終
揺れている。心地よい揺れだ。
頬に微かな湿り気を感じる。水の匂い。葦の匂い。そして明け方の澄んだ匂い。
ああ葦舟だ。葦舟に乗って紅緋湖を渡っているのだ。
背が温かい。背後から誰かに支えられている。うつらうつらと心地よい眠りに誘われる。
細く目を開けると、霧の向こうにうっすらと対岸が見えた。鬱蒼とした山の木々は、湖上にまで枝葉を伸ばしている。その一角には注連縄が張られている。
ぎぎぎぎぎ……と歯軋りを思わせる不快な音がする。見れば一尺ほどもある羽の生えた百足のようなものが舟縁にとまっていた。妖蟲の一種だ。
しかし妖蟲は私の背後を見るや否や焦ったように飛び去った。
葦舟は洞穴の入口に張られている注連縄を潜り抜け、一筋の光も差し込まない洞穴へと入っていく。
「もう大丈夫だ」
耳元で囁く声に安心して私は再び微睡みに身を任せた。
*
……重い。
右腕の重さに目を覚ますと、見慣れた天井が見えた。
首を右に向ければ、重さの原因が寝息を立てている。左手を布団から抜いて、銀髪を撫でた。んっ……と吐息のような声がして、また寝息に変わる。
枕元には嫁入りの際に携えてきた懐剣が置いてある。朱殷の汚れがこびりついている。
そこではっとした。
――痛みがない。
懐剣で切ったはずの左腕には傷痕さえなかった。
「治してくれたのね。ありがとう」
再び髪を撫でると、赤い目が開かれた。
「目が覚めたか」
残月が起き上がるのに合わせて私も上体を起こす。
「まだ横になっていたほうがいいんじゃないか?」
「ううん。平気。起きるわ」
「珠緒のおかげで助かった。礼を言う。だが、今後は無理をしないでくれ」
大きな手に支えられながら起き上がると、寝巻きの浴衣を着ていることに気がついた。
「あっ、私ったら、こんな恰好で……!」
慌てて掛け布団を掻き抱いた。
「そ、それは、その、着物は血がついていたから……あ、いや、着替えさせたのは俺じゃないぞ。小夜に頼んだから大丈夫だ」
悪戯を見つかった子供のように焦る姿が可愛らしくて胸の奥がくすぐったい。そのくすぐったさに、ぷっと吹き出してしまった。
「なんだよ、笑うことないだろ」
「そんなに遠慮するんだもの」
「それは珠緒が恥ずかしがるからだろ」
「だって、その、残月は私のことを妻として見ていないのかと思ったから」
「そんなわけないだろ」
「だって、婚礼から随分経つのに……まだ、だし……」
「なにがだ?」
「なにって……」
「……あ! ああ!」
言っていることが通じたのか、残月は片手で顔を覆った。
「それはだな、あれだ……会った途端にあんなことをしておいて言えた義理ではないが……いや、あれは本当に抗えず、申し訳ない……その、我を失う香りだったから、とても……ああ、でも、大切にしたくて、どうしていいのかわからなくて……」
「ええ。今ならわかるわ。残月の優しさだったんだって」
残月が姿勢を正したので、私も掛け布団をよけて正座した。
「はっきり言っておく。俺は嫁に来たくれたのが珠緒でよかったと思っている」
「私も残月のお嫁さんになれてよかったと思っている」
「いや、俺のほうが喜ばしく思っている」
「いいえ、私のほうが幸せなことだと思っているわ」
「いいや! 俺のほうが幸せだ! 何百年も待った甲斐がある」
「そんなこと言ってずるいわ。私だって……」
その先は言わせてもらえなかった。残月の唇で塞がれてしまったから。
スッと襖が開く音がした。
「珠緒さま、そろそろお目覚めになりました? ……あらっ!」
小夜が「失礼しましたー」と明るい声で叫びながら去っていった。
私は残月と見つめ合って、笑った。
そしてまた、長い口づけを交わした――。
お読みくださいまして、ありがとうございました。
もしかしたら、またいつか新章として続けることがあるかもしれませんが、現時点では未定です。
お待たせするのも心苦しいので、一旦完結とさせていただきます。
書き慣れないジャンルでしたが、お楽しみいただけていたら嬉しいです。
ほんとうにありがとうございました!




