六 秘めたる片恋
残月がこの村のことを裏紅里野と呼んだだけあって、私が暮らし慣れた紅里野村と似ているところが多い。そのおかげで、ここでの暮らしに馴染むのに時間はかからなかった。
「珠緒さま、またそんなことを!」
川から汲んできた水を台所の水甕に移していると、小夜が飛んできて慌てて桶を取り上げた。小夜は祝言の際に介添をしてくれた若い夜叉の娘だ。
「あら。これくらいどうってことないわ。ここに来るまでは毎日やっていたことだもの」
「でも、あたしが頭領に叱られてしまいます」
贄とは名ばかりで、随分と大切に扱われている。どうにも居心地が悪いのだが、小夜が叱られるのは気の毒なので、仕方なく後を任せることにして外に出た。
あてもなく歩いていると、村の女たちが親しげに声をかけてくれる。挨拶を交わしたり野菜をもらったりと、紅里野村にいた時と変わらぬ暮らしぶりをしている。
夜叉に囲まれて暮らすことにも慣れた。夜叉たちも人と異なる点はほとんどない。ツノと赤い目も見慣れてしまえば気にならなくなった。
暮らしの上で違うところといえば、紅里野村では家族総出で畑仕事をしていたが、ここでは畑仕事や家のことは女子供の仕事で、男たちは現世と隠世の境界で妖蟲を退治している。人にとっては命懸けで戦うような妖蟲でも、夜叉にとっては狩りをするようなものらしい。
退治した妖蟲はその場で食べるのだという。食べることで妖力を摂り入れることができるそうだ。妖力を多く摂ればそれだけ妖蟲などの異形のものより強くなれるというわけだ。
妖蟲の中には紅緋湖に張られた結界を超えて現世に出ていってしまうものもある。それを阻止するのが夜叉の男たちの役目だ。
夜叉と人との盟約――人は百年に一度夜叉に贄を捧げ、夜叉は常に異形のものが結界を超えないよう守る。
異形のものは闇に棲む。隠世の昼は平気でも現世の明るい光は苦手らしい。現世の夜に異形のものは現れる。
帝都でさえ、十年ほど前までは毎晩のように異形のものが現れていたのだ。篝火さえ焚かない紅里野村なんて、異形のものが現れないはずはないのだ。
帝都は十三年前の大惨事を機にガス灯が建ち並び始めた。夜でも昼のような明るさで、今ではすっかり異形のものが現れなくなったという。そんな話が紅里野村まで届いていた。当時、両親を失って間もなかった私は、目覚ましい文明開化が進む帝都の噂を耳にするたびに、あと数年早ければと思わずにはいられなかった。
「帰ったぞ」
「お帰りなさい」
残月の声がすると、玄関で出迎える。
小夜は通いの手伝いなので、夜は残月と二人きりだ。
「今日は立派な茄子をいただいたから、焼いたのよ」
「そりゃいいな。焼き茄子は好物だ」
子供のように足取りが軽くなる残月を見て頬が緩む。
私は夜叉の部屋についていき、いつものように浴衣に着替えるのを手伝った。
帰宅したばかりの残月からはかすかに妖蟲特有の腐ったような臭いがする。着物に臭いが移るほど摂ってきたのだろうか。
妖蟲は異形のものの中でも小者だという。一匹から摂れる妖力もわずかだそうだ。
以前は、より効率よく妖力を得るために夜叉同士でも共食いしたという。さらに高い妖力を得るには人の生き血を吸い、人肉を食す。それを得られるのは頭領の特権。――そう言っていたはずなのに。
嫁入りしたあの日以来、一度も血を吸われていない。
――百年に一度迎える花嫁の血しかもらわない。だが、珠緒が嫌だというなら、やめても構わない。
残月はそう言ったが、私は答えなかった。良いとも嫌とも言っていない。どちらでも構わなかったのだ。首筋を噛まれた際にも痛みもなければ、気分が悪くなることもなかったから、求められれば断るつもりはない。善意からではない。近寄る機会が増えれば、仇を討つ機にも恵まれる。断るはずがない。
それなのに、残月はただの一度も求めないのだ。毎日血を与えるのが贄の役目だったはずなのに。
仮に、贄としてではなく花嫁として迎え入れられたのだとしても、道理に合わない。なぜなら、初夜でも寝所は別だったし、それ以降も閨をともにしたことがないからだ。花嫁の扱いではない。
いったい、私は残月のなんなのだろう。
一日も早く仇を討ちたい思いと、残月の心を知るまでは失うわけにはいかないという思いが交差する。
そもそも討つ機会がないのだから仕方がない。
残月の背を見つめつつ思う。たとえば今ここで背後で懐剣を振り上げたとしても瞬時に手首を押さえられるに違いない。力で敵うはずもなく、警戒心を強めるだけに終わるだろう。寝首を掻くにも寝所が別では部屋に入った時点で気づかれそうだし、毒を盛るにも肝心の毒を手に入れる手段がない。
いや、そうやって自分に言い訳をしている。討たずに済む理由を探している。わかっている。そう、本当は自分でもわかっているのだ。――ここでの暮らしは心地よい。失いたくない。この暮らしも、残月も。
こんな気持ちで仇討ちなどできるわけがない。残月が親の仇だとしてもなお、慕う気持ちが抑えられない。
そして、私は、そんな自分を心底蔑んでいる。
翌日いつも通り手伝いにやってきた小夜は籠を抱えていた。鶏の元気な声がする。
「うちの鶏がよく育ってきたんですけど、一羽どうです? うちは鍋にしようと思っているんです」
「あ、ごめんなさい。私、鶏を潰したことがなくて」
「え? そうなんですか? 人は鶏を食べないんですか?」
「食べるわ。私が下拵えできないだけ。いい大人が恥ずかしいけど」
「恥ずかしがることなんかないです。じゃああたしが教えましょうか?」
「あ、ううん、せっかくだけど遠慮するわ」
紅里野村にいたころから、鶏を潰すのは見るのも苦手だった。帝都での惨劇を思い出してしまうから。命をいただくことに抵抗があるなどとは言わない。魚を捌くのは平気なのだから、我ながら身勝手だと思う。
「あー……じゃあ今度うちで潰したあとのものを持ってきましょうね。この鶏は一旦うちに戻してきますね」
「ごめんね。親切に持ってきてくれたのに」
「ああ、いいんです、いいんです。あたしが勝手に持ってきただけなんで。あ、代わりに今朝ほかの鶏が産んだ卵を持ってきますね」
遠のいていく鶏の声を聞きながら、卵もいいけど肉の方が残月にはよかったのかもしれないなどと考えていた。日々体を動かしているのだから、肉の方が力がついていいだろう。そこまで考えて、はっとした。
――いったい、私は残月のなんなのだろう。
その答えに辿り着いてしまったかもしれない。
私は鶏と同じなのではないだろうか。卵よりも肉を。血よりもこの身を。
夜叉たちは妖蟲を退治しながら食して妖力を摂っているという。
残月は私の血を上物だと言っていた。匂いだけで食らいついてきてきた。その身ならばもっと口に合うと考えたとしても不思議はない。日頃の好待遇は極上の人身に育て上げる飼育の一環だとしたら。嫁として求めているのではないのだから、閨を共にしたことがないのも納得がいく。
いくら人のような暮らしをしているとはいえ、彼らは夜叉だ。妖蟲を難なく退治できて、他の異形のものよりも妖力の強い夜叉だ。あの地獄のような帝都での惨劇を煽動した夜叉だ。
そうだ。きっと私は残月に喰われる。
――いったい、私は残月のなんなのだろう。
その答えはひとつ。
私は、残月の――餌。




