手たちにはネマーニャが打ち出した文書が振り分けられ、それぞれ別の道へ散る準備が整っていた。


 「灰鐘へ一騎、黒樅へ一騎、北梁へ一騎」

 ネマーニャが確認する。

 「宿場で足を替え、返答があれば谷へ直行」

 「了解」


 若い書記が文書筒を胸へ抱え、緊張した顔で頷いた。

 伝令所の騎手は、もう顔色を戻している。急報を届け終えた者の目だった。


 セシリアは荷車へ積んだ包みを手で確かめた。

 携行食。塩。小鍋。湯袋。予備の外套。薬草。燃えやすい細薪。どれも充分ではない。けれど、何も持たずに帰るよりずっといい。


 「セシリア」

 アルベルトが声をかける。

 「裁定書の写しは私が持つ。道で止められても、先に進ませる」

 「お願いします」

 「……今度は」

 彼はそこで言葉を切った。

 「今度は、遅れない」


 セシリアは短く頷いた。

 許したわけではない。けれど、今夜その言葉を背中へ受け取ることはできた。


 ネマーニャが御者台へ上がる前に、ミルコフの急報をもう一度見た。

 油紙の端は、運ばれる間に少し擦れている。けれど最後の一行だけは、まだ生々しいほど濃かった。


 白梢の谷へ戻れ。


 戻る。

 その言葉は命令である前に、今の彼女には祈りの形にも聞こえた。

 帰る場所があるからこそ、こんな夜でも馬を走らせられる。


 セシリアは御者台へ上がり、荷の横へ腰を据えた。ネマーニャが手綱を取り、プラチャンが後ろの荷台へ乗り込む。アルベルトの馬が並び、門の鎖がゆっくり上がった。


 冷たい夜気が、一斉に頬を刺す。


 「行きましょう」

 セシリアが言う。


 ネマーニャは前だけを見たまま、短く答えた。

 「白梢の谷へ」


 次の瞬間、馬車は雪を蹴って走り出した。


 王都の灯が背後へ流れる。

 前には、深い夜道と、補給の止まった谷と、飢えた魔物の影が待っている。

 それでもセシリアの胸の内には、不思議なくらい迷いがなかった。


 あの谷には、名を呼んでくれる人がいる。

 席を空けて待ってくれる人がいる。

 だから戻る。


 吹きつける雪の向こうで、北の空だけが、うっすらと白くひらいていた。



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