5-3 恵の訴え
呼び鈴を押して、しばらくしてから出てきた先生は、わたしたちの顔を見ると驚いたように目と口を開いた。
「どうしたの。二人とも」
ちょっとお酒臭い。頬もほんのりあかい。また、お酒を飲んでいたんだ。こんな昼間から。
「忘れ物をしたんです。入ってもいいですか」
わたしは硬い声で言うと、気圧されたように身を引く先生と一緒に玄関の中に入った。
午前中はきれいだったリビングは、もう散らかっていた。床にはお菓子の袋やら、脱ぎ捨てられたカーディガンやら、ティッシュやらが散乱し、さっきまでわたしと公明がついていたローテーブルの上には、三本も四本もビールの缶が転がっている。そのテーブルの前の壁に立てかけられてあるのは、あの絵だ。よく見れば、新しいひっかき傷が小さくついていた。
また、わたしの腹に怒りがわいた。
「こんなもの」
わたしは絵をつかんで、それを床にたたきつけようと頭上に振りかざす。
「やめて。何をするの」
先生が慌ててわたしをつかまえ、その行動を制する。公明が駆け寄ってわたしの手から絵を奪い取り、床に戻した。
わたしは先生の手を振り払うと、彼女に向かい合って、彼女と絵を交互ににらみつけた。
「どうして。どうしてこんな絵をかばうの。これはもう高志さんの絵ではない。炭沼の兄が塗りつけた、ただの汚い絵の具の固まりじゃない」
先生はとても悲しそうに目を細める。それはわたしをたしなめているようでもあり、先生自身の内なる何かに耐えているようでもあった。時には理不尽にも耐えなければならない、大人の苦悩を秘めた目。しかしわたしは言葉を収めることができなかった。
「これは大人の問題だって言うの。子供は口を出すな。黙っていろって。でも、黙ってなんかいられないよ。納得なんてできないよ。こんな先生。見ていられないよ」
先生は何も言い返さない。ただわたしの前に突っ立って、傷ついた顔をして、それでもしっかり顔を上げ、わたしを見つめている。
「先生はそうやってすべてわかってるみたいな大人の顔をして、何でもないような顔して」
わたしは震える手で絵を指さす。ああ、今わたしはひどいことを言っている。先生がなんとも思っていないわけないのに。でも、言うのを止められない。
「こんなことでも受け入れられるっていうの。我慢して時が過ぎれば大丈夫だっていうの。我慢して、あきらめて、ただ失って……。それが大人だとしたら……」
知佳子先生ごめんなさい。わたしの目からは、涙がこぼれてきた。気持ちが高ぶって声が震える。
「そんなのが大人なら、わたしたちの未来って、何なの。そんなに希望のないもののためにわたしたちは頑張っているの。それを教えるのが、あなたの仕事だったの」
それ以上言葉をつなげることはできなかった。嗚咽がこみ上げるのと、公明がわたしを抱きとめるのとは同時だった。
「先生。どうか恵を怒らないでやってください」
公明は、わたしをかばうように抱きながら言う。見ると、知佳子先生は目を伏せ、唇をかみ、手を震わせている。怒っているというよりは、ただただ哀しみに耐えるように。
「私だって……」
言いかけてため息をつき、
「もう、帰って」
「いいえ。帰れません。お伝えしたいことが、あるから」
驚いて顔を上げる先生に、公明はつづけた。
「さっき、高志さんのアパートに行ってきたんです。先生のお気持ちと言葉を伝えられたらいいなと思って。でも、伝えられませんでした。彼はもう、この街を去ってしまっていたから。東京へと、越していってしまったそうです」
その言葉で、知佳子先生が大きな衝撃を受けたことが分かった。先生は、今まで見たこともないほどに顔を蒼白にしていた。まるで銃で撃たれたかのように全身を硬直させ、大きく見開いた目の中で、うるんだ瞳はただおろおろと虚空を見つめるばかりだった。
「先生は、それでいいのですか。正直、生意気かもしれませんが、今の先生は見るに堪えません」
「どうしろって……、いうの」
先生がようやくかすれた声を出した。
「この絵を壊せと。それがどういう意味か分かるの。そんなことしたら、私は、この街にいられなくなってしまう」
沈黙が、部屋の中に流れた。先生は生まれ育ったこの街をとても愛していた。だからこの絵を描く企画も考えたのだ。わたしも公明もそれはよく知っている。そして先生がいなくなってしまえば、わたしたちもまたとても寂しい思いをすることになるだろうことも。でも……。
でも、わたしは気づいていた。それはきっと公明も先生も、すでに気づいていることのはず。今はもう、三人とも、過去とは違う思いを持っている。
公明はおもむろに口を開くと、短い一言を発した。
「その、所を得る」
それを聞いた瞬間、知佳子先生がはっと息をのむ。
「先生は僕に教えてくれました。子産の鯉の話。あなたも、あなたにふさわしい場所を見つけてそこへゆくのよ、って。あの時の先生の優しい声も、柔らかくて穏やかな表情もとてもよく覚えています。今、その言葉を、先生にお返しします。先生にふさわしい場所は、どこですか」
先生はうつむくと、両手で顔を覆った。しばらくそうしていたが、やがて、手で顔を隠したまま、
「ごめん。二人とも、ちょっと部屋の外にいてくれるかな……。格好悪いところを見せたくないから」
公明は一礼して部屋から出、彼に連れられて、わたしもリビングから退出した。
扉を閉めると、静寂があたりを支配する。まだ夕方というほどの時間ではないが、秋の午後はもう日暮れ時の風情だ。玄関のすりガラスが、物憂げな黄色い光を無数に瞬かせている。どこかで、鳥がさえずっている。草むらで虫がささやいているのが、かすかにきこえる。
ふいに、部屋の中から、はじけるように泣き声があがった。今まで溜めていたものをすべて放出するような、そして純粋な、まるで子供のそれのようなむき出しの泣き声。しかしいろんな感情のこもった、とても悲しくて切ない、それは泣き声だった。
泣き声のはざ間から、布の破ける音、木の裂ける音、硬いものが床に打ち付けられる音が聞こえた。
「ごめんなさい高志さん。ごめんなさい」
知佳子先生が、鼻をすすりながら謝っている。
「私、本当は怖かったの。町長の家を訪ねたとき、とても怖かったの」
また布の破ける音。
「怖くて……、逆らえなかった。本当は守らなければならなかったのに。絵を……あなたが創ったこの絵を、何としても守らなければいけなかったのに」
木の枠が床にたたきつけられる音。
「守れなかった。私が臆病だから。私が、自分が襲われることを、自分が街にいられなくなることを恐れたから。自分だけを守ろうとしてしまったから。本当に守らなければならないのは、あなたと、あなたの絵だったのに」
そしてふいに音も声も途切れて、沈黙が訪れた。
「ごめんなさい先生。もう、泣かないで」
わたしは耐えきれなくなって扉を開け、リビングへと駆け込んだ。
知佳子先生は泣きやんでいた。ただ、ばらばらになった絵の前にひざまずいて、窓の外を見上げている。どこか遠くに向けられた、まだ涙の宿るその目の表情は、まるで凪いだ湖のように静かだ。開け放した窓から涼しい風が舞い込む。白い薄手のカーテンが、差し込む黄色の光を散らしながら、知佳子先生の頭上を手を差し伸べるように舞っていった。




