第19話 第二王子アルベルトの来訪
錠が外れる音は、小さかった。
けれど戸を押し開けた瞬間、夜気は刃のように店内へ差し込み、消えかけていた緊張へ一気に輪郭を与えた。灯りの届く戸口に立っていたのは、濃紺の外套を重ねた男たちだった。胸元には王都監査局の銀章。その横に、灰青の紐で綴じた書類箱を抱えた記録院の補佐官が二人。雪を跳ねた長靴の先まで、いかにも「今夜ここを自分たちの場にする」と言いたげな並び方だった。
「管理責任者は」
先頭の男が言った。鼻筋の通った痩せた顔に、眠気より苛立ちが先に見える。三十代半ばほど、肩章には筆頭監査官補の印。名乗るより先に人を測る目つきだった。
「私です」
セシリアが答えると、男は一枚の令状を差し出した。
「王都監査局、臨時監査使節付き筆頭監査官補、ローディン。白梢の谷食堂および関連共有施設について、会計、衛生、配給、労務の仮点検を行う。今夜のうちに入口、帳場、倉、かまどの確認を――」
「今夜のうちに」
ネマーニャが繰り返した。
灯りの下へ一歩出た彼は、令状そのものではなく、紙の端と押印の位置を見ていた。ローディンはそれを無視し、部下へ顎を振る。二人の監査官が中へ踏み込もうとする。
だがその前へ、ミルコフが音もなく立った。
大きな体が戸口の半分を塞ぐ。唸りはしない。ただ、外套の裾についた雪がひとしずく落ちるまでのあいだ、視線だけで進路を閉じた。プラチャンも椅子をずらし、さりげなく通路の脇へ立つ。レクシーは寝台の方へ視線を送り、まだ眠っている子どもたちの様子を確かめていた。
「ずいぶんなやり方ですね」
セシリアは言った。
「子どもが寝ている時間です」
「不正がある場所ほど、都合のよい時間を選びたがる」
ローディンは薄く笑う。
「協力いただければ済む」
「協力と、踏み荒らすことは別です」
空気がさらに冷えた、その時だった。
「そこまでだ、ローディン」
戸の外、監査官たちの後ろから、低い声が落ちた。
松明の火が揺れ、馬車の影から一人の男が歩み出る。濃い灰の旅外套を着ていたが、その留め具に見覚えのある王家の意匠が鈍く光った。手袋を外す仕草まで、セシリアは知っていた。迷った時だけ、右の親指で左の手首を一度押さえる癖。
薄金の髪に雪が残っている。
以前より少し痩せた輪郭。
けれど、目元のためらいだけは、あの夜から変わっていない。
「……アルベルト殿下」
レクシーではなく、ネマーニャでもなく、セシリア自身の口が先にその名を出した。
ローディンが慌てて身を引く。
「で、殿下。しかし、夜間立入は先ほど」
「確認はする。だが、就寝中の子どもを起こしてまで鍋を覗く必要はない」
アルベルトは戸口の内側へはまだ入らず、まず監査官たちを見た。
「入口と帳場の封緘確認は今夜、詳細は夜明け後。そう命じたはずだ」
命令口調は久しぶりに聞いた。王城の広間で聞いた時より、少し低く、少し遅い。自分の声が誰かを怯えさせることを知った人間の話し方だった。
ローディンは口を引き結び、一礼する。
「承知しました」
アルベルトはそこでようやく、食堂の中を見た。
かまどの赤。
卓の上に残る紙束。
セシリアの肩にかかった厚手の shawl。
ネマーニャが抱えた帳面。
プラチャンの泥のついた靴。
レクシーの眠そうな顔。
ミルコフの、戸口から一歩も退かない足。
どれも、王都では見なかったものを見るような目だった。
「入ってもよろしいですか」
アルベルトが言った。
「今度は、許可を得てから」
その言い方に、プラチャンの眉が上がった。王子が入口で許可を求めるなど、少なくとも白梢の谷では初めてのことだろう。
セシリアはすぐには答えなかった。
目の前の男は、あの夜、何かを言いかけて止まった人間だ。止まったまま、彼女が家名を捨てるのを見ていた人間でもある。
けれど今夜、戸口で待っている。
「……床を汚さないなら」
そう言って、セシリアは脇へ退いた。
アルベルトは小さく頭を下げ、中へ入った。王城では決してしなかったほど深い角度だった。
ローディンたちは入口脇へ下がり、補佐官の一人が封緘札の準備だけを始める。店の中央へ進んだのは、アルベルト一人だった。
数歩。
それだけの距離なのに、彼がここへ来るまでにはずいぶん長い月日がかかった気がした。
「セシリア」
名を呼んでから、彼はすぐ言い直す。
「……セシリア殿。私は」
言葉が一度、喉で止まる。
それでも彼は逃げなかった。
「私は、あの日、黙った」
誰も動かなかった。
かまどの薪がはぜる音だけが、やけに近い。
アルベルトは続ける。
「止められたはずの場で、止めなかった。疑いが筋書きへ変わるのを見ていた。あなたが名を捨てるまで、私は王子の立場へ隠れた。今夜ここへ来たのは、そのことをなかったことにしたいからではない。黙ったまま、もう一度あなたの前へ立つのが限界だったからです」
王子の謝罪は、もっと飾られたものだと思っていた。
だが彼の声には、整えた跡より、道中ずっと握っていたらしい悔いの皺が残っていた。
セシリアは腕を組まなかった。身構えると、それだけで自分の負けになる気がしたからだ。
「簡単には許しません」
「はい」
返事は早かった。
「聞くだけは聞きます」
「それで十分です」
レクシーが息を吐く。
「十分って顔じゃないでしょ、殿下」
「顔に出ていましたか」
「ええ。雪道で三日寝てない人の顔です」
その一言で、少しだけ空気が緩んだ。
アルベルトはわずかに口元を緩めたが、すぐ後ろの書類箱へ視線を戻した。
「夜半に押しかけた非礼は詫びます。ですが、急ぐ理由がありました」
彼は補佐官へ合図し、灰青の紐で綴じられた箱を卓へ運ばせた。箱は三つ。どれも重く、置かれた時に卓板が低く鳴る。
ネマーニャの目が細くなる。
「王立記録院の複写箱ですね」
「ええ。封は私が切ります」
アルベルトは王家の印環で封蝋を割り、中から帳簿束と地図を取り出した。紙はどれも王都仕込みの上質なものだったが、端には急いで選り分けたような指跡が残っている。
「白梢の谷の周辺地について、ここ数年で三系統の資金が流れています」
広げられた地図には、谷とその周辺の林、川、旧道、放棄された採石場まで記されていた。さらに赤墨で細い線が引かれ、丸が打たれている。
「一つは公的救援費。凶作と雪害を理由に、王都から何度か予算が出ている。二つ目は民間の開拓投資名目。三つ目が、税滞納地の再編を見込んだ先買いです」
「先買い」
プラチャンが眉をひそめた。
「人が生きる前に、土地だけ先に値札つけたってことか」
「はい」
アルベルトは肯いた。
「しかも、それぞれの流れにアスティリア公爵家と、その縁者が噛んでいる可能性が高い」
食堂の奥で、レクシーが小さく舌打ちした。
セシリアは驚かなかった。ただ、胃のあたりへ石がひとつ落ちたような重さだけが増える。
「婚姻話」
彼女は言った。
「白梢の谷へ杭を打つための」
「その可能性が高い」
アルベルトは答えた。
「ヴェルトラム伯の名は、南部の果樹園より、最近は土地再編の名義貸しでよく見ます。あなたへの婚姻打診が出た時点で嫌な予感はあった。そこで記録院の過去の出納と、監査局の準備資料を照らしたところ、白梢の谷だけ不自然に数字が浮いていた」
ネマーニャが帳簿へ身を寄せる。
「この数字の飛び方……冬季搬入量に対して保管費が高すぎますね。しかも、補修費の立ち上がりが遅い。実物が来ていないか、来ても粗悪品だったか」
「そこまでは王都の紙では断定できません」
アルベルトは言う。
「だから現地へ来た」
「監査使節として?」
セシリアが問う。
「表向きは」
アルベルトは自嘲ぎみに息を吐いた。
「正規の名目がなければ、記録院の複写を持ち出せませんでした。王都では、私が独断で辺境へ向かえば、それだけで止められる。だから監査に同乗した」
ローディンが不満そうに口を開く。
「殿下。我々は不正の有無を確認するために――」
「確認する」
アルベルトは視線だけで制した。
「ただし、最初から罪人を決めるためではない」
そのやりとりを見ながら、セシリアはおかしな気分になった。
王城の広間で、彼は止まれなかった。だが今夜は、止めている。遅い。遅すぎる。けれど、遅いことと、来なかったことは同じではない。
「証拠は」
ネマーニャが言った。
「王都の側の紙だけでは、谷を守るには足りません。こちらの帳簿、配給記録、荷札、署名が要る」
「ええ。だからお願いしたい」
アルベルトは初めて、ネマーニャへ正面から向き直った。
「あなたが打ってきた記録を見せてほしい」
「先生です」
レクシーが横から言う。
「この人は、ネマーニャ先生」
「失礼した。ネマーニャ先生」
王子が素直に呼び直すと、今度はプラチャンが小さく吹き出した。
「王都って、呼び直せるんだな」
「今、感心するところ?」
レクシーが呆れる。
ほんの一瞬だけ、食堂らしい温度が戻る。
セシリアは卓の地図を見た。
赤い線は谷を囲むように引かれている。まるで皿の縁取りだ。中身が煮えた頃合いを見て、誰かが蓋ごと持っていこうとしているみたいだった。
「一つ聞きます」
彼女はアルベルトを見た。
「どうして今なのですか。婚姻話が出たから? 谷の土地に値がついたから? それとも、やっと黙ったままでいられなくなったから?」
アルベルトは返事を急がなかった。
その沈黙は、言い訳を探している沈黙ではなかった。遅すぎた時間をどう切り取っても綺麗にならないと知っている人間の沈黙だ。
「全部です」
やがて彼は言った。
「婚姻話を見た時、あなたがまた札として並べられると思った。監査資料を見た時、谷そのものが食卓へ上がると思った。そして――あの日からずっと、私自身の卑怯さを見ないふりすることに疲れた」
セシリアは、そこでようやく目を逸らした。
正直な言葉は、時に綺麗な謝罪より扱いに困る。
ネマーニャが帳簿の一冊を開きながら言う。
「殿下。今夜は封緘の確認だけに留め、詳細な照合は明朝にしてください。寝ている子どもたちと、仕込みの鍋を犠牲にするほどの成果は、夜更けの監査からは出ません」
「同意します」
「それと」
ネマーニャは紙から目を上げた。
「ここで出た話は、住民代表の立会いなしには動かさない。食堂も倉も、誰かの持ち物ではありませんから」
「約束します」
アルベルトはためらわず肯いた。
ローディンは納得のいかない顔だったが、王子が先に印章札へ記名すると、それ以上は逆らえないらしい。入口、帳場、倉の三か所に封緘札が貼られ、詳細確認は夜明け後と記された。
手続きが終わる頃には、冷え切った夜気の中で、鍋の香りだけがやけに濃くなっていた。
「殿下」
セシリアは言う。
「立ったまま話すと、こちらの煮込みが本当に冷えます」
アルベルトが瞬く。
「……では」
「許したわけではありません」
「はい」
「でも、話を聞くと言った以上、空の腹に喋らせる趣味もありません」
そう言って、セシリアは棚から深皿を一枚下ろした。
根菜と鶏肉の煮込みをよそい、黒麦の小さなパンを添える。王城なら銀盆と給仕が要る場面だろう。けれどここでは、湯気の上がる皿一枚で十分だった。
皿を受け取ったアルベルトは、礼を言う前に、少しだけ目を閉じた。香りに安堵したのか、疲れが一気に押し寄せたのか、その両方かもしれない。
「熱いので」
セシリアは言った。
「嘘だけは、ゆっくり飲み込んでください」
プラチャンが吹き出し、レクシーは肩を震わせ、ミルコフでさえ鼻先を少しだけ上げた。
アルベルトは苦笑し、小さく頷く。
「今夜は本当のことしか持ってきていません。足りなければ、明朝また出します」
ネマーニャがその言葉を聞きながら、卓へ残った最後の書類束を開いた。
上に載っていたのは一枚の買収見込図だった。白梢の谷の名前の横に、見慣れた紋章――アスティリア公爵家の印。その下へ、細い字でこうある。
『再編後優先取得候補地』
紙を見た瞬間、食堂の誰もが息を止めた。
谷は、本当に皿の上へ載せられていたのだ。
セシリアはかまどの赤を一度見た。
灰の下で消えない火。
守ろうとした分だけ残る火。
それから、卓の上の地図へ視線を戻す。
「では、明日の朝」
彼女は静かに言った。
「白梢の谷を、誰の皿にも乗せない話をしましょう」




