十 あの夜は無月
「……あなた、いったい誰なの?」
「俺は――」
男が頭から被っていた羽織をばさりと剥ぐと、不揃いに肩まで伸びた黒髪が揺れた。長い前髪が赤い目にかかる。
どくん、と息が詰まるほど強く胸の奥が脈打つ。
「あなたは――!」
自分のものとは思えないほど低い声が出た。
男はおもしろそうに右の口角だけを上げて笑った。
「ほう? 俺を知っているのか?」
知っているどころではない。この男だ。目の前の男こそ親の仇。
「……十三年前、帝都にいたのはあなたね?」
「ああ、あれか。あの宴を知っているのか」
「宴? あれが宴?」
「そりゃそうだろう。あんな好都合な場所はない。ひと所にたっぷり人が集まっていて狩り放題じゃないか。いい餌場だったな」
男はうっとりとした目でどこか遠くを眺め、舌なめずりをした。
「このっ……!」
怒りと憎しみで身体が熱くなる。歯を食いしばり、帯に差した懐剣に手をやった。嫁入り以来、肌身離さず持ち歩いているものだ。
男がその動きをおもしろそうに見ていることに一層怒りが湧いた。
初めて残月に会ったとき、髪色こそ異なるもののこの夜叉こそ親の仇だと思った。顔かたちは間違いなくあの夜の夜叉だったから、黒髪から銀髪に変わることもあるのだろうとしか思わなかった。普段の残月からはあの夜の面影は感じられないけれども、一度獲物を前にすれば変わったとしても不思議ではない。人ならざるものなのだから。そう思っていた。
帯から柄が見えているのだから、私が懐剣を携えていることを残月も知っていたはずだが、なにも言われたことはない。まさか自分の寝首をかくためだとは思ってもいなかったのだろう。実際、今日までそんな機会はなかった。
残月こそが親の仇。今日この時まで疑うことなどなかった。だから私は残月への想いを――。
「そうか。おまえ、もしかして十三年前の生き残りか。帝都の人は食い尽くしたと思ったが、よく逃げ延びたものだ。それほどの生命力を持つのなら、さぞかし美味いのだろうな」
男は身を屈め、長い指で私の頬をつうっとなぞった。
触れられたところから怖気が走る。しかし、離れたくても体が強張って動かない。手足が震え、歯の根が合わずガチガチと鳴る。
首筋に男の息がかかる。
「なるほど、これは良い香りがする。さて、まずは血からもらおうか」
「や……やめて……」
「いいねぇ。恐怖に震える声。竦み上がって動けない身体。一段と食欲をそそるよ」
「いや……」
恐怖? 違う。恐ろしさもあるけれど、それを覆い尽くすほどの嫌悪感。
男に首筋を舐め上げられ、忌避感が最高潮に達した。
「いやあああぁぁぁ!」
だってそれは残月が触れたところ。残月が血を吸ったところ。触れていいのは――触れてほしいのは残月だけ。
肌に歯が当たった、と感じた瞬間、男が吹っ飛んだ。
「てめえ! 珠緒になにしてんだ!」
同じ顔の、銀髪の男が立っていた。
「残月!」
「珠緒、大丈夫か? こいつになにかされたか?」
私は何度も首を横に振った。安心させたいため。穢されたと思われたくないため。
残月は、そうかよかった、と呟くと、私を抱きしめた。
涙が溢れた。
ああ、このひとになら血を吸われてもいい。この身を取り込みたいというのなら食べられてもいい。残月の硬く引き締まった腕の中でそう思った。
それから残月は、私をあの男から庇うように自分の背に回した。私は残月の広い背中に頬を寄せ、着物の後ろ身頃に皺が寄るほどに強くしがみつく。
男がゆらりと立ち上がる。首を一振りして、顔にかかる乱れた黒髪を振り払った。
「いってぇな。なんだよおまえ。それが久しぶりに会った兄に対する態度か?」
「兄……?」
思わず復唱すると、残月が苦々しい声で答えた。
「ああ、こいつは無月。双子の兄だ。残念なことにな」
「おいおい、光栄の間違いだろうが」
双子……道理で顔が似ているはずだ。だからといって、こうして見比べてみれば見間違えるほどではない。なぜ同じ顔だなんて思ったのだろう。つくりが同じでも面差しはこんなにも違うのに。
「光栄なものか。他人の嫁に手を出しやがって」
「はっ! 嫁! そいつ、人だろ? 俺を残月と間違えるくらいだから、おまえに縁のあるものだとは思っていたが、まさか嫁とはな! 俺ら夜叉にとって人なんて餌だろ。食糧だろ。食いもんを嫁にするとか片腹痛いわ」
「笑うなら笑え。おまえには関係ないことだ。そんなことを言うために来たのか」
「まさか。餌場を求めて辿り着いただけさ。帝都はもうだめだ。夜でもガス灯が煌々としてとてもいられたもんじゃない。帝都だけじゃない。ガス灯が国中に広まりつつあることなど知らないだろう。この村だっていつまで餌場としてもつかわからないぞ」
「俺は紅里野村を餌場にしているつもりはない」
「あれ? もしかしておまえ、まだ生ぬるいこと言ってるの? えっと、なんだっけ……夜叉と人が支え合い、共に生きる世に――だっけ?」
――え?
残月を見上げるが、背後からでは顔が見えない。
「残月……? それって……?」
残月は私を背に庇い、無月の方を向いたまま答えない。
無月が莫迦にしたように笑う。
「おまえの嫁、そんなことも知らないんだ? 嫁さんよ、教えてやろうか。こいつはね、昔から人が好きなんだとよ。弱くて愚かな生き物と共に暮らせると本気で思ってやがる。そんな戯言に賛同した間抜けな連中がこいつの一党ってわけ。嫁さんさぁ、おまえ、贄として差し出されたんだろ? それだってこいつが――残月が望んだわけじゃないんだ。人が勝手に差し出してくるのさ。せっかく向こうから餌を差し出してくれるんだから、ありがたくいただいておけばいいのに、逃げた贄を追うこともしないんだぞ。腑抜けにも程がある」
「え? 今までの花嫁さんは力を得るために食べたのだと……」
そう言うと、残月は勢いよく振り向いた。
「そんなことするもんか。珠緒も知っているだろう、俺たちは人と変わらない暮らしをしている。食べ物だってそうだ」
「ごめんなさい、私、てっきり……」
残月は呆れたのか安堵したのか、大きな溜め息をついた。
それを見た無月が鼻で笑う。
「残月たちが人を食わないんだったら、俺たち一党がこの村に居着くまでさ。さっきも言った通り、もうどこも光が溢れていて狩り場も餌場もないんだわ。ここならまだ――」
「だめに決まっているだろう。紅里野村の人々は盟約は守られると信じているんだ。裏切るわけにはいかない」
「おいおい、なにか勘違いしてないか? おまえの許可など求めていない。十三年前に嫁さんの――珠緒とかいったっけ――その家族をやった連中がまた珠緒の育った村を襲うなんて乙じゃないか」
お願い、やめて、と言ったつもりが声にならない。
残月の背で震えていると、その背中がぶわりと膨らんだ気がした。顔を上げると、残月の身の丈がぐんぐん伸びていくところだった。
「残……月……?」
「珠緒、下がっていろ」
残月はそれだけ言って、無月に近づいていく。歩を進める間にも躰はどこまでも大きくなり、筋肉は盛り上がり、ツノも伸び、美しい顔は無骨で荒々しい顔立ちに変わっていく。人が思い描く鬼そのものだ。
「ねぇ、どうしちゃったのよ」
「無月、許さねぇ。珠緒に変わって仇を討つ」
「おいおい、本気になるなよ。支え合って共に生きるのがおまえの夢なんじゃないのか? ……俺たち双子の兄弟じゃないか」
無月は姿が変えられないのか、今までの尊大な態度が嘘のように下手に出ている。
「さっきの言葉をそのままかえしてやる。なにか勘違いしていないか? 俺はおまえと支え合う気はない」
残月が右腕を一振りすると、無月は吹き飛んだ。一瞬にして全身傷だらけだ。
「わかった、もうやめろ! やめてくれ!」
「そう懇願した人々を襲ったのはおまえだろう」
「もうこの村のことは諦める。だからいいだろう?」
「この村から去るのは当然だ。これは仇討ちだ。珠緒に代わっておまえを討つ!」
巨大な鬼と化した残月が地に倒れたままの無月に近づいていった。




