第26話 無限の渇望
笑顔を張り付かせたまま僕をただただ見つめてくる女。しかしその表情に似合わず手には鋭利なナイフが握られている。刃渡りは目測で10センチといったところか。刺されば間違いなく致命傷だ。
僕は取り敢えず腕に抱えていたクッキーの缶の入った袋を地面に置く。そして向かいに立つ女に声をかけた。
「ちょっと待てよ。どうするつもりなんだ」
こんな人気のない場所でナイフを取り出すなんて確実にあの女はおかしい。多分あれも偽物とかではなく本物の、人を殺せるナイフだろう。でもなんでそれを僕に向けてくるんだ? 見た感じこの女とは初対面だと思うし恨みを買うようなことをした覚えはない。していたとしてもあんなの持ち出すなんて反則だ。
「どうする……か。正直なところあなたに直接の因縁というか、恨みのようなものはないんだよね。でもそれよりももっと深いところまで根は入り組んでるんでいる。枯れることなくただ育っていくばかり。だからそんな根を、雑草を引っこ抜くために」
女はそう言うと膝を折り体勢を落とす。同時にナイフを腰だめに構え地面を蹴ってこちらへ向かってきた。
一瞬の出来ごとに僕は混乱する。しかしこういう場合考えるよりも身体が勝手に動くようで、女がこちらへ向かってくるのを認識した直後僕は横へと転がった。先程まで僕の腹があった空間をナイフが抉る。埃を巻き起こしながら地面へと転がる僕だがなんとか初撃を躱すことができた。しかし次も躱せるとは限らない。ここは早急に体勢を起こしここから退避する必要が――――。
「逃がさない」
手を地面へ付け立ち上がろうとする僕。しかし女はそれよりも早く攻撃の構えに戻り、同時に僕の退路を塞いでいた。依然笑顔のままでナイフをこちらへ差し向ける。
このままでは体力を削られていきそのうち殺される。逃げることができないとなればなにか対抗する手段は……。
視線を泳がせ周囲を伺う僕。壁際には商品が入っていたと思われる木の箱が積み上げられ、中には工具のようなものがちらりと見えている箱もある。あれを手に取ることができれば。しかし距離的には僕よりあの女の方が箱に近い。取ることは容易ではない。
となれば物理に頼らない魔法という方法もある。以前本を持ち上げた時と同じ要領であの工具をこちらへ持ってくることができれば。
でもあの時だってめちゃくちゃ集中してやっと出来たのだ。今のこの緊迫した状況で意識を集中させることができるか。女にバレれば確実に殺されるぞ。
「…………」
女は喋らず動かず。
取り敢えず今女はこちらの出方を見るようにこちらを見てくるだけである。リリルによれば魔法なんて平民は使えないらしいから相手も僕が魔法を使える人間だなんて思わないだろう。僅かではあるが状況は僕に有利であるといえる。
意識を集中させる僕。女の視界に浮遊する工具が入らないよう上の方から持ってくる。僕の真上まで来たら一気に手元へ。女との距離は5メートルほど空いているので恐らくは大丈夫だと思うが。
「――――」
工具に意識を向ける。持ち上げるイメージを作り出し、上へ上へ。あの時から少しはマシになったようで工具は音を立てず箱の中から浮遊しだした。そして徐々に高度を上げついに女の視界に入らないところにまで到達する。あとは僕の方まで持ってくるだけ、
「随分余裕そうだねえ」
突如女が口を開いた。若干不思議そうな顔でこちらを見てくる。しかし僕は工具に意識を向けているため返事が出来ない。意識を散らせば工具が落ちてしまうかも。
「なんだ。返事する気なしか。そうだよね、いつもそうだ。誰もまともに話なんか聞いてくれない。無視して虐げて苦しめて……。一体何したって言うんだ。何にも……何にも悪くないのに……!」
驚いたことに女は瞳に涙を浮かべ始めた。すぐに溢れて頬を伝って地面へと黒いシミを作る。しかしその表情は次第に悲しみから怒りのように変わっていき、ついに女は再度ナイフを低く構えた。
ダメだ、あと少しでここまで工具を持ってくることができるのに。今襲いかかられたら――。
「――死ね」
女は小さくそう言うと地面を蹴り上げ僕の元へと飛び込んできた。無理だ。5メートルの距離なんてなんの意味もない。回避する時間も、受け流す策もない。
ドスっと。
僕は腹部に衝撃を受ける。見てみれば女が突き立てたナイフの柄がちらりと腹から伸びている。ほんの10センチほどの距離にある女の顔から声が聞こえてきた。笑っているようである。
「ふふ、ふははは! 今回は一撃で! 昨日見たいに潰さずに済んだ! どうやらわたしも上達して…………な、なに、」
女が驚愕といったふうな声を出す。ナイフがぶつかった衝撃で腹部がジンジンと痛むが、しかしあんなものが刺さってこの程度の痛みなのだろうか。
「まったく。私がトイレ行っとる間に随分お楽しみになっとるようだな」
女の背後から声が。すぐにリリルがひょっこり顔を出した。
「リ、リリル。なんで。てか僕刺され、」
「とらんよ」
? とらん? 刺されていない? 僕はもう一度腹部を見る。さっきはあまりの衝撃でこりゃ刺さったと思ったがよく見ると腹には刺さっていないように見える。それよりもナイフの先端が何かにぶつかり小さな光を散らせて止まっていた。
「――――ちっ。お前、魔法使いか」
僕に刺さったと思われていたナイフを引き戻しリリルの方を向く女。そのまま何のためらいもなくリリルへとナイフを向ける。が、やはり先端が触れる寸前に透明ななにかにぶつかり止まってしまった。
「無駄だ。あいつにも私にも自動感応型の防護魔法が展開してある。そんなナイフ一本では殺せんわ」
女は後ろへ飛び退くと僕には向けなかった憎々しげな表情でリリルを見る。視線で殺せそうな勢いだ。けれどリリルはそんな視線なんでもないというふうに涼しい顔をしている。
「もうちょっとで軍保が来るからおとなしくしとれ」
まったく動じずそう言うリリル。けれどどういうわけか女はうっすらと笑みを浮かべた。
「おとなしくしていろ? わたしに捕まれって言うんだ」
「そうだ。これは立派な殺人未遂だ。お前はここから逃げられん」
しかし女は依然笑っている。この余裕はどこから来るんだ。リリルがいる以上逃げられないというのに。
「お前たちはそうやって自分たちが特別だと思い込んでいる。逃げられないって? そんなこと誰が決めたの。やろうと思えば今すぐにでも逃げられるんだよ?」
女は手に持つナイフを放り捨てる。そのまま両手の平を重ねると前へ突き出した。
「インフェルボレット」
直後女の背後に円陣が。そしてその表面に数個の火球が急速に収束していき、弾けた。
地鳴りと轟音・閃光を伴ってリリルへと迫る計四個の火の玉。けれどリリルは眉一つ動かさずただその攻撃をその身に受けた。
「リリル!」
思わず叫ぶ僕。爆煙で不明瞭な視界の隅で影が動いた。恐らく女が逃げたのだろう。
「おい、リリ、」
「大丈夫だ」
晴れない土煙の中からリリルの声が聞こえた。駆け寄って見てみるとなんの外傷も負っていない。塵一つついていなかった。
「よかった……。無事だったんだな」
「ま、まあな」
しかしなんだったんだ。あの女明らかに魔法を使っていたぞ。それもかなり強力な。その証拠に壁際の木の箱は燃えて炭となり壁も表面が溶けていた。
「なんだったんだ、あいつ」
爆音を聞きつけてかすぐに人が集まり出す。早くここから退散したほうがいいだろう。
僕はリリルを連れてこの裏路地から出ようとする。
けれどリリルは何やら怪訝な顔を浮かべただじっと熱で溶けた壁を見つめていた。
僕はふと地面を見る。
のぶちゃんに買ったお詫びのクッキーは、もう食べられなくなってしまっていた。
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