九 残月の遠き夢
「……珠緒?」
俺が目覚めると隣で寝ていたはずの珠緒の姿がなかった。
布団はすでに冷え切っている。随分前に出ていったようだ。
この俺が気づかないとは。いつもならば微かな音でも目を覚ますのに。
こんなに深く眠ったのはいつ以来だろう。もしかしたら初めてのことかもしれない。珠緒の隣はよく眠れた。
しかし心地よく眠れたのは俺だけだったようだ。
着物の合わせを簡単に直しただけで台所へと向かった。米の炊ける匂いと味噌の香り。トントンと小気味いい包丁の音。
「珠緒?」
振り向いたのは小夜だった。
「頭領、おはようございます。台所に顔を出されるなんて珍しいですね」
「ああ、小夜か。おはよう。……珠緒は来てないか?」
「珠緒さまですか? 今日はまだ。いつもは一緒に朝餉の支度をしているんですけどねぇ。まだ調子がよくないんですかね」
「いや、それが早くに床を出たようなんだ。てっきりここだと思ったんだが」
「え? それって、もしかして……」
「ああ。今回の嫁も出ていったかもしれない。珠緒は大丈夫だと思ったんだが無理をさせてしまったのかもしれん」
「前の花嫁も、その前の花嫁も逃げ出しましたもんね」
「やはり人が夜叉の中で暮らすのは難しいか――」
「でも珠緒さまはここを気に入っているように見えましたよ。頭領とお話しするのも楽しんでいるようでしたし。今は、ほら、具合が良くなってちょっと散歩にでも出てるだけじゃないですか?」
俺の目にも珠緒はこのでの暮らしを気に入っているように映った。小夜もそう言うのなら、俺の自惚れではなかったのだろう。それならばなぜ急にいなくなった? 俺にはただの散歩ではないと思えた。
「やはり気になる。探しに出てくる」
「ではお供する者を集めましょうか。探すなら手が多い方がよいでしょう」
「いや、いい。一人で行く」
「でも……」
「もし珠緒が夜叉を恐れる心を隠して気丈に振る舞っていたのだとしたら、大勢で行ったら逆効果だろう」
「それもそうですね。……それで見つけたらどうするんです? 逃げた花嫁は追わないと決めているんですよね? 前の二人の時もそうでした」
「ああ。だが、前の二人が紅里野村に逃げ帰ってどうなったか覚えているだろう?」
「はい……盟約を破って村を危険に晒したという理由で……」
小夜はそこで言葉を切ったが、その先に続く言葉がわかるので、俺は頷いた。
前の花嫁たちは一瞬たりとも隠世に馴染めなかった。水も食べ物も口にせず、そのせいでいつまでも隠世の異物だった。異物は生きることを許されない。一日で老婆のような姿になった。隠世で生かし続けるためになんとか飲食をさせようとしたが、三日目には屋敷を抜け出した。森に入るのを見た者がいて、行き先を察した。葦舟はなくなっていた。
自ら去ることを選んだものを連れ戻すつもりはなかったが、その後が気になった。様子を窺うため幾人かを連れて紅里野村へ忍び込んでみると、花嫁は村から追い出されるところだった。贄としての役目を放棄したことを責められ、たった三日で老婆の姿になったことも呪いだとして不気味がられた。そして花嫁は石を投げられながら村を出ていった。
そこでさらってきてしまえばよかったのかもしれないが、隠世が嫌で出ていったのだから戻りたくはないはずだ。やはり俺には花嫁を連れ戻すことはできなかった。だが――。
「珠緒はこれまでの花嫁とは違った。いや、これまで見てきた人の誰とも違った。やっと夢に一歩近づけると思ったんだ。珠緒なら……珠緒となら……」
「頭領、探しに行かれるのでしたら、一刻も早く!」
「おお、そうだな。もし、俺が留守の間に珠緒が帰って来るようなことがあれば頼む!」
俺は、小夜の返事を待たずに飛び出した。
畦道を走り、森へ入る。微かに梔子の香りがした。この辺りに梔子の花は咲いていない。珠緒だ。珠緒の匂いだ。やはり珠緒がここを通ったのだ。
珠緒は隠世のものを口にしているから命が削られることもなく、嫁入りした日のままの姿だ。だから紅里野村で呪われた者として扱われることはないだろう。だが――。
「やはり葦舟がない。現世に――紅里野村に向かったか」
――だが、俺は知っている。あの村の者どもが結託して珠緒を贄に仕立て上げたことを。
このままでは珠緒がその事実を知ってしまう。あの優しさと強さを併せ持つ娘がそれを知った時、どれほど苦しむか想像に難くなかった。
信じる者たちに利用されたのだと知ってほしくない。珠緒がそんな話を耳にする前に連れ戻さなければならない。
舟がないため、ざぶざぶと水に入っていく。腰の深さまで進むと、泳ぎ始めた。妖蟲どもが怯えたように飛び去り、道を開ける。
俺は贄を捧げてほしいなどと望んだことはない。裏紅里野の夜叉はみな俺と同じ夢を追う者だ。誰一人として贄など望んではいない。盟約を交わした覚えもない。あるとすれば、我らと親しんでくれるのなら、我らもまた人を守ろうと告げたことだ。それが曲解されたに違いない。人の忖度というやつだ。
それでも花嫁が夜叉と人との架け橋となってくれることを願って受け入れてきた。しかし、花嫁たちは刷り込まれた夜叉への恐怖を捨て去ることはなかった。人と生きる道は見果てぬ夢なのか。諦めきれぬまま、再び迎え入れた花嫁――それが珠緒だった。
あのように歯に衣着せぬ物言いをした者は初めてだ。人はおろか夜叉でさえあれほど小気味よいやり取りができる相手はない。珠緒となら俺の夢を叶えられるかもしれない。そう思った。夜叉と人の架け橋になり、俺と同じ夢を見てくれるのではないかと思った。
夜叉と人が支え合い、共に生きる世に――。
洞穴を抜けると眼底を射られたような痛みが走り、慌てて瞼を閉じた。目を閉じたまま岸辺を目指して泳ぐ。
隠世にも日は昇るが、現世のそれは比べ物にならない眩しさだ。常であれば日のあるうちに現世に赴くことはない。弱い妖ならたちまち霧散してしまう。夜叉は命を失うほどの害は受けないが、それでも無害とまではいかない。
岸に上がると、躰がずしりと重かった。着物が水を含んだせいだけではない。髪と着物を軽く絞ると、全身に力を込めた。内から熱が発せられ、ぶわりと髪や着物が風にはためくように膨らんだ。それが収まると全身が乾いていた。
「珠緒――」
珠緒とその妹が紅里野村に来た日のことは知っている。妖蟲たちが噂していたからだ。帝都から逃れて来た者がいると。
時期からして、帝都での大規模な人狩りに遭ったことは明白だった。夜叉の指揮で行われたことを考えると、珠緒姉妹が夜叉を憎んでいないはずはない。だからこそ俺の夢を語るのは憚かれた。
夜叉と人が支え合い、共に生きる世に――。
そんな願いを信じてもらえるはずがない。珠緒にしてみれば、さぞかし都合の良い話に聞こえることだろう。
だから俺は夜叉だの人だのという話を避けた。そんなものは忘れたふりをした。珠緒にも忘れていてほしくて。
そう――俺は、ただ、珠緒にそばにいてほしかったのだ。
「珠緒――」
妻の名を呟いて、微かに残る梔子の香りを辿り森を進んだ。




