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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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18/32

第18話 その手は、まだ打てる

 永火石の赤が、朝まで静かに残った翌日から、食堂には目に見えない忙しさが一つ増えた。


 火を見に来る客が増えた、というだけではない。

 浴場の利用札の増刷、薪の持ち出し控えの整理、遊技庭園の補修願い、読み書き教室の筆記布の追加注文、診療所へ回す保存食の目録。白梢の谷で暮らしが少しずつ整うほど、紙へ落とすべきことも増えていく。


 帳場の机には、朝から紙が三段に積まれていた。

 ネマーニャはその前へ座り、いつものように鍵盤へ指を置く。

 浴場の補修材発注書。

 薪置き場の控え。

 読み書き教室の夜間利用届け。

 そこまでは、何もおかしくなかった。


 紙が送り出されるたび、細い音を立てて白い列が重なる。打鍵の速度も、文言の正確さも、昨日までと変わらない。けれどセシリアは、鍋へ豆を落としながら、そこに混じるほんの僅かな淀みを見逃せなかった。


 止まるのだ。

 特定の紙へ触れた時だけ。


 「先生、これもお願いします」


 レクシーが持ってきたのは、浴場裏手の非常口案内板の原稿だった。雪で塞がれた時のため、逃げ道を図入りで示したものを増やしたいらしい。


 「承知しました」


 ネマーニャは原稿を受け取り、ざっと目を通す。

 非常時避難順路。

 火気厳禁。

 緊急隔壁。

 その三つの語が並んだあたりで、彼の右手が、目で追わなければわからないほど小さく震えた。


 鍵盤の上に落ちた指が、そのまま一打目を押せない。

 ほんの一息。だが彼を知る者には長すぎる間だった。


 「……先生?」


 ユノが不思議そうに首を傾げる。

 ネマーニャはすぐに表情を戻し、紙を揃え直した。


 「すみません。用語を、もう少し子どもにも読みやすく直します」

 「ぼく、むずかしいのも読むよ」

 「知っています。でも、急ぐ時の紙ほど、ひと目でわかるもののほうがいい」


 声はいつも通りだった。

 だからこそ、セシリアの胸の奥には、薄い針みたいな引っ掛かりが残る。


 昼前、プラチャンが帳面を抱えて食堂へ飛び込んできた。


 「橋の補修材、北の倉から回していいか確認してくれ。あと、浴場の裏口に雪避け板を増やしたい。紙、今日中にいる」

 「わかりました」


 ネマーニャは新しい用紙を差し込み、淡々と打ち始めた。

 橋梁仮補修許可。

 資材振替控え。

 使用責任者記名欄。

 紙は流れる。だが最後に、雪害と火災の両方を想定した緊急時の閉鎖手順書を添えようとした時、今度は左手まで止まった。


 かちり。


 押し込まれない鍵が、途中で小さく鳴いた。


 「先生」


 セシリアが思わず呼ぶと、ネマーニャは紙を外した。


 「少し、指が冷えました」

 「厨房の火のそばへ」

 「いえ。大丈夫です」


 その返事があまりに早かったので、レクシーとアンナが顔を見合わせた。ミルコフは何も言わず、帳場へ向ける視線だけを少し細くした。


 午後の営業は忙しかった。

 永火石の噂を聞きつけた木こりたちが、汗をかいたまま団体で入り込み、熱い汁物と山盛りの黒パンを注文したからだ。セシリアは鍋の向こうで手を休めず、レクシーは配膳に走り、アンナは湯気で曇った窓を拭き、ユノとトトは空いた椀を下げる。


 そのあいだも、ネマーニャは帳場で伝票を打ち続けた。

 だが、火や避難に関わる文言が紙へ現れるたび、ほんの一拍だけ指が遅れる。

 それはもう見間違いではなかった。


 閉店後、ミルコフが薪束を戸口へ置きながら、低く言った。


 「先生。今日は切り上げろ」

 「まだ、橋の分が」

 「明日の朝でも橋は逃げない」

 「監査が入る前に、形を整えておきたいので」


 その言葉に、プラチャンが顔を上げる。


 「監査?」

 「先日の書式照会です。王都側が、白梢の谷の営業許可と資材運用の確認を正式手順へ切り替えた。近いうちに来るはずです」

 「来る、って、いつだ」

 「早ければ数日。遅くとも十日以内には」


 食堂の空気が少しだけ重くなった。

 セシリアは鍋を拭く手を止める。


 「それ、昨日のうちに聞いていた話ですか」

 「……はい」

 「どうして、すぐ言わなかったんです」

 「営業を止める理由にはなりません」


 平坦な答えだった。

 だが、その平坦さは、何かを押し潰している時のものだともうわかる。


 レクシーが小さくため息をついた。


 「止める理由じゃなくても、知っておく理由にはなるでしょう」

 「すみません」


 ネマーニャは謝った。

 それで話を終えようとする謝り方だった。


 片づけが済んだあと、プラチャンは明日の段取りをぶつぶつ言いながら浴場へ向かい、アンナは診療所の夜番へ戻り、レクシーはユノとトトを連れて奥の寝床へ引っ込んだ。ミルコフは戸締まりを確認してから、出ていく前にセシリアへだけ聞こえる声で言う。


 「今夜、先生を一人にするな」


 それだけ言って、狼の尻尾を一度だけ揺らし、夜の見回りへ消えた。


 食堂に静けさが戻る。

 永火石の火は今夜も深く、鍋を外したあとの熱だけで室内をじんわり温めていた。


 ネマーニャは帳場ではなく、厨房の端にある小さな作業机へ移っていた。

 そこへ避難案内板の原稿や緊急閉鎖手順書の下書きが積まれている。たぶん、誰にも見られないうちに片づけるつもりだったのだろう。


 「先生」


 セシリアが声を掛けると、彼は顔を上げた。


 「もうお休みになってください」

 「その前に、林檎とシナモンの温い飲み物を作ります」

 「また茶を?」

 「ええ。今日は少し甘いほうがよさそうです」


 断られる前に、セシリアは鍋へ小さな片手鍋を掛けた。乾燥林檎と香辛料、ほんのわずかに蜂蜜。昨日の茶と似ているが、今夜は喉へ残る温かさを長くしたかった。


 湯気が立ち始めるまでのあいだ、二人とも口を開かなかった。

 ぱち、と薪が鳴る。

 その音に、ネマーニャの肩がわずかに強張る。

 昨日よりずっと、はっきりと。


 セシリアは火加減を見てから、背を向けたまま言った。


 「その紙だけ、指が止まりますね」


 返事はすぐには来なかった。

 やがて、椅子が軋む音がして、低い声が落ちる。


 「気づいておられましたか」

 「昨日から」

 「隠せているつもりでした」

 「半分くらいは」


 少しだけ、彼が息を漏らした。笑いにも、降参にも聞こえる短い音だった。


 セシリアは湯呑みに飲み物を注ぎ、片方を彼の前へ置く。自分の分を持って、向かいではなく隣の椅子へ座った。

 すぐ隣ではない。肩が触れないくらいの距離。けれど、逃げるための距離でもない。


 「聞いてもいいことなら、聞きます」


 ネマーニャは湯呑みの縁を見た。

 白い湯気が眼鏡を薄く曇らせ、その奥の目を少しだけ遠くする。


 「特定の術式だけです」


 ぽつりと、彼は言った。


 「避難誘導、緊急転写、封鎖補助。火や崩落の時に使うものです。普段の契約書も帳簿も打てます。地図も届けも問題ない。けれど、あの手の紙になると、鍵へ指を置いた瞬間に、昔の音が戻る」


 セシリアは黙って待つ。


 「記録院の火災の日、私は訓練室にいました。複写機の系統が焼け、紙棚へ火が移り、避難路の一つが崩れた。術式を打てば、別棟へいる者たちへ避難経路を一斉に送れたんです」


 ネマーニャの右手が、湯呑みを持ったままわずかに震えた。


 「……でも、その前に、近くにいた弟子を外へ出さなければならなかった」


 初めて聞く言葉だった。

 弟子。

 セシリアは目を伏せず、そのまま聞く。


 「私は、両方できると思ったんです。手を放して打って、打ち終えたらすぐ戻れば間に合うと。自分の速さを過信した。紙は飛びました。避難経路も届いた。別棟の者たちは助かった。……でも、戻った時には、梁が落ちていた」


 最後の一文だけ、声がかすかに欠けた。


 食堂の火が、小さく鳴る。

 それだけで今のネマーニャには十分すぎるほど似ているのだろう。あの日の、乾いた崩れる音に。


 「弟子を救えなかった日から、あの種類の術式だけ、最初の一打が打てなくなる。手が、覚えてしまったんです。打てば誰かが助かるかもしれない。けれど、打ったせいで、別の誰かへ戻れなくなるかもしれない、と」


 彼はそこで一度、目を閉じた。


 「馬鹿げています。今の私は、白梢の谷で案内板を書く程度だ。目の前に梁が落ちるわけでもない。それでも、鍵盤へ指を置くたび、あの日の判断の続きに立たされる」


 セシリアは湯呑みを両手で包んだ。

 温かさが指先へ移るのを待ちながら、ゆっくり息を吸う。


 「馬鹿げてなんかいません」


 ネマーニャが少しだけ顔を上げた。


 「先生は、その日に大勢を助けたんでしょう」

 「……結果としては」

 「結果ではなくても、です」


 セシリアは火を見る。

 永火石の赤が、灰の下で静かに息をしている。


 「誰かを選ばなければならない場所で、何一つ失わずに済むことなんて、たぶん滅多にありません。先生は、それを自分一人の責任として持ち続けてきた。だから、今も止まる」


 ネマーニャは何も言わない。

 その沈黙へ、セシリアは言葉を重ねた。


 「でも、誰かを救えなかった日があっても、今日の一皿を渡す手までは奪われません」


 自分でも驚くほど、はっきりと言えた。


 「先生があの日に何を失ったとしても、白梢の谷で紙を通し、文字を教え、避難路を整えて、子どもたちへ読める地図を配ってきた手は、もう別の明日をたくさん作っています。今日の火のそばにある手まで、過去の火事へ渡してしまわないでください」


 言い終えたあと、食堂はしんとした。

 外で風が回り、板壁が低く鳴る。


 ネマーニャは湯呑みを机へ置いた。

 その指先がまだ少し震えているのを、彼は隠さなかった。


 「……そんなふうに言われたのは、初めてです」


 声が低い。

 けれど、今までの平坦さとは違った。整えきれないものが、そのまま滲んでいる。


 「記録院では、私は速く打てる側の人間でした。教える側で、失敗しない側で、皆を助ける側でいるべきだった。だから、止まること自体を知られてはいけなかった」


 彼は笑おうとしたが、うまく形にならなかった。


 「先生、と呼ばれるたび、少し怖いんです。私には、その呼び名に見合うものが残っていない気がして」


 セシリアの胸がきゅっと縮む。

 ユノとトトが無邪気に呼ぶその二文字が、この人には嬉しさと同じだけの痛みでもあったのだ。


 「私は」


 セシリアはそこで言葉を切り、迷った。

 こんな時、うまい慰めなどいらないと、もう知っている。

 必要なのは、手触りのある確かなものだ。


 だから、そっと手を伸ばした。


 ネマーニャの肩へ。


 厚い布越しでもわかる。驚いたように筋肉が一度だけ強張り、それから少しずつ、ほんの少しずつ力が抜ける。


 「先生、と呼ばれるのが怖い日があってもいいです」


 セシリアは、肩へ置いた手を強くは押さえず、そのままにした。


 「でも私は、そう呼ばれて子どもたちの前へ座る先生を知っています。難しい紙を、読める形へ変える先生も。間違えた字を笑わず、もう一度だけやってみましょうと言う先生も。だから、その呼び名を残していいのは、たぶん先生ご自身だけです」


 ネマーニャは、すぐには答えなかった。

 肩越しに伝わる呼吸だけが、少しずつ深くなる。


 「……セシリアさん」


 彼が彼女の名を呼ぶ。

 白梢の谷へ来てから何度も聞いたはずなのに、今夜のその呼び方は、妙に近かった。


 「私は、あなたが思うほど立派ではありません」

 「知っています」


 即答すると、ネマーニャが初めて、喉の奥でかすかに笑った。

 笑った拍子に、張り詰めていたものが少し解けたのだろう。彼は顔を伏せ、もう片方の手で目元を覆う。


 「ひどい励まし方だ」

 「励ましてはいます」

 「ええ。わかっています」


 そのまま、しばらく二人は動かなかった。

 セシリアの手はまだ彼の肩にある。こんなふうに自分から誰かへ触れたのは、いつ以来だろうと思う。相手を支えるために袖を引くのでも、椀を渡すのでもなく、ただここにいると伝えるためだけに。


 やがてネマーニャは小さく息を吐いた。


 「少しだけ、打ってみます」


 肩から手を離すと、彼は紙の束の中から、避難案内板の原稿を一枚だけ選んだ。

 鍵盤の前へ置き、指を乗せる。

 先ほどまでなら、それだけで震えが強まっていただろう。


 だが今夜は、止まっても、戻らなかった。

 一呼吸ぶんの間のあと、最初の一打が落ちる。


 かちん。


 文字が生まれる。


 避。


 次いで、難。

 順。

 路。


 完全に震えが消えたわけではない。二行目の途中で一度、右手が強張る。けれどネマーニャは紙を外さなかった。深く息を入れ、打ち直しではなく、そのまま次へ進む。


 セシリアは黙って見守った。

 手伝うとも、頑張れとも言わない。今ここで必要なのは、彼が自分で一枚を最後まで打ち切ることだと思ったからだ。


 やがて、案内板の原稿は最後の句点まで整った。

 子どもにも読めるやさしい字面で、逃げ道と集合場所がわかるよう、記号まで付けられている。


 「……打てました」


 ネマーニャは、出来上がった紙を見て、呟くように言った。


 「ええ」

 セシリアも頷く。

 「その手は、まだ打てます」


 彼が何かを言いかけた、その時だった。


 表の戸が、どん、と重い音を立てた。


 夜の食堂には似つかわしくない叩き方だった。

 客ならもう少し遠慮がある。住民なら合図の癖がある。これは、戸を開けさせる前提の音だ。


 ネマーニャとセシリアが同時に立ち上がる。


 もう一度。

 どん、どん、と間を詰めて鳴る。


 「こんな時間に……」


 セシリアが言い終えるより先に、外から硬い声が飛んだ。


 「王都監査局および王立記録院監査補佐だ! 白梢の谷食堂および関連施設の管理責任者は、直ちに戸を開けよ!」


 室内の空気が、一瞬で冷えた。


 ネマーニャの目が細くなる。

 先ほどまでの揺らぎはまだ完全に消えていないはずなのに、その顔つきだけはもう帳場のそれだった。


 「予定より早い」

 「数日先では」

 「雪道を無理に飛ばして来たのでしょう」


 戸の向こうでは、馬のいななきと、金具の触れ合う音がした。複数人いる。荷車ではなく、公式の印を掲げた監査用の橇か馬車だ。夜半に谷へ踏み込む時点で、穏当な確認だけで終わらせる気は薄い。


 三度目の打音が響く。


 「返答がない場合、公的立入権を行使する!」


 その声に、奥の寝床からユノの寝ぼけた声がした。レクシーもすぐ起きただろう。外では、夜回りへ出たはずのミルコフの足音が雪を蹴って戻ってくる気配がある。


 白梢の谷の、静かな第二の冬支度は、そこで終わった。


 セシリアはかまどの火を一度見た。

 永火石の赤は、今も灰の下で消えていない。


 それから戸口へ向き直る。


 「開けます」


 そう言うと、ネマーニャが隣へ並んだ。

 さっきまで案内板を打っていた手が、今はしっかりと紙束を抱えている。避難路、資材控え、営業記録、利用札の控え。守るために要る紙を、もう彼は落としていなかった。


 外から吹き込む冷気の気配が、戸の隙へ差し込む。

 王都は、とうとう白梢の谷まで来たのだ。


 セシリアは息を吸い、錠へ手を掛けた。



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