表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
17/32

第17話 永火のかまど

 簡易浴場ができてからというもの、白梢の谷の朝はほんのわずかに変わった。


 戸を開けた時の顔色が違うのだ。

 前までは、皆、冷えた頬を強張らせたまま「おはよう」と言っていた。けれど今は、眠そうではあっても、どこか体の芯がほどけた顔で入ってくる。肩が上がりきっていない。息の吐き方も浅くない。湯に入れる日があるだけで、人はこんなにも違うものかと、セシリアは盆を拭きながら何度も思った。


 その朝も、まだ空が白みきる前から厨房へ入った。

 水甕の氷は端だけ薄くなり、薪置き場の木にも春の湿り気が混じり始めている。鍋の支度をする前に、かまどの灰を寄せようとしたセシリアは、そこで手を止めた。


 「……あら」


 昨夜、最後に火を落としたはずの場所で、灰の下がまだ赤い。

 ほんの豆粒ほどの火ではない。薪を一、二本足せばそのまま朝の仕込みへ繋げられそうな、しっかりした熾火だ。


 おかしい、と思う。

 昨夜は閉店後に帳場の整理が長引き、火の番を終えたのはいつもより遅かった。浴場の湯を保つために薪も余分に使ったから、むしろ朝まで残るほうが不自然だ。


 セシリアは火箸で灰を少しだけ払い、小枝を差し入れてみた。

 すると、ぼ、と静かな音がして、赤が思った以上に深く残っていたことがわかる。炎は派手に立たない。ただ、起こせばすぐ応えます、と言いたげに底で息をしている。


 「薪、増やしました?」


 ちょうど入ってきたレクシーへ尋ねると、彼女は首を傾げた。


 「いいえ? 昨日の最後は先生が見てくれたけど、足したって話は聞いてないわ」

 「そうですよね」

 「消えてないの?」

 「ええ。思ったより、ずっと」


 レクシーはかまどを覗き込み、目を丸くした。


 「わあ。なんだか縁起がいい」

 「縁起、ですか」

 「だって、こういうのって嬉しいじゃない。お店の火が、明日まで待っててくれるみたいで」


 その言い方が、妙に胸へ残った。

 明日まで待っててくれる火。

 それは家の火で、食卓の火で、帰ってきた人を迎える火だ。


 セシリアは小さく笑って、鍋へ水を注いだ。


 朝の仕込みが進むにつれ、火の扱いやすさは明らかになった。薪の喰いが昨日までより穏やかで、鍋底への当たりも柔らかい。強く燃え上がるというより、必要な分だけ長く保つ火だ。粥を炊くにも、出汁を含ませるにも、いつもより落ち着いて鍋と向き合える。


 ユノとトトが朝いちばんでやって来た頃には、厨房の空気はもう湯気と香りで満ちていた。


 「今日はなにー!」

 「豆と麦の粥ですよ」

 「やったー」


 セシリアが椀を並べる横で、トトがぴたりと足を止めた。


 「あれ?」

 「どうしました?」

 「きょう、火がちがう」


 小さな指が、かまどの奥を指す。


 「ちがう、とは?」

 「いつもより、あったかいの、ながい」


 ユノまで頷いた。


 「うん。昨日、お皿洗いのあと見た時より、朝のほうが火が元気」

 「見ていたんですか」

 「ちょっとだけ」


 たぶん本当は、ちょっとではない。

 けれど子どもは火の変化によく気づく。寒い谷では、火がある場所が一番の中心だからだ。


 その話を聞いたプラチャンが、帳面を抱えたまま厨房へ半身を突っ込んできた。


 「火が長持ち?」

 「薪の量の割には、という程度ですけれど」

 「程度かどうかは数字で見ないとわからん」


 彼は言うなり薪置き場を確認し、昨日使った分の控えと見比べ、かまどの下まで覗き込んだ。その動きがあまりに本気なので、レクシーが笑う。


 「朝から細かいわねえ」

 「細かくしないと、薪は勝手に生えてこないんだ」


 だが、ほどなくして彼は眉を上げた。


 「妙だな」

 「何がですか」

 「減り方が軽い。浴場へ回した分を考えると、昨日はもっと空になっていい」


 その時、戸口からミルコフが入ってきた。朝の巡回を終えたばかりで、外套の肩へうっすら溶け残りの水が光っている。


 「騒がしい」

 「かまどの火が消えにくい」

 プラチャンが即答する。

 「昨夜の薪量と帳尻が合わん」


 ミルコフはかまどへ近づき、鼻先を少しだけ寄せた。

 炭でも煙でもなく、獣人らしい確かめ方だ。


 「焦げ臭さはない」

 「ええ」

 セシリアも頷く。

 「むしろ、いつもより落ち着いています」

 「なら、悪い変化ではないんだろう」


 そこで、背後からしゃがれた声がした。


 「そりゃあ、ようやく目を覚ましたんだろうさ」


 振り向くと、マルダ婆さんが杖をついて立っていた。朝の粥を受け取りに来たのだろう。けれど視線は椀ではなく、真っ先にかまどへ向いている。


 「目を覚ました、ですか?」

 セシリアが尋ねると、婆さんは当たり前の顔で鼻を鳴らした。


 「その石だよ」

 「石?」


 皆の視線がかまどへ集まる。

 マルダ婆さんは杖の先で、火床の奥をとんとんと示した。


 「灰に埋もれて見えにくいが、奥に赤黒い石が一つ嵌まってるだろ。昔からあった」


 セシリアは火箸で薪を少しずらした。

 すると、煤けた煉瓦の奥に、たしかに普通の石とは少し違う塊が見える。黒鉄みたいな色合いなのに、芯のほうへ細い赤が流れている。今まで何度もかまどを使ってきたのに、ただの焼け跡の色だと思って意識していなかった。


 「ほんとうだ」

 レクシーが身を乗り出す。

 「こんなの、前からあったかしら」

 「前からあったよ」

 マルダ婆さんが言う。

 「ただ、眠ってる時は、ただの頑丈な石にしか見えない」


 ネマーニャが、ちょうどその時、帳場から顔を上げた。

 いつの間にか厨房の様子を見に来ていたらしい。眼鏡の奥の目が、石へ静かに留まる。


 「名称は?」

 「永火石さ」


 婆さんの返答に、室内が少しだけ静かになった。

 名がついた途端、石はただの石ではなくなる。白梢の谷では特に、そういう瞬間がある。


 「えいかせき?」

 トトが復唱する。

 「火が、ながくいる石?」

 「そうさ」

 婆さんは頷いた。

 「昔の開拓小屋や共同炊事場にたまに使われてた。心から誰かのために作った飯を、絶やさず重ねると、火が消えにくくなるってね」


 ユノがぱちぱちと目を瞬く。


 「じゃあ、おいしいごはんいっぱい作ったから?」

 「おいしいだけじゃ足りないよ」

 マルダ婆さんは言った。

 「自分の見栄でも、意地でもなく、その皿で相手に生きてほしいって思って作ること。寒い日に戻ってきた人へ、まず椀を渡すこと。食える者より弱ってる者へ、先に温いところをやること。そういう火だ」


 セシリアは思わず、かまどへ目を戻した。

 最初の鍋。子どもたちへ差し出した最後の一切れ。夜回り帰りのミルコフへ残しておいた汁物。診療所で起き上がれない人のためにやわらかく煮た豆。読み書き教室の帰りに冷えた指を温めた粥。湯上がりの人へ渡した生姜の利いた椀。


 思い出そうとしなくても、皿の向こう側の顔が次々浮かぶ。


 「じゃあ、セシリアさんの火だ!」

 トトが嬉しそうに言った。


 「私だけではありませんよ」

 セシリアはすぐに首を振る。

 「レクシーが配ってくれて、アンナが体調を見てくれて、プラチャンが材料を回してくれて、ミルコフが夜道を守ってくれて、先生が書類を通してくれたから、こうして鍋を続けられているんです」


 「そういう返しをするから、余計に石が機嫌よくなるんだろうねえ」

 レクシーが笑う。


 プラチャンは腕を組み、石と薪置き場を交互に見ていたが、やがて実務的な声で言った。


 「助かるな。永火だか何だか知らんが、薪の消費が抑えられるなら大きい。浴場に回す分も少し楽になる」

 「おい、夢がない」

 レクシーが呆れる。

 「夢だけで冬は越せん」

 「でも、ちょっとは感動しなさいよ」

 「してる。だから今、節約できる量を計算してる」


 その言い方があまりにプラチャンらしくて、皆の口元が緩んだ。


 ただ一人、ネマーニャだけは笑わなかった。

 笑わないというより、石を見つめたまま、何か遠い音を聞いている顔をしていた。


 セシリアはその横顔へ気づいたが、すぐには声を掛けなかった。

 彼の沈黙には、急いで触れてはいけない種類のものがあると、もう少しだけわかるようになっていたからだ。


 朝の営業が始まると、永火石の話はあっという間に広がった。

 食堂へ入ってきた者が真っ先にかまどを覗き込み、赤黒い石を見つけては「これか」と頷く。中には手を合わせる者までいた。


 「拝まないでください」

 セシリアが苦笑すると、初老の木こりが真面目な顔で言う。


 「こういうのは拝むもんだ」

 「そういうものですか」

 「家の火はな」


 それだけで十分だ、と彼は言いたげだった。


 昼前には、アンナまで診療所から顔を出した。

 事情を聞くなり、彼女は石より先にセシリアの指先を見た。


 「火傷してない?」

 「していません」

 「ならいいわ」


 それからようやくかまどを覗き込み、長い睫毛を伏せる。


 「……永火石なんて、昔話だと思っていた」

 「知っていたんですか」

 「宮廷じゃなくて、祖母の家で聞いたの。戦や飢饉の時でも、誰かのための鍋を絶やさなかった家には火が残る、って」


 アンナはそこで石から顔を上げ、セシリアへ微笑んだ。


 「あなた、変なところで昔話まで本当にするわね」

 「褒めています?」

 「ええ。少し呆れながら」


 その場に笑いが戻ったが、ネマーニャの手元だけは戻らなかった。


 彼は昼の混雑が一段落したあと、帳場で複写用の紙を揃えながら、何度も指を止めた。

 表向きの仕事はいつも通りだ。出納表を確認し、浴場の利用順を書き換え、読み書き教室の筆記材追加の覚え書きを作る。どれも正確で、速さも落ちていないように見える。

 けれどセシリアにはわかった。

 止まる場所がある。


 鍵を打つ直前。

 紙へ指示を書き込む、その一拍前。


 ほんの僅かだ。誰も気づかなくても不思議ではない。だが、いつも見ている人のための違和感だった。


 昼食の賄いは、残り野菜と燻し肉の煮込み、黒パン、温かい薄茶にした。

 全員が食卓へ着いても、話題はやはりかまどへ戻る。


 「この火、浴場へ引けないかな」

 プラチャンが言う。

 「導管みたいなもんを作って」

 「なんでもすぐ繋げようとしないで」

 アンナが呆れる。

 「まず食堂の安全が先」

 「わかってる。だから考えるだけだ」


 「火は、機嫌を損ねると普通に消えるよ」

 マルダ婆さんがパンをちぎりながら言った。

 「昔もそうだった。腹の立つ喧嘩をしながら鍋を回したら、翌朝にはただの灰だったって」


 レクシーが吹き出す。

 「それ、火の問題じゃなくて料理の問題では?」

 「両方だよ」


 ユノが椀を抱えたまま尋ねた。


 「じゃあ、なかよしだと火つく?」

 「仲良し、だけでも足りないねえ」

 婆さんは人差し指を振った。

 「守る気だよ。自分が得するからじゃなく、相手に明日もここにいてほしいって思う気持ち」


 その瞬間、ネマーニャの手が止まった。

 パンを千切る動作の途中で、ぴたりと。


 セシリアの視線がそちらへ向く。


 彼は少し遅れて、低く、独り言みたいに言った。


 「火は、守ろうとした分だけ残る」


 卓の上が静かになった。

 誰へ向けた言葉とも知れない。だが、その一言だけで空気の温度が変わる。


 「先生?」

 レクシーが呼ぶより先に、ネマーニャは自分で小さく首を振った。


 「失礼。昔、似た言い回しを聞いたことがあって」

 「記録院で?」

 アンナが問う。


 ネマーニャは少しだけ笑った。笑ったが、目は笑っていない。


 「……いえ。もっと前です」


 それ以上は言わなかった。

 誰も無理に続けさせなかったが、その沈黙は長く尾を引いた。


 午後、セシリアは保存用の根菜を刻みながら、何度も視線を帳場へ向けた。

 ネマーニャはいつも通り紙を捌いている。けれど、食堂の火がぱちりと大きめに鳴るたび、肩がほんの僅かに強張る。

 見間違いではない。


 記録院火災。

 彼が詳しく語らないその出来事は、白梢の谷へ来てからも時折、こうして影を落とす。

 火を恐れている、という単純なものではないのだろう。彼は火のそばで平然と働くし、夜更けに灰を整えることもできる。けれど、何か特定の瞬間だけ、指と呼吸が噛み合わなくなる。


 セシリアは包丁を置いて、火加減を見た。

 永火石の赤は、朝よりさらに深くなっている。鍋を重ね、湯を沸かし、椀を返すたび、石の芯へ色が差していくようだった。


 不思議だ。

 火は怖いものでもある。

 家を温める一方で、家を奪うこともある。鍋を煮る一方で、紙も布も命も飲み込む。

 けれど今、白梢の谷のかまどにある火は、奪うものではなく留めるものとしてそこにある。


 この違いを、彼はうまく受け取れずにいるのかもしれない。


 夕方、食堂が少し落ち着いた頃、ミルコフが戸口の柱へ凭れて言った。


 「先生」

 「はい」

 「顔色が悪い」


 ネマーニャは書きかけの紙から顔を上げた。


 「そうでしょうか」

 「犬に聞くな。見ればわかる」

 「狼です」

 「その揚げ足を取る元気があるなら、少し座れ」


 言葉はぶっきらぼうだが、声音に棘はなかった。

 ミルコフなりの気遣いだとわかる。


 「座っています」

 「そういうことじゃない」


 レクシーが湯呑みを置いた。


 「ほら。言われた時くらい休みなさい」

 「ありがとうございます」


 ネマーニャは礼を言って湯呑みへ手を伸ばしたが、その指先が、陶器へ触れる寸前で僅かに止まる。

 止まって、それから何事もなかったように持ち上げた。


 セシリアは見なかったふりをした。

 見ていると伝えることが、今は助けになるとは限らない。


 その日の閉店は、普段より少し遅くなった。

 永火石を見ようとする客が最後まで途切れず、ついでに「うちの竈にも入れたい」「石だけ売ってくれないか」などと言い出す者までいたからだ。

 もちろん、売れるようなものではない。

 マルダ婆さんが「買うもんじゃなく積み重なるもんだよ」と一喝すると、皆、妙に納得した顔で引き下がっていった。


 戸締まりを終え、レクシーとアンナが帰り、ユノとトトは眠そうにあくびをしながら診療所の奥へ引き取られ、プラチャンは浴場の板戸確認へ、ミルコフは夜回りへ出た。

 食堂に残ったのは、セシリアとネマーニャだけだった。


 いつもなら、帳場の紙を片づけながら少し言葉を交わす。

 今日の仕入れがどうだったか、浴場の利用札をどう直すか、明日の粥へ何を回すか。そういう、生活の続きになる話を。


 けれど今夜、ネマーニャは帳場ではなく、かまどの前にいた。


 火を見ている。

 近づきすぎもせず、離れすぎもせず、ただ椅子へ腰掛け、膝の上で両手を組んだまま。


 背中はまっすぐなのに、どこか、ひどく疲れて見えた。


 セシリアは足音を忍ばせて厨房へ戻る。

 言葉を掛けるかどうか、少し迷った。

 お疲れさまです、と言うのは簡単だ。大丈夫ですか、と尋ねることもできる。

 でも、彼が今そこへ座っている理由は、たぶん問いに向いていない。


 だから、湯を沸かした。


 食後用に残しておいた茶葉へ、乾燥させた林檎の皮を少し。甘さの代わりに、喉へやわらかく残る香りを足す。疲れた時のレクシーの癖を真似して、最後にほんのひとかけらだけ蜂蜜を落とした。


 湯呑み二つ。

 だが片方は自分の分として飲まず、盆へ載せたままにする。


 火の前へ戻ると、ネマーニャは気配に気づいて顔を上げた。


 「まだお帰りでなかったのですか」

 「先生もです」


 それだけ言って、セシリアは彼の隣の椅子へ静かに腰掛けた。


 正面のかまどで、永火石が静かに赤い。

 派手な炎ではない。鍋を外したあとの、家の中だけを温めるような火だ。


 セシリアは盆から湯呑みを一つ取り、ネマーニャの手の届く場所へ置いた。

 もう一つは自分の膝の上で包む。


 何も聞かない。

 どうして止まったのかも、どんな火を見たのかも、誰を守れなかったのかも。


 ただ、湯気の立つ茶をそこへ置いた。


 ネマーニャはすぐには手を伸ばさなかった。

 眼鏡の向こうで、視線だけが湯気を追う。やがて、呼吸を一つ整えてから、そっと湯呑みを持ち上げた。


 「……ありがとうございます」


 言葉はそれだけだった。


 セシリアも返事をしない。

 返せば崩れるものがある気がして、ただ湯気の向こうの火を見つめた。


 しばらくして、薪が小さくはぜた。

 その音にネマーニャの肩が一瞬だけ揺れ、しかし今度は、逃げるように視線を逸らさなかった。

 湯呑みを持つ指に力が戻り、白い湯気が眼鏡を少し曇らせる。


 食堂の中は静かだった。

 外では夜の風が板壁を撫で、遠くで誰かの戸を閉める音がした。浴場の残り湯がどこかで小さく鳴り、診療所の窓には遅い灯りが一つ見える。

 白梢の谷には、今日もちゃんと人の暮らしがあって、その中心にかまどの火がある。


 守る気持ちが火を残すのだとしたら、この谷の火はもう一人や二人のものではないのだろう。

 誰かが誰かへ椀を渡し、湯を分け、文字を教え、夜道を見回り、破れた袖を繕い、帳面へ今日を記す。その積み重ねが、灰の下で赤を絶やさず保っている。


 セシリアは隣を見ないまま、そっと湯呑みを傾けた。

 林檎の香りがやわらかく広がる。


 ネマーニャもまた、何も言わなかった。

 けれど沈黙は冷たくない。問いを差し出さない代わりに、ここへいていいと伝えるための静けさだった。


 やがてセシリアは、空になりかけた自分の湯呑みを盆へ戻し、静かに立ち上がった。


 まだ、今夜はこれでいい。

 茶が冷める前に渡せたことだけで十分だ。


 立ち去る前、かまどの奥で永火石が一度だけ、呼吸するみたいに赤みを深くした。


 火は、守ろうとした分だけ残る。


 もし本当にそうなのだとしたら。

 この食堂の火も、この人の手も、まだ消えていないのだと、セシリアは振り返らずに信じた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ