七 哀しみの帰郷
「珠緒さん、どうしました?」
卵の入った籠を抱えて戻ってきた小夜が不思議そうに声をかけてきた。小夜が出ていった時と同じ場所で佇んでいることを不審に思ったのだろう。
「どうもしないわ。卵ありがとう」
籠の卵を一つ手に取ろうとしたら、滑って落ちた。
「あっ、ごめんなさい」
割れた卵が着物にはねて裾にまだら模様をつけた。
「珠緒さん、具合悪いんじゃないですか? ここはあたしがやっておくんで、奥で休んでください。頭領にもそう伝えておきますから」
気がそぞろなだけで体調は問題ない。家のことでもやっていた方が気が紛れるかと思いもするが、こんな状態ではかえって邪魔になってしまう。
「ありがとう。そうさせてもらわ」
小夜の言葉に甘えて部屋へと引き上げることにした。
「これからどうしよう……」
そう呟いてみても、どうすることもできないのはわかっていた。初めから贄として来ているのだ。生涯血を捧げるか、この身を捧げるかの違いだけで、なにも変わってはいない。変わったのは、私の心だけだ。
仇討ちをするつもりでいた頃は、願いが叶うのならこの身など惜しくもないと思っていたし、死も怖くなかった。命が惜しくなく、花婿に嫌われても構わなかった。だから最初から残月には言いたいことを言った。それが居心地の良さに繋がったのだから皮肉なものだ。
ひんやりとしたものが額に触れた。
瞼を開けると、目の前から大きな手が離れていくところだった。
「起こしてしまったか?」
残月だった。
「あれ? 私……」
私は布団で横になっていた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。
額に手をやると、濡れた手拭いが乗せられている。手拭いを外しながら上体を起こそうとすると、片手で背を支えながら反対の手で床へと押し戻された。再び手拭いを額に乗せられる。
「まだ横になっていた方がいい」
病人ではないのだけれどと思いつつも逆らう気力もなく、私は布団の中で小さく頷いた。仰向けだと残月と向かい合ってしまうので、横を向いた。
なのに残月も畳の上に寝転がったものだから、結局向かい合うことになってしまった。
顔が近い。息遣いさえ感じられる。
「顔が赤いな」
「誰のせいだと……」
「ん?」
「な、なんでもないわよ」
頭の上まで引き上げた掛け布団をそっと剥がされる。
「そんなに潜ったら苦しいだろう」
「人の気も知らないで……」
言っても仕方ないのに恨み言が出てしまう。
けれども残月には通じず、噛み合わない言葉が返ってきた。
「すまんな。傷があるなど患部がわかれば治してやれるのに」
まるで自分自身が痛むような顔をしている。
残月がこうやって私の身体を気遣ってくれるのも上質な餌を育てるため。贄とはそういうもの。
わかっているのに、妻に向けられた愛情だと思いたくなってしまう。贄でなければ残月の蘇生の力で永遠に生きられたのだろうか。永遠に残月と共に生きられたのだろうか。
永遠に?
ちりりと頭の奥が引き攣れる感じがした。すぐにそれが一つの疑問だと気がついた。
「ねえ、残月は不死身なの?」
「いきなりどうした?」
「だって残月は蘇生の力を持っているんでしょう? それって死なないってことじゃないの?」
「うーん。死というものについて深く考えたことがないな……たしかに夜叉は人に比べたら長生きだ。だが、いつかは死ぬ。患部のわからないものは蘇生できないからな。患部などないか、あるいは全身が天寿をまっとうしたら死ぬのかもな。実際、これまでに死んでいった仲間もいる」
「残月はどのくらい生きているの? 歳は幾つなの?」
「歳か。紅里野村から花嫁を送られるのが百年ごとだから、二、三百年以上は生きていることになるか」
三百年……気が遠くなるような年月だ。
――あれ?
また一つ余計なことに気がついてしまった。
三百年以上も生きているのなら、百年ごとに迎える花嫁は私で三人目ということになる。やはり前の二人の花嫁も夜叉の頭領が力を維持するための犠牲になったのだろう。
「珠緒、もう寝ろ」
そう言った残月の方が先に寝息を立て始めた。
まだ明け切らぬ朝ぼらけの中、そっと屋敷を抜け出した。湿り気を帯びたひんやりとした空気の中、虫の声と蛙の声が重なり合って響いている。
私は、まだ人魂が灯っている畦道を足早に森へと向かった。一度、紅里野村に帰るつもりだった。
帰るといっても、物陰から様子を見てくるだけだ。贄嫁に出したはずの者が帰ってきたら騒ぎになるはずだから、見つからないようにしなくてはならない。村のみんなを不安にさせたくはない。
また残月のもとに戻って贄としての務めを果たす。そういう盟約だから。村を妖蟲から守るための覚悟はある。もう異形のもののせいで大切な人たちを失いたくはない。
ただ、生きているうちに、もう一度だけ姿を見ておきたい。千花や養父母、そして文弥のことを。この人たちを守るためにこの身が役立ったのだと誇りに思いたい。
贄嫁にならなければ、文弥と所帯を持つ未来もあったのだと思う。名主に呼ばれる直前に文弥が言いかけていたのは、きっと――。いつになく真剣な眼差しからそんな気がした。
文弥に対して抱いていたのは友としての感情だけだ。それでも嫁に望んでくれたのなら、私は頷いただろう。断る理由がないという理由で。
森の中は一本道で、迷わず湖畔に辿り着いた。葦舟は来た時と変わらない場所で小さな波にゆらゆらと揺れていた。巨大なムカデのような妖虫が水面を滑っている。
妖蟲が去るのを見計らって葦舟に乗り込むと、来た時と同じように、勝手に沖へと進み始めた。
葦舟が紅緋湖の岸辺に着く。
朝露に濡れた草が朝日を受けて煌めいていた。
裏紅里野とほとんど変わらない風景のはずなのに、まるで知らない土地のように感じられる。
葦舟を降りて森を抜けると、村人の姿が見えた。紅里野村の朝は早い。既にちらほらと田畑に出ている人たちがいる。
贄嫁に出したはずの者が帰ってきたら驚くに違いない。盟約が破られたと怯えるかもしれない。村を混乱に陥れたくはない。
帰ってきたことに気づかれないよう、私は森の暗がりに身を置いた。
木の影から覗くと、向こうから桶を下げた女が歩いてくるのが見えた。遠目にもわかる。千花だ。
顔を上げ、しっかりとした足取りで歩いている。家に篭ったり、泣き暮らしているかもしれないと心配していたが、そんなことはないようだ。元気そうで安心した。
川の水を汲んできたのだろう。養父母の清とミツはもう歳だから重いものは運べない。これまで水汲みは珠緒の役目だった。水汲みは重労働だ。川は遠く、水は重い。一杯では足りず、日に何度も汲みに行かなければならない。
千花が近づいてくる。川から帰るには森の前を通る。私の目の前を通り過ぎるということだ。私は音を立てないようにそっと木の影に隠れた。
目の前の道の真ん中で千花が立ち止まった。桶を置いて両手のひらを見つめている。手が痛むのだろうか。
隠れていることも忘れて、思わずかけよろうとした時。
「千花!」
道の反対から走ってくる姿がある。千花を迎えにきたようだ。
「重かったろう。大丈夫か?」
千花が満面の笑みで振り返る。
「文弥さん!」
文弥が千花の手を取る。
「かわいそうに。こんなに豆ができて」
「姉さまがいれば私がこんなことしなくても済んだのに。ひどいわ、姉さまったら」
「そんなこと言うもんじゃないよ。珠緒は千花の代わりに贄嫁になってくれたんだから」
「あら、当然のことよ。姉さまは罰を受けるべきだわ」
罰……? なんのことだろう。
文弥が頷いているところを見ると、初めて話すことではないのだろう。
「帝都でのことか……」
「そうよ。姉さまは父と母を見捨てて逃げたのよ。私、ちゃんと覚えているもの。まだ父も母も生きていた。それなのに、姉さまは助けようとしないで逃げたの」
――違う!
そう叫びそうになって、慌てて両手で口を押さえた。
「やっぱり信じられないよ」
「ひどいわ。私のことを疑うの?」
「いや、そうじゃないよ。そうじゃないけど……珠緒は面倒見もよくて、人が嫌がる仕事も率先してやってただろ? 水汲みもそうさ。そんな人が親を見捨てるとは思えないんだ」
「騙されないで。猫を被っていたのよ。全部嘘っぱち。帝都でのことは私が幼くて覚えていないとでも思ったんでしょうね。頼りにしている振りをすれば、なんでもやってくれるから助かったわ」
違う……違う……違う!
私は二人を助けたかったのに、千花を託されたから。それで私は……。
まさかそんなふうに思われてたなんて……。
今すぐ出ていって誤解を解きたかった。でも今更わかってもらったところでどうなるというのだろう。それに、誤解されたままの方が千花のためかもしれないとも思った。千花が本当のことを知ったら――千花を逃すためにお父さまとお母さまを助けられなかったと知ったら、千花は自分を責めてしまうかもしれない。
そう自分に言い聞かせて、私はそっとその場を後にした。




