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その名前は捨てました。辺境食堂で幸せを打ち込む、元悪役令嬢の開拓暮らし  作者: 乾為天女


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第16話 辺境の湯けむり会議

 王都からの馬車が去って三日ほど経つと、白梢の谷の空気は、表向きだけはいつも通りへ戻っていった。


 朝になれば雪解けの水が溝を走り、食堂の裏ではアンナが干した布をひっくり返し、レクシーが戸口を開け放って床を掃く。ユノとトトは読み書き教室へ行く前に、今日のまかないをのぞきに来て、鍋の中身が粥か豆かで大いに騒ぎ、プラチャンは相変わらず帳面を片手に誰へ何時間の仕事を振るかで朝から渋い顔をしていた。


 いつも通り。

 少なくとも見えるところは。


 けれど、見えないところでは皆の疲れが少しずつ溜まっていた。


 谷の道はまだぬかるみを引きずっている。屋根の雪下ろしが終わったと思えば、今度は溝さらいと柵の立て直しだ。食堂は繁盛して、読み書き教室も始まり、診療所では冬の名残みたいな咳がまだ残っている。王都からの余計な書状に備えるため、記録や帳面の整理まで増えた。


 働くこと自体は嫌ではない。

 だが、寒さが抜けきらない体に泥と汗を重ね続けると、どこかで無理が来る。


 その日の昼下がり、食堂の戸を開けた途端、プラチャンが鼻をひくつかせて言った。


 「決めた」

 「何をですか」

 セシリアが盆を抱えたまま振り向く。


 「風呂だ」


 あまりにきっぱりした宣言だったので、レクシーが持っていた木匙を落としかけた。


 「はい?」

 「風呂」

 プラチャンはもう一度言った。

 「簡易でいい。でかい桶でも、板囲いでも、湯が溜まれば勝ちだ。とにかく谷に風呂を作る」


 食堂の中が、一瞬だけ静まり返る。


 ネマーニャは帳面へ何かを書き込んでいた手を止め、アンナは針を刺しかけた布から顔を上げ、レクシーは「ええと」と言ったまま木匙を握り直した。ユノとトトだけが最初に反応した。


 「お風呂!」

 「お湯に入るやつ!」


 「そうだ」

 プラチャンがうなずく。

 「今のままじゃ、皆、働いて食って寝るだけで、体の芯の冷えが抜けん。桶一つで洗うにも薪が余計にかかるし、各家でちまちま湯を沸かすほうが無駄だ。共同で沸かして、順番に入ったほうが早い」


 「理屈はわかるけれど」

 アンナが眉を寄せた。

 「木材は? 人手は? 診療所の布も足りてないのに、壁まで立てる余裕があると思う?」


 「だから今から会議だ」

 プラチャンは当然みたいに言って、食堂の真ん中の卓をばんと叩いた。

 「疲れた顔のまま書類と鍋ばかり見てたら、王都の連中より先にこっちがへばる。今日は湯の相談をする」


 セシリアは思わず笑ってしまいそうになった。

 深刻な顔で言う内容が「湯の相談」なのは、いかにも白梢の谷らしい。


 けれど、笑いながらも胸のどこかがやわらぐ。

 王都から来た婚姻話のあと、皆が意識して別の話題を選んでくれているのがわかったからだ。


 「では、会議なら会議らしく」

 ネマーニャが静かに口を開いた。

 「目的を整理しましょう。簡易浴場の設置理由は、衛生、疲労回復、薪消費の集約、共同利用による作業効率の改善。この四点でよろしいですか」


 「うん、もうそれ全部」

 プラチャンが即答する。

 「あと、子どもどもが泥だらけで寝る前に冷え切る問題」


 「追加します」

 さらさらとペンが走る。

 会議が始まると、この人は本当に強い。


 セシリアは盆を置き、鍋の火を少し弱めながら卓へ集まった。


 「場所はどうしましょう。診療所の裏は?」

 「水は近いが、布を干す場所とぶつかるわ」

 アンナが首を振る。

 「それに、病人を休ませる時に騒がしいのは困る」


 「遊技庭園の端は?」

 レクシーが言う。

 「今はまだ土がゆるいけど、柵の向こうの空き地なら」

 「足場が悪い」

 プラチャンが却下する。

 「転ぶ。あと、子どもが湯へ飛び込む」

 「飛び込まないよ」

 ユノが言った。

 「たぶん」

 「飛び込むな」

 アンナの声は短かった。


 候補がいくつか出ては消え、消えてはまた出る。

 最後にネマーニャが帳面から別の紙を取り出した。


 「旧乾物小屋の脇の空き地はどうでしょう」

 「え」

 セシリアが身を乗り出す。


 彼が示したのは、食堂から少し下った場所にある古い小屋の脇だ。以前は塩漬け肉や干し芋の保管に使われていたが、雪で屋根の端が一部傷み、今は小さな物置程度にしか使っていない。


 「小屋自体は生かせる。三方に壁があり、片側だけ増設で済みます。裏を流れる溝から水を引き、煮沸用の大釜を外へ据える。湯は桶で移し、足りない分は加水」

 「大釜なら、食堂の予備が一つあるわ」

 セシリアが言う。

 「冬に保存煮込みをまとめて作る時に使った、大きい方」

 「それだ」

 プラチャンが頷いた。

 「屋根の修理ついでなら、板も何枚か回せる。足りん分は壊れた荷車と、北側の倒木を割る」


 「待って」

 レクシーが手を上げる。

 「簡易浴場って、皆で一緒に入るの?」

 「時間を分ける」

 アンナが即答した。

 「子どもの時間、女の時間、男の時間。そこは絶対」

 「よかった」

 「おれは一緒でも」

 プラチャンが言いかけて、アンナに見られた。

 「……時間を分ける。絶対」


 そのやり取りに、食堂の中で笑いが弾んだ。


 笑いながら、セシリアはふとネマーニャを見る。

 彼は真面目な顔のまま紙へ項目を足していたが、口元だけがわずかに和らいでいた。


 あの人も、こういう馬鹿馬鹿しい会議は嫌いではないのだろう。


 「運営方法も決めましょう」

 彼が言う。

 「薪の管理、掃除当番、湯温の確認、利用帳」

 「利用帳まで要る?」

 レクシーが目を丸くする。

 「要ります」

 ネマーニャは一切ぶれない。

 「共同利用施設ですから」

 「先生、なんでも帳面にする」

 トトがぼそりと言う。

 「しないより、した方が長持ちします」

 「それはそう」


 珍しくトトが即座に負けたので、また笑いが起きた。


 会議はそのまま勢いよく進み、気づけば食堂の卓には、湯気の立つ茶碗と一緒に木材、布、桶、石、薪、労働時間、掃除当番、見張り役まで並んでいた。


 「人手は明日の午後なら三人回せる」

 プラチャンが帳面をはじく。

 「橋の補修を午前へ寄せて、荷運びの若いのを二人、屋根修理帰りを一人。ただし長居は無理だ」

 「診療所の縫い場は夜に回すわ」

 アンナが言う。

 「湯上がりに羽織れるものが要る。古い亜麻布を解いて、紐を通して、ざっくりした上衣なら作れる」

 「私は、薬膳寄りの温かい汁物を考えます」

 セシリアは言った。

 「湯に入ると急に眠気が来る人もいるから、塩と豆だけじゃなく、生姜、香草、干し根菜を使って、回復に寄せたものを」

 「いいな」

 プラチャンが目を細める。

 「風呂上がりに腹が減る」

 「あなたは入る前から減ってるでしょう」

 アンナが返した。


 そこまでで、ようやく会議は一区切りついた。


 だが区切りがついた途端、ネマーニャが新しい紙を出してきた。


 「では、役割一覧表を」

 「まだ増えるの」

 「増えます」


 セシリアは思わず肩を震わせた。

 もう慣れたはずなのに、この人が本気で動くと、書類が生き物みたいに増殖する。


 「先生、紙から湯は出ませんよ」

 「ですが、紙がないと湯は途中で止まります」

 「名言っぽく言わないでください」


 そう返しながら、セシリアは笑っていた。


 気づけば、王都から届いた嫌な言葉は、食堂の隅へ追いやられている。

 代わりに卓の上にあるのは、誰が板を運ぶか、どの鍋を使うか、いつ薪を足すかという、ずっと具体的で、ずっと生きるほうへ向いた話だ。


 会議の最後に、プラチャンが満足げに腕を組んだ。


 「よし。辺境の湯けむり会議、終了」

 「まだ湯は出てませんけど」

 レクシーが言う。

 「会議名だけは立派だな」

 「先に名前があると、人は頑張れる」

 プラチャンが言った。

 「先生だって、書類の題名から入るだろ」

 「否定はしません」

 ネマーニャが言う。


 それでまた、皆が笑った。


      ◇


 翌日から、白梢の谷はにわかに浴場づくりの谷になった。


 旧乾物小屋の脇では、朝から木槌の音が響き、倒木を割る音が雪解け水の音へ混じる。プラチャンは荷車の壊れた側板を抱えて走り、若い開拓民たちは「これ、本当に風呂になるんですか」と半信半疑の顔で板を運び、ユノとトトは小さな桶を持ってうろうろし、邪魔だと三回は叱られた。


 「桶を持って歩くな、つまずく」

 「石を蹴るな」

 「トト、それは釘の箱!」


 アンナの叱る声が、いつもより五割増しで飛ぶ。


 セシリアは食堂と工事場の間を行き来しながら、大鍋を二つ回していた。

 一つはいつもの昼の煮込み。もう一つは、今回のための新しい汁物だ。


 乾燥させていた根菜を水へ戻し、豆と一緒にやわらかく煮る。そこへ砕いた生姜、香りの強くない葉物、少しの塩、刻んだ鶏の骨付き肉を入れて火を通す。仕上げにとろみを出すため、芋をすりおろして落とした。


 湯へ入ったあとに飲むなら、胃へ重すぎず、でも体の内側から温まるものがいい。


 「味見してもいい?」

 レクシーが鼻を寄せる。


 「まだ少し早いわ。生姜が立ちすぎてる」

 「そこを見たいの」

 「じゃあ、立ちすぎを見て」

 「味見って言ったのに」


 小言を言いながらも、レクシーは匙を受け取る。

 一口すすった途端、目が丸くなった。


 「これ、すごくいい」

 「本当?」

 「舌がぴりっとして、そのあとにお腹があったかい。風呂のあと絶対いい」

 「塩は?」

 「もうほんのわずかに、最後に」

 「うん」


 こうして台所で細かな調整をしている時間が、セシリアは好きだった。

 外では木が軋み、人が走り、何かが足りない声が飛んでいる。

 それでも、鍋の前へ立つと、自分の手で確かめられるものがある。


 「セシリア」

 戸口から呼ばれて振り向くと、ネマーニャが立っていた。


 袖口を少し折り、片手に紙束、もう片手に細長い板を抱えている。どう見ても事務仕事の人間の格好ではないのに、不思議と似合っていた。


 「どうしました?」

 「確認事項です」

 「はい」


 そう言って彼は鍋ではなく、横の卓へ紙を広げる。

 木材の寸法、湯を沸かす順番、利用時間の試案。きっちり整った文字の横に、簡易な見取り図まで描いてあった。


 「ここへ脱衣用の衝立を入れます。布はアンナが用意可能。問題は床です。濡れた木のままだと滑りやすい」

 「石を敷くのは?」

 「石が冷えます」

 「木のすのこ」

 「本数が足りません」

 「壊れた棚板なら」

 「厚みが不均一です」

 「……先生、会話を潰しにきてません?」

 「問題点を潰しに来ています」


 真顔だった。

 その真顔がおかしくて、セシリアはくすりと笑う。


 するとネマーニャが、ほんの一拍遅れて目を伏せた。

 何だろうと思ったけれど、その時は外から大声が飛んできた。


 「先生! こっちの板が足りん!」

 「今行きます」


 紙をまとめる前に、彼は鍋を見た。


 「いい香りです」

 「疲労回復寄りです。湯上がり用」

 「理にかなっています」

 「会議の時に言っていた理屈より、少しはやさしい顔で言えませんか」

 「では」

 ネマーニャは少し考えた。

 「とても、おいしそうです」


 不意打ちみたいな言い方だった。


 セシリアの手が、鍋の柄で止まる。

 料理を褒められること自体は珍しくない。むしろ毎日のように誰かから言われる。

 でも、この人の口から、そういうやわらかい言葉がぽんと落ちると、なぜだか胸の奥へそのまま入ってくる。


 「……ありがとうございます」

 「はい」


 彼は頷き、いつもの顔へ戻って出ていった。


 扉が閉まってから、レクシーがにやにやしながら寄ってくる。


 「ねえ、今の聞いた?」

 「聞いたけど、何を」

 「とても、おいしそうです」

 「聞いたわよ」

 「先生、最近そういう言い方を覚えたよね」

 「そういう言い方って何」

 「人をちょっと困らせる言い方」


 図星すぎて、セシリアはお玉を持ち直した。


 「困ってません」

 「じゃあ耳が赤いのは、鍋のせい?」

 「火の近くです」

 「便利ね、火」


 言い返す前に、外で木が派手に倒れる音がした。

 皆が一斉にそちらへ振り向く。


 「大丈夫ですか!?」

 セシリアが戸口へ走ると、板の山が半分崩れ、プラチャンがその下敷きになりかけていた。


 「無事だ! ただ見栄が死んだ!」

 「生きててよかった」

 アンナが即座に言う。

 「見栄はあとで縫っておくわ」


 そんな調子で、浴場づくりは進んでいった。


      ◇


 問題は、やはり木材だった。


 壊れた荷車の板だけでは、囲いを作るには足りない。倒木を割って使うにしても、乾ききっていない材は反る。かといって、新しく伐り出すだけの余裕はない。


 「足りませんね」

 ネマーニャが淡々と言う。

 「足りないな」

 プラチャンも淡々と言う。

 「足りないのね」

 セシリアは鍋の蓋を押さえたまま言った。


 足りない三重唱みたいになって、レクシーが吹き出した。


 「笑ってる場合じゃないぞ」

 「だって、言い方が揃いすぎて」

 「揃っても板にはならん」


 プラチャンが腕を組み、工事途中の囲いを見上げる。

 小屋の脇へ骨組みは立った。大釜も据えた。排水用の溝も浅く掘った。だが、肝心の湯を浴びる囲いが一面ぶん足りない。


 「布で塞ぐ?」

 レクシーが言う。

 「だめ。風が抜ける」

 アンナが言う。

 「すぐ冷えるし、外から見える」

 「それは確かにだめだ」


 皆が黙る。


 その時、ユノがそっと手を上げた。


 「あの」

 「どうしたの」

 セシリアがしゃがんで目線を合わせる。


 「遊技庭園のとなりにある、壊れた台、あるでしょ」

 「ああ、去年まで荷物置きにしてた高台か」

 プラチャンが言う。

 「あれの横、板が何枚も重ねてあった」

 「雨ざらしのやつ?」

 アンナが眉をひそめる。

 「使えるかしら」


 「見てきます」

 ネマーニャが短く言った。


 止める間もなく歩き出すので、セシリアは慌ててついていく。

 遊技庭園の脇、春先だけぬかるみやすい場所の奥に、確かに古びた板束が半分埋もれていた。以前、滑り台もどきを作ろうとして失敗し、そのまま放置されていた材らしい。


 引きずり出してみると、端は傷んでいるが中央はまだ使えそうだった。


 「これなら……」

 「幅を詰めれば、囲い一面と腰掛け二つ分」

 ネマーニャが即座に計算する。

 「釘の打ち直しは必要です」

 「でも、ある」

 「あります」


 その一言に、セシリアはふっと息を吐いた。


 足りないものばかり見ていると、気持ちまで狭くなる。

 けれど、埋もれていた板のように、探せばまだ使えるものが残っている時もある。


 「ユノ、よく見つけたわ」

 「えへへ」

 ユノは胸を張った。

 「ぼく、物置きの名人になる」

 「そこは別の名人を目指そうか」


 結局、板束は子ども二人では運べないので、大人たちが総出で引きずり出すことになった。

 泥に足を取られ、レクシーが転びかけ、プラチャンが「板より人を運ぶ羽目になるぞ」と怒鳴り、アンナが「その前に足元を見て」と怒鳴り返す。

 セシリアも板の端を持ったが、途中でずるりと滑りそうになった。


 その時、横から伸びた手が肘を支える。


 「危ない」


 ネマーニャだった。

 反射的に顔を上げると、近い。

 思ったよりずっと近くに彼の顔があって、セシリアは一瞬、何を言えばいいのかわからなくなった。


 「……ありがとうございます」

 「いえ。板より、あなたの方が軽くないので」


 「それ、助け方の言葉です?」

 「重いという意味ではなく」

 「わかってます」

 「ならよかったです」


 わかっている。わかっているのに、妙に心臓へ悪い。


 板を運び終えて食堂へ戻るまで、セシリアは自分の歩幅が少しおかしいことに気づかないふりをした。


      ◇


 三日目の午後、ようやく囲いが立ち上がった。


 旧乾物小屋の脇に、板張りの簡易浴場ができている。

 屋根は既存の小屋から張り出させ、片側だけ低く傾斜をつけた。中には腰掛け用の板、湯桶を置く台、脱衣用の衝立。排水は溝へ流れ、足元には厚みのある板を渡してある。


 「ちゃんと風呂だ」

 レクシーが感動したように言う。

 「ちゃんと風呂ですね」

 セシリアも頷く。

 「ちゃんと風呂だな」

 プラチャンが胸を張る。

 「風呂です」

 ネマーニャが確認する。


 四人の言い方がまた揃って、ユノとトトがけらけら笑った。


 だが、風呂はできても湯が出なければ意味がない。

 大釜へ水を張り、外の炉へ火を入れる段になって、今度は煙が逆流した。


 「せきこむ!」

 「風向きが悪い!」

 「薪を細く! 細くして!」

 「誰、湿った木入れたの!」


 大騒ぎである。


 プラチャンが煙に目を細めながら炉の口を直し、ネマーニャが桶の配置を変え、アンナが子どもたちを下がらせ、セシリアは水差しを抱えて走った。


 「先生、前髪!」

 レクシーが叫ぶ。


 見ると、湯気と汗でネマーニャの前髪がいつもより落ちて、額へ張りついていた。

 普段はきっちり整っているせいで、その乱れ方が妙に無防備に見える。


 セシリアは、そこでなぜか足を止めてしまった。


 風の向きが変わり、白い湯気がふわりと流れる。

 その向こうで、袖をまくったネマーニャが炉の加減を見ている。薄い湯気に濡れた睫毛、少しだけ開いた喉元、額へかかった髪。

 見慣れているはずの顔なのに、見慣れていないものを見た気がした。


 「セシリア?」

 アンナに呼ばれて、はっとする。


 「え、あ、はい」

 「水差し」

 「はい!」


 慌てて走り出したものの、心臓だけが一拍遅れてついてくる。


 何を見て、何に驚いたのか、自分でもうまく言えない。

 ただ、湯気で少しだけ崩れた彼の姿が、妙に目へ残った。


 湯の温度が上がるまでに、さらにひと騒ぎあった。

 桶の一つに小さなひびが見つかり、急いで補修した。脱衣用の布が風であおられ、レクシーが追いかけた。ユノが「一番風呂!」と叫び、トトが「順番!」と怒った。プラチャンは「おれは完成前に三年老けた」と大げさに嘆き、アンナに「もともと老け顔」と言われた。


 そして夕方前、ようやく初めての湯が張られた。


 木桶へ汲まれた湯から、やわらかい白い湯気が立つ。

 大鍋の薬膳スープも仕上がり、湯上がり用の上衣は紐を通してずらりと並んだ。


 「では」

 ネマーニャが紙を持って立つ。

 「試験運用を開始します。第一枠、子ども」

 「やったー!」

 「走らない!」

 アンナの声と同時に、ユノとトトが止まった。


 「第二枠、女」

 「第三枠、男」

 レクシーが読み上げる。

 「先生、自分はどこ」

 「男です」

 「そこじゃなくて、運営側として」

 「最後で構いません」

 「先生らしい」


 まずは子どもたちだった。

 湯へ足を入れた瞬間、ユノが目を丸くする。


 「あったかい」

 その一言だけで、作ってよかったと思えた。


 トトも最初は眉をひそめていたが、肩まで浸かると、じわじわ顔がほどける。

 アンナが後ろで頭を洗い、レクシーが「耳のうしろも」と言い、ユノが「そこはずるいほど気持ちいい」と言って笑う。

 泥だらけだった脛が湯の中で白く見えて、赤くなった頬が子どもらしい色を取り戻していく。


 次に女たちの時間になり、セシリアもようやく浴場へ入った。


 板囲いの内側は、思ったより静かだった。

 湯の揺れる音、桶の触れ合う音、布のこすれる音。外の風は屋根で弱まり、湯気の内側だけ、別の季節みたいにあたたかい。


 「……生き返る」

 レクシーが湯へ肩まで沈んで言った。

 「ほんとに」

 セシリアも同意する。

 足先からじんわり熱が上がり、何日も取れなかった芯の冷えがほどけていく。


 「顔がやわらかくなった」

 アンナが言う。

 「二人とも、ここ数日ひどかったもの」

 「二人?」

 セシリアが聞き返す。


 「あなたと先生」

 アンナは桶で湯をすくい、腕へかけながら言った。

 「書類のせいで頭が固くなってた」


 「先生は、もともと固くありません?」

 レクシーが言う。

 「いや、あれでも最近やわらかいのよ」

 アンナはあっさり返した。

 「前なら、湯を作る会議で笑ったりしなかった」

 「たしかに」

 「あと、セシリアが笑うと少し黙る」

 「え?」

 「見てればわかる」


 湯気より熱いものが、顔へ集まる。

 セシリアは慌てて桶で湯をすくい、意味もなく肩へかけた。


 「見間違いでは」

 「そうかなあ」

 レクシーがわざとらしく首をかしげる。

 「私は、前髪が濡れた先生を見た時のセシリアの顔、見てたけど」

 「レクシー」

 「すごく見てた」

 「見てません」

 「見てたわよ」

 アンナまで乗ってくる。

 「しかも、呼ばれるまで動かなかった」

 「それは湯気で」

 「便利ね、湯気」

 レクシーが笑う。

 どこかで聞いた言い方だった。


 逃げ道がない。


 「……だって」

 言い返そうとして、喉で止まる。

 だって、とは何だろう。

 前髪が濡れていたから。普段と違って見えたから。無防備に見えたから。少しかっこよかったから。

 最後の理由だけは、口に出した瞬間に湯へ沈みたくなる。


 アンナが、そんなセシリアの顔を見て、ふっと笑った。


 「まあいいわ。今すぐ何かしなさいとは言わない」

 「誰も言ってないよ」

 レクシーがにこにこする。

 「でも、風呂ってすごいね。体が温まると、顔にも正直が出る」

 「やめて」

 「やめない」


 湯の中なのに、セシリアだけ妙に落ち着かない。

 けれど、嫌ではなかった。

 湯気に隠れているせいか、からかわれても、心のどこかが冷えきらないで済む。


 女たちの時間が終わるころには、皆すっかり頬が赤くなっていた。

 外へ出ると、湯上がり用の上衣が並び、薬膳スープの香りが待っている。


 「これは勝ち」

 レクシーが即座に言った。

 「風呂とスープ、勝ち」

 「勝敗のある話?」

 セシリアが笑う。

 「あるよ。冷えとの戦い」


 湯上がりの体へ、少し生姜の利いたスープが落ちていく。

 じんわりとした熱が体の内外から重なって、誰もが少しずつ声をやわらげた。


 次は男たちの時間だというので、セシリアは器を運びながら、なるべく平静な顔を作った。

 作ったのに、無理だった。


 男たちが浴場へ入ってしばらくしてから、プラチャンの声が外まで響いたのだ。


 「先生、髪! 今日は髪が仕事を放棄してるぞ!」

 「放棄していません」

 「いや放棄だろそれ!」


 レクシーが器を持ったまま吹き出す。

 セシリアは聞かなかったふりをしようとして、できなかった。


 「見に行かないの?」

 「行きません」

 「顔が行きたそう」

 「行きません」


 その時、脱衣場側の布が少しだけ揺れ、ネマーニャが出てきた。

 もちろん浴場から完全に出る前なので、きちんと上衣を羽織っている。だが、髪はやはり少し乱れていて、湯気に濡れた前髪が額へ落ちていた。


 その姿を見た瞬間、セシリアの胸がまた妙な跳ね方をする。


 「追加の桶を」

 彼は言った。

 「中の一つ、湯が足りません」

 「はい、すぐ」

 言葉だけはなんとか出た。


 桶を渡す時、ネマーニャの指先が一瞬だけ手へ触れる。

 湯気のせいなのか、湯上がりの熱のせいなのか、そこだけ妙に覚えてしまう。


 「ありがとうございます」

 「いえ」

 「……前髪」

 うっかり、そこまで言ってしまった。


 ネマーニャが一瞬だけ目を見開く。

 「前髪?」

 「いえ、その」

 引っ込みがつかない。

 「湯気で、少し」

 「ああ」


 彼は手で前髪をかき上げようとして、途中でやめた。

 かえって乱れが増えるだけだと気づいたのかもしれない。


 「あとで直します」

 「今のままでも」

 そこまで言って、セシリアは本気で固まった。

 今のままでも、何だというのか。


 けれど、ネマーニャは続きを待たなかった。

 正確には、待てなかったのだと思う。


 彼の耳のあたりが、ほんのわずかに赤くなった。

 そして、珍しく視線を外して言う。


 「……湯温の管理に戻ります」


 そうして足早に中へ戻ってしまった。


 背中を見送ってから、レクシーがゆっくり顔を寄せてくる。


 「今のままでも?」

 「聞こえてたの?」

 「ばっちり」

 「死にたい」

 「お風呂のあとでよかったね。きれいなまま死ねる」

 「やめて」


 だがレクシーだけではなかった。

 プラチャンまで、湯上がりの顔でにやにやしている。


 「夫婦っぽい会話をしていたな」

 「してません」

 「してたわね」

 アンナまで言う。

 「してませんってば」


 「してもしなくても、もう誰も驚かないぞ」

 プラチャンはスープをすすりながら言った。

 「浴場の共同管理人、先生とセシリアで札を作っとこうか」

 「やめてください」

 「『白梢湯 夫婦管理』」

 「絶対やめてください」

 「字面が強いな」

 レクシーが笑う。


 セシリアが本気で止めに入ると、皆はいっそう面白がった。

 止めながらも、心の奥のどこかが少しだけくすぐったい。

 夫婦、という言葉に、前みたいな嫌悪がまったく湧かないことへ気づいてしまったからだ。


 嫌ではない。

 むしろ、その言葉がここでは脅しや取引の道具ではなく、あたたかいからかいとして使われているのがわかる。


 それが、なんだか不思議で、少しだけうれしい。


      ◇


 浴場ができてから数日で、白梢の谷の暮らしは目に見えて変わった。


 仕事終わりの顔色が違う。

 夜の咳が少し減った。

 泥でがちがちだった子どもたちの膝から擦り傷以外のくすみが薄れ、食堂へ来る開拓民たちも「今日は湯のあとに来た」と言って肩を回すようになった。


 そして何より、皆が少しだけ長く話すようになった。


 浴場の前には簡易な腰掛けが置かれ、湯上がりの人がスープをすすりながら、その日の困りごとや翌日の段取りを話す。

 溝の詰まり、畑の種、子どもの靴、荷車の車輪、診療所の薬草、食堂の保存瓶。

 湯で体がほどけると、口まで少しやわらかくなるのだろう。


 「これ、ほんとに会議になってるね」

 レクシーが笑う。

 「最初に言っただろ」

 プラチャンが得意げに言う。

 「辺境の湯けむり会議だ」

 「名前が先で中身があとから追いついた例ですね」

 ネマーニャが言う。

 「だが成功例です」

 「成功です」


 そんな会話をしながら、セシリアは配膳台へ器を並べていた。


 春の終わりを告げる夕方の風が、まだ少し冷たい。

 それでも浴場のあたりだけは、いつもほんのりあたたかく、木と湯と香草の匂いが混ざっていた。


 その日、会議と呼ぶにはずいぶんのんびりした集まりが終わったあと、最後の片付けを手伝っていたのはセシリアとネマーニャだけだった。


 プラチャンは薪の残量を見に行き、アンナは洗い場の布を回収し、レクシーは子どもたちを寝かしつけに戻った。

 囲いの中にはもう湯は少ししか残っていない。木桶の底に金色の灯りが揺れている。


 「利用帳、増えましたね」

 セシリアが札を揃えながら言う。


 「想定より早いです」

 ネマーニャは帳面を閉じた。

 「薪の消費は多いですが、各家でばらばらに沸かすより効率はいい。体調記録も改善傾向です」

 「そこまで見てる」

 「見ます」


 返事がいつも通りで、少し安心する。

 昼間のやりとりを思い出すと、今もまだ顔が熱い。けれど、いつもの調子で話してくれるなら、それだけで気持ちが整う。


 桶を重ねようとして、セシリアはふと笑った。


 「先生」

 「はい」

 「最近、書類の量と一緒に、言い方も増えましたよね」

 「言い方?」

 「とても、おいしそうです、とか」

 「……」

 「今のままでも、の続きは待ってくれませんでしたし」

 「セシリア」


 めずらしく、彼の方が先に止めに入った。

 その声がおかしくて、セシリアはまた笑う。


 するとネマーニャは、小さく息を吐いた。

 そして、珍しく少しだけ困ったような顔になる。


 「あなたが笑うと」

 そこで一度、言葉が切れる。

 「少し、考えていた順番が飛びます」


 セシリアは持っていた木札を危うく落としかけた。


 「順番?」

 「話す順番です。確認事項と、必要な情報と、先に伝えるべきこと。頭の中で並べているのですが」

 「はい」

 「笑われると、飛びます」


 湯気のない場所なのに、急に視界がぼやけた気がした。

 たぶん、自分の方が熱くなっているからだ。


 「それは」

 どう返せばいいのだろう。

 「困りますね」

 ようやくそれだけ言うと、ネマーニャは真面目に頷いた。


 「はい。少し困っています」


 困っていると言いながら、声音はやわらかかった。


 セシリアは思わず口元を押さえる。

 また笑うと、この人の順番が飛んでしまうらしい。そう思うと、余計におかしくて、でも笑いすぎるのも惜しい気がする。


 「では」

 彼は少しだけ視線をずらした。

 「確認事項を一つ」

 「はい」

 「浴場の管理札ですが。共同管理人の欄、仮で二名記載にします」

 「誰と誰ですか」

 「あなたと、私です」

 「……ああ」

 「問題があれば変更します」


 問題。

 あるかと問われれば、制度上は何もない。

 けれど、その札がどんなふうに皆へ読まれるかは、想像しなくてもわかる。


 「問題は、ありません」

 セシリアは答えた。

 「ただ」

 「ただ?」

 「プラチャンが余計な書き足しをしないように、見張ってください」

 「夫婦管理、などと」

 「その通りです」

 「見張ります」


 そこでようやく、二人で同時に笑ってしまった。


 笑いが収まったあと、小屋の外で風が鳴った。

 春の匂いの混じった、まだ少し冷たい風だ。けれど浴場のそばに立っていると、不思議と寒くない。


 ネマーニャが木桶の残り湯を見て、それからセシリアへ視線を戻した。


 「今日は、お疲れさまでした」

 「先生も」

 「いえ。私は会議で紙を増やしただけです」

 「紙を増やすのも大変なんですよ」

 「そうでしょうか」

 「そうです。あと」

 セシリアは、少しだけためらった。

 「前髪、まだ少し」

 「乱れていますか」

 「ええ。でも」

 今度は止めずに言う。

 「悪くないです」


 ネマーニャは、はっきりと目を見開いた。

 その反応があまりに正直で、セシリアの方が先に視線をそらしてしまう。


 「……ありがとうございます」

 彼が言う。

 その声は、昼間より低くて、少しだけ掠れていた。


 「どういたしまして」


 返事をしただけなのに、胸の内側で何かがそっと灯る。

 大きな炎ではない。湯の底で静かに揺れる火みたいな、消えそうで消えないあたたかさだ。


 その時、小屋の向こうからプラチャンの声が飛んできた。


 「おーい! 管理札、やっぱり二枚書くの面倒だから『先生んとこ』でまとめていいかー!」


 「よくないです!」

 セシリアとネマーニャの声が、きれいに重なった。


 一拍遅れて、遠くでレクシーの笑い声がした。

 たぶん最初から聞き耳を立てていたのだろう。


 セシリアは肩を落とし、ネマーニャは眉間を押さえる。

 それでも二人とも、怒りきれない。

 湯気と笑いと木の匂いに包まれたこの場所が、もうすっかり白梢の谷の生活の一部になっていたからだ。


 「見張ると言いましたよね」

 セシリアが言う。

 「言いました」

 「先生」

 「……今から行きます」


 彼が歩き出す。

 セシリアも一緒に歩き出す。


 並んだ足元の板はまだ新しく、湯で少し湿っている。小屋の隙間から洩れる灯りが、その上へやわらかく落ちていた。


 王都からの婚姻話が投げた冷たい影は、まだ完全には消えていない。

 新しい名の白紙も、机の上で待っている。

 けれど今日、白梢の谷には一つ、はっきり増えたものがある。


 湯がある。

 疲れた体をほどく場所がある。

 からかいながら、笑いながら、明日の働き方を決められる場所がある。


 それはきっと、名前のついた土地を守るためにも必要なことだった。

 人が冷え切ったままでは、前を向く力まで凍ってしまうから。


 セシリアは湯気の残る空気をひとつ吸い込み、隣の人の歩幅へそっと合わせた。


 前より少し近いこの距離を、まだ何と呼べばいいのかはわからない。

 それでも、急がなくていいのだと、もう知っている。


 湯けむりの向こうで、白梢の谷の灯りがいくつも揺れていた。

 それは誰かの家の灯りで、食堂の灯りで、浴場の灯りで、これからもここに暮らしていく人たちの灯りだった。


 その中へ戻っていく足どりは、昨日までより少しだけ軽かった。



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