十一 紅緋の契りを
残月に許しを乞うても埒があかないと思ったのか、無月は私に向かって話しかけてきた。
「おい、嫁さん! 珠緒よぉ! さすがの俺も鬼化したあいつには敵わない。自分の代わりに仇討ちしてもらうならそうすればいい。けどいいのか? おまえ、あいつの女房なんだろ? 止めなくていいの? 戻れなくなるぜ」
「黙れ! おまえなんぞ早くこうしていればよかった」
無月が話している間にも、残月はいたぶる手を止めない。無月のほうも傷を負いながらも話し続ける。これしか助かる手段がないかのように。
「残月の見た目なんか関係ないとか言うなよな。姿形だけじゃない、このままじゃ心だって失うぜ。獲物を襲うことしか考えられない異形のものに成り下がるぞ」
私は、あまりにも圧倒的な力の差を前にして、残月だけが変化するのはなぜなのだろう、と考えていた。残月にあって、無月にないもの。それは、怒り、なのかもしれない。心が鬼と化すことで躰も鬼になる――。
「おい、女! 呆けてんじゃねぇぞ! おまえの亭主、早くしないと戻れなくなるぜ! 命乞いで言っているだけじゃない! 決めろ! 仇討ちを選んで俺を討たせるか、これまでの夜叉に戻させるか!」
このまま残月に任せておけば、きっと仇討ちは叶うのだろう。十三年間、ずっと願ってきたことだ。憎い。無月が憎い。だけど――。
私は二人の間に割って入った。
「残月、やめて! もういいの!」
「珠緒、下がっていろ! 俺が仇を討ってやる!」
獣の咆哮のような、ひび割れた野太い声。もはや声にも残月の面影はない。
もう間に合わないのかもしれない。それでも私は残月を抱きしめた。私の腕は、巨大化した残月の腰のあたりまでしか届かない。
「お願い! 戻ってきて! 私にはあなたの方が大切なの! なにより、誰より大切なの!」
残月の瞳が揺らぐ。だが姿は元に戻らない。
私の中でなにかが弾けた。
抱きしめていた腕を解き、力任せに残月の腹を引っ叩いた。本当は頬を張りたかったけれど、大きくなりすぎた残月の頬にはどうしたって届かなかったのだ。
「ちょっと! 残月! いい加減にしなさいよね! あなた、私の夫なんでしょ! しっかりしなさい! 怒りで自分を見失わないで! 戻れなくなったらどうするの! 私を一人にしたら許さないんだから!」
残月の動きが止まった。しゅうぅぅと音でも聞こえそうな勢いでみるみるうちに元の姿に戻っていく。そして、力を使い果たしたのか、崩れるようにその場に倒れた。
「残月!」
駆け寄って胸に抱く。土の上に座り、残月の頭を膝に乗せた。息が荒く、目は閉じたままだ。
代わりに離れたところから声がする。
「いてててて……随分やってくれたな」
無月が緩慢な動作で立ち上がり、足を引き摺りながら寄ってきた。倒れたままの残月の顔を覗き込み、ふんっと鼻を鳴らした。
「おやおや、嫁の言うことは素直に聞くんだな。かかあ天下かよ。へっ、おっかねぇ嫁だな。珠緒、おまえ、残月よりよっぽど夜叉らしいじゃねぇか」
キッと睨みつけると、無月は「おお怖い怖い」とおどけたように怖がって見せた。
「あなたのために残月を止めたわけじゃないから」
「はいはい、わかってますよ。じゃ、俺はこれで。せいぜいおままごとの夫婦ごっこを楽しむんだな。お幸せにぃ」
莫迦にした口調で捨て台詞を残し、無月はどこかへ去っていった。
残月は攻撃一辺倒で何一つ傷を受けてはいない。にもかかわらず、やられっぱなしだった無月よりもずっと痛めつけられたみたいだ。
「残月……?」
顔にかかる髪の乱れをそっと直したが、残月は身じろぎひとつしない。
「息はしているから大丈夫……よね?」
たしか夜叉は簡単に死ぬようなことはないはずだ。そう自分に言い聞かせ、残月が回復するのを待った。鳥の囀りがやけに呑気に聞こえた。
しかし、日が傾き始めてもまだ目を覚さない。私はだんだんと不安になってきた。夜叉が持つ蘇生の力はこのような場合にもきちんと働くのだろうか。
残月は眠っているだけに見える。けれども眉間に深い皺が刻まれ、悪夢に溺れているようでもある。
夜叉が苦手とする日が落ちたおかげか、残月の苦しそうな表情は和らいだものの、いまだ目を覚さない。
どうしたらいいのかしら。
隠世に――裏紅里野に連れて帰るのがいいのだろうけれど、私の力では残月を背負うことなどできない。頭を膝に乗せるのが精一杯だ。
それならば、一人で裏紅里野に戻って助けを呼んでくるか。それが最善の策に思える。けれども意識の戻らない残月を残していくのは心配だ。無月がまた戻ってこないとも限らない。
迷っているうちにも夜の帷が下りて森に静けさが訪れる。遠くで梟が鳴いている。微かな葉擦れの音。あるのはただそれだけ。
「残月。ねえ、あなた、大丈夫なの?」
頬を撫でつつ声をかけても、返事はない。
あれほどの変化には随分と力を使うはず。もしかして蘇生の力もそれほど残っていないのかもしれない。
そうだとしたら、どうなるの?
最悪の答えが頭をよぎり、思わず残月を抱きしめた。胸に硬いものがあたり、身を起こすと帯に差したままの懐剣だった。
懐剣を抜き取り、しばし眺める。鞘から抜くと、木々の隙間から差し込む月明かりを受けて刃先がきらりと光った。
その瞬間、私の脳裏にもひとつの考えがひらりと光を放った。
仇を討つために携えてきたこの懐剣。無月の存在を知らず、残月を仇と信じて寝首を掻くつもりだった。危うく残月の命を奪うところだったこの懐剣。これの正しい使い道はきっと――。
右手に懐剣を握りしめ、呼吸を整える。
「――よし」
私は、自らの左腕に刃を当てると、一気に引いた。
「うっ!」
熱さに似た痛みが走る。かつて感じたことのない激痛だった。真っ赤な血がぼたぼたと垂れる。
身を屈めて左腕を残月の口元に近づけた。
「さあ、残月、飲んで」
けれども意識のない残月は血がそこにあることにも気づかない。唇に当てるが、うまく入らない。
「お願い、残月。血を飲んで。血を飲めば力になるんでしょ? 飲んで早く蘇生しなさいよ」
痛みと血の臭いでくらくらする。私の意識があるうちになんとかしないと。
そう思う間にも血は垂れていき、考えがまとまらなくなっていく。
残月を……残月を助けなければ。もう二度と目の前で大切な人を失いたくない。目の前の? 大切な人? ……この人が? この人、誰? ……ああ、この人は残月。私の大切な人……私の――愛しい人。
左腕を自らの口元まで持ち上げ、血を啜った。口いっぱいにぴりりとした刺激が広がる。吐き出したくなるのを堪え、残月に覆い被さった。そして、そのまま口づけをした。
舌で残月の唇をこじ開ける。そこへ口に含んでいた血を注ぎ入れた。残月が吐き出さないように、血が喉に落ちるまで唇を唇で塞いだまま待った。
「う……ううん……」
残月が小さな呻き声を上げた。
「残月? 聞こえる? ねえ、起きて」
しかし、またすぐに眠りに落ちていく。
私は繰り返し口移しで血を飲ませた。濡れた唇がべたべたして不快だった。舐め取っても舐め取っても、また血にまみれるため、途中からは拭うことをやめた。
何度目だろうか、唇を離して血で汚れた残月の顔を見下ろしていると、変化があった。
残月はしばらく眠りの力に抗っているのか瞼を震わせていたが、やがてゆっくりと目を開けた。赤い瞳が状況を確かめるように揺れ動き、それからじっと見つめる私の目を捉えた。徐々に焦点が合っていく。
「……た、まお」
「やっと起きた。お寝坊さんね」
「あれ? 俺……」
「どこか痛む?」
「あ、いや、大丈夫だ。限界を超える力を使ってしまったようだ。なぜこんなことに」
「覚えてないの? 大きな鬼に変化していたのよ」
「あ? ……ああ、そうか……」
「驚いたわ。変化できるなんて知らなかったから」
「俺も初めてだ。話には聞いていたが、誰かが変化したのも見たことがないな」
「そう……でも目が覚めてよかったわ。帰りま……しょ……う……」
すうーっと吸い取られるように意識が遠のいた。
「珠緒!」
遥か遠くで愛しい人の声がした。




