話が通じない人間
自分を殺しに来た人間に向かって「話せば分かる」という言葉を発したのは、時の首相・犬養毅だ。理性的で篤実な人柄が表れているエピソードだと思う。しかし、その「理性」に対して返ってきたのは、「問答無用」の一言と二発の銃弾だった。
何を言っても通じない人間はいる。そもそも半分くらいの人間は、データや理論を説明されても理解できないし、理解しようとする意思もない。それでも、権威に従ったり、周りに流されたりして生きているのであれば、そういう連中が多数派でも社会に害はない。しかし困ったことに、話が通じない人間がいつも大人しくしているとは限らない。
――こいつもその種の人間なのだ。
僕は、片岡の彫りの深い顔から目をそらすと、冷え切っていたカフェインレスコーヒーのカップに手を伸ばした。片岡の喋りは、ますます熱を帯びてきていた。
「ほら! この動画見ろよ」
ポケットからスマホを取り出し、片岡は興奮気味にみんなに向かって画面を掲げている。
「人類が月に行ったってのは嘘なんだってば! 月面着陸の写真は捏造なんだよ」
しばらく沈黙が流れ、自分のスマホばかりを見ていたはずの奴が反応する。
「なんで捏造なんてするわけ?」
「それは、アメリカが当時ソ連に対抗して……」
片岡が熱っぽく解説し始めた。話を広げやがってと内心毒づきながら、僕はテーブルの上に置いていた自分のスマホに触れた。三限が休講になったから、次の授業が始まるまでにはだいぶ時間がある。時間をもてあました学生が僕らのほかにもたくさんいるのか、学食は昼過ぎになってもざわざわしていて、話し声に満ちていた。それにもかかわらず、片岡の声は、端に座っている僕の耳にも否応なく届けられる。
質問した張本人は、「ふ~ん」という気の抜けた風船のような返事を返す。自分から聞いておいてなぜそんな説明で納得できてしまうのか、僕にはまるで理解ができない。納得どうこうではなく、本当はどうでもいいと思っているのかもしれない。
片岡の方は、質問者の反応などお構いなしという感じで喋り続けている。もはやいかなる疑問も質問も差し挟ませない勢いで、その声は、しまいには怒鳴り声に近くなった。
僕はとうとう聞くに堪えなくなり、イヤホンをして音楽アプリを立ち上げた。曲名も見ずに再生ボタンを押して、静かに目を閉じる。
いつからだろう。片岡が嬉々としてこんな話ばかりするようになったのは。




