五 祝言の高砂で
広間には数えきれないほどの夜叉がいた。
紅里野村で暮らしていた家がすっぽりおさまるほど広い座敷に、ぐるりと祝膳が並ぶ。既にみな席についていた。その目が一斉に私を見た。
男も女もいる。並ぶ食べ物も着物も人と変わらない。人と違うのは、ツノと赤い目くらいだ。
「一同、待たせたな」
その一言で、私に向いていた目がすべて残月へと移った。
「頭領、おめでとうございます!」
「おめでとうございます!」
夜叉たちが口々に祝いを述べ、興味の中心が私から残月に移ったのを見届けると、私は小さく息を吐いた。
見たこともない数の夜叉に注目されて居竦んでいたから、呼吸がとても浅くなっていたのだ。残月一人を前にするだけなら憎しみも相まって気丈に振る舞えるが、夜叉の巣窟に人の身で一人放り込まれただと実感するとさすがに震える。
仇を討つまでは死ぬわけにはいかない。緊張と恐怖による汗で襦袢が肌に張り付いている。
「さあ、続けてくれ。祝いの席だ。存分に楽しむがいい」
残月は上座に用意された高砂に向かっていく。
「花嫁様もどうぞこちらに」
女の夜叉に介添されて、残月と並んで座した。
目の前には鯛の塩焼き、赤飯などを乗せた一の膳がある。この後、煮物、焼き物などの二の膳、蒸し物、揚げ物などの三の膳と続くのであれば、婚礼などの生活様式も人と変わらないことになる。ますます十三年前のあの夜の惨劇の首謀者とは思えない。
横目で残月を見ると、次々と祝いを述べにくる者から酒を注がれ、その度に上機嫌に飲み干している。
お酒には強そうだ。酔わせて隙を狙うのは難しいか。
討つ算段をしながらも、心の隅に違和感が巣食っている。
姿はあの夜の夜叉なのに、やはりどうにも印象が違いすぎる。
「どうした? 箸をつけてないじゃないか」
ハッとして顔を上げると、残月がこちらを見ていた。一通り挨拶が済んだらしく、座敷では自分の席を離れて談笑している者も多い。
「私はその……」
仇を討つためなら命も惜しくはないが、事をなす前にもしものことがあってはならない。敵ばかりの場所で出されたものを口にするなどもってのほかだ。
「腹が減ってなくても何か口にしろ」
「食べるかどうかまで命令しないで」
残月は困ったように顔を歪めて苦笑した。
「本当におまえは……いや、すまん。珠緒は跳ねっ返りだな」
さっそく呼び名を変えてくれている。
なんだろうこれは。これでは私が、残月の寛容さに甘えて我儘ばかり言っている小娘みたいではないか。こちらに来てからというもの、ずっとこれだ。
おかしい。こんなはずではなかった。幼い頃からしっかり者と言われ、千花が生まれてからは立派なお姉ちゃんだと言われ、紅里野村でも村に流れ着いた経緯を知っている年長者からは気丈夫と言われ、年少者からは厳しくも頼りになる姉ちゃんで通っていたはずだ。両親も最期は私のことを案じる言葉はなく、千花を守ることを託された。
黙っていると、箸を口に突っ込まれた。
「んっ!」
吐き出そうとした口を大きな手で押さえつけられる。
「いいから食え。俺の膳から取ったものだ。心配せずとも毒など入っとらん。噛んで飲み込め」
黒豆のようだが、よくわからない。残月の手から逃れようと身を捩った瞬間に噛む間もなくつるりと喉を落ちていった。しまったと思うと同時にむせた。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
咳き込む私の背を残月が撫でる。
すぐに落ち着いて、胸に手を当てながら体を起こした。
「大丈夫だから、手を――」
「あ、ああ……」
背中から手が離れると、残月を睨みつけた。残月が怯えたように顎を引く。
「……飲み込んでしまったじゃない」
身に覚えのないことで叱られた子のように気抜けした表情をしていた残月だったが、ふいに破顔した。
「そうか。よかった」
「私の話、聞いてる? ちっともよくないわ。いきなりなんなの?」
「そう怒るなって。食えというのに食わないから、食わせただけだ」
「それを怒っているのよ」
「手続きなんだから仕方ないだろ」
「手続き?」
「人が隠世にいられるようにするための手続きだ。さっき言っただろう」
そういえば、ここへ来る前にそんなことを言っていた気がする。
「だからって……」
「早く隠世のものを口にしないと、この世の異物と見做される。そうなったら、命はない」
ゾッとして我が身を抱いた。
「だったらそう言えばいいじゃない」
「よく言うな。聞く耳を持たないじゃないか」
「ちゃんと説明されたら聞くわよ。残月ったら、血を吸うのだって、食べ物を口にするのだって、いきなりなんだから!」
急に残月が黙った。
「な、なによ。なにか言い返してみなさいよ」
「あ、いや、初めて名前を呼ばれたな」
声がどんどん小さくなる。視線を逸らし、照れているようにも見える。
「え? 初めて?」
「珠緒から呼ばれたのも初めてだが、普段は周りからは頭領と呼ばれるからな。俺のことを名で呼ぶ者はいない」
同じなのかもしれない。そう思った。
私がずっと「頼りになる姉」を守ってきたように、残月もまた「隙を見せない頭領」を守ってきたのだろう。そして私が残月に対しては「姉」を脱ぎ捨てられるように、残月も私の前では「頭領」を脱ぎ捨てられるのだとしたら。それはなんて心休まる――
「珠緒? 急に黙り込んでどうした?」
残月の声に物思いから醒める。
私ったら、なんてことを考えているの。仇に心を許すなんてあり得ない。
「なんでもないわ。そ、そうだわ、夜叉も人と同じ食事をするのね、と考えていたのよ。異形のものはみな、人を襲うでしょ? それは食糧にしているのかと思っていたから。花嫁の血を吸うのもそういうことではないの?」
咄嗟に出た言葉の割にはそれらしく誤魔化せた気がする。いま頭に浮かんでいたことではないけれど、そう思っていたのは事実だ。嘘はついていない。
残月の返答に間があいた。
なにかおかしかっただろうかと不安になっていると、ようやく残月が口を開いた。
「そうだな……夜叉が人を食うというのは間違いではない」
私は絶句した。
てっきり否定されると思っていたのに。この場の様子から、半ば本気で夜叉が人を襲うのにはなにか誤解があるのではと思い始めていた。
残月との会話が成り立つために、夜叉とは理性的な者だったのだと早とちりしていたのかもしれない。そう気づいて血の気が引いた。
仇を討つまで命があればいい……?
どうしてそんな悠長な考えを持てたのだろう。
私は、数えきれないほど多くの夜叉の中に、たった一人放り込まれた「人」なのだ。カラスの群れに襲われる一匹の子ウサギよりも絶望的な状況だ。仇討ちという前しか見えていなくて、後ろを振り向こうとさえしなかった。目の前に見えているものよりも、後ろに迫る危うさの方が近くにあるということを今更ながら痛感している。
「ああ、こういうところか。先に説明しろと言われたばかりなのにな」
眉根を下げた残月が、おのれの首筋を撫でている。
「怯えさせるつもりはなかったんだ。珠緒のことを食うつもりはないし、他のやつが食うことも許さないから安心しろ。……つっても無理だよなぁ」
「……本当に? 本当に私を殺さない?」
「約束する。信じてもらえるかわからないが、俺たちは人を食うことをやめたのだ」
「人を食べなくても生きていけるの?」
「生きてはいけるな。実際、こうして生きている。他の生き物は食うが、人を食うことはやめて久しい」
「血は? 血は吸うのでしょう?」
「俺だけだ。まあ頭領の特権ってやつだ。それも百年に一度迎える花嫁の血しかもらわない。だが、珠緒が嫌だというなら、やめても構わない」
「やめられるものなの?」
「みなは血などなくてもああして生きているからな」
宴は新郎新婦をよそに大いに盛り上がっている。もはや自分の膳の前に座っている者などいない。思い思いの場所で酒を酌み交わし、踊るものや寝ているものもいる。
「しかし、人の肉や血を摂らないと力は落ちる。蘇生力もだな。不都合があるとしたら、その程度だ。ただ、珠緒の血は上物だから、できればほしいと思っている。まあ、これが本心だ」
そう言って、残月は照れたように笑った。




