声のデカい男①
片岡との出会いは、第二外国語の授業の初日だった。僕は大学受験が終わるとすぐにググりまくり、就活に有利と言われる中国語を選択していた。
ツルツルの教科書におそるおそる折り目をつけ、しきりに教室の入り口の方を窺っていると、ダークグレーのスーツにネクタイをきっちり締めた白髪頭の男性教授が現れた。教授は、ホワイトボードを背にして椅子に腰かけるなり、
「ンニィハォゥ」
と明瞭に発声した。そして次々に学生の名前を読み上げ、後半の方で僕と目が合った。
「メグロくん、ンニィハォゥ」
金縛りに遭ったように固まっていると、教授は次の学生と目を合わせに行ってしまった。まるで順番に魔法をかけているみたいだった。やがて魔法をかけ終わると、教授は背筋をピッと伸ばし、朗々と教科書の例文を読み上げはじめた。そして、一文読み終わって間を取り、突然中国語で早口で何かをまくし立て、「カモン」という手つきをした。それをもう一度繰り返し、察しのいい学生たちが教授のマネをして日本語でない何かをボソボソ発声しだすと、教授は満足げにうなずき、次の例文に移っていった。寺子屋同然の音読暗誦講義が終わると、教授は「ヅァイジェン」と言い残してさっさと出ていった。
教室は騒然となった。初対面の学生の集まりが、早くも課題を共有する集団に変化した。ある者は自習の方法を論じ、ある者は教授への抗議を提案し、ある者は教授への忠誠を表明した。僕は当然、自習を重んじる一番目の学生だった。抵抗は徒労に終わるに違いないし、忠誠は殉死につながると思ったからだ。席の近い者と語らいあって、早速自習のための五人グループができた。そこへ、離れた席から大股で近づいてきて入り込んできたのが片岡だった。「すみません」や「入れてもらえる?」といった一言はあったと思うが、はっきり覚えているのは、ブルドーザーのように堂々と真ん中に陣取って、開口一番「漢字だから簡単だと思ってたのに」と、ばかデカい声で放言したことだ。僕らにも、同じような甘い先入観を持っていた自覚があったのだろう。皆、片岡のその発言を否定するでもなく同意するでもない、曖昧なうなずきでもって応えた。僕は内心ニヤリとしていた。
六人組となった僕たちは、簡単に自己紹介をした。僕は、簡潔かつ無難に「目黒遼一です。勉強も遊びも頑張りたいです」とだけ言った。片岡は、自分の番が来ると五人の視線を十分に味わうように間をおいてから、「片岡悠です」と名乗った。続けて、やや長ったらしく何事かを述べたあと、胸を張って「麻雀が得意なのでけっこう中国語知ってます」という微妙なジョークで締めた。
がちゃがちゃした喋りを聞いている最中、僕は初めて片岡が身に着けているのがブランドものばかりだということに気がついた。カバンがオロビアンコでシャツがアルマーニだということは僕でも見れば分かる。靴も高そうだし、たぶん全身がそうなのだろう。そしてとにかく、声がデカい。見たところ、五人の聴衆のうち一人はあからさまに顔をしかめてうるさそうにしていたし、一人は苦笑いを浮かべていたし、一人は片岡のテンションに引っ張られて楽しそうであり、もう一人は片岡と同類という感じで、共鳴していた。僕は、まあ苦笑い寄りの反応をしていたと思う。
片岡は「自分は内部進学だ」と言った。付属高校からそのままエスカレーター式に大学に進学してきたということだ。僕たちの大学は、一応名門大学と言って差し支えない。順調に学業を修め、ほどほどの学外活動をこなして社会性があることを証明すれば、有名企業に就職できる確率はかなり高い。なんだかんだ言っても、この種の勝ち組ルートを目指すのが合理的だと判断して、僕は一生懸命努力し、受験勉強を乗り越えてきた。ところが、この名門大学の入学チケットは一部でダンピングされている。それが内部進学というやつだ。
翌週も、中国語のクラスで形成された小グループは、「勉強会」と称して自主的に集まった。自習するにはこの本を使うといいだとか、期末試験の問題はこういう形式らしいとか、有益な情報交換に僕は満足した。あいつは来ないのだろうかと目をやると、片岡は、別の仲間と談笑しながら教室を出て行った。
もっとも、その週末には、僕たちは別の場所で顔を合わせることになった。




