5-2 公明の決意
街はずれの小さな平屋。そこに知佳子先生は独りで暮らしている。
喫茶店「すずらん」で話し合った翌日、俺は恵と連れだって、その先生の家を訪れた。
呼び鈴を三度押したが、応答はない。
先生の具合は相当悪いのだろうか。まだ、誰とも会いたくないのだろうか。
でもすぐに帰る気になれなくてしばらく待っていると、こぎれいな白色の扉がきしんだ音を立てて、わずかに開いた。
細い隙間に垣間見えたのは紛れもなく、なつかしい先生の顔だった。
先生はあくびをしながらだるそうな、半開きの目をしばたたかせる。顔は俺たちの方を向いているが、おそらく視線はその下半身しかとらえていないだろう。着ているのは部屋着だろうか、大きめのTシャツはよれよれで、髪も乱れていた。
「どちら様ですか」
そういって目をこする彼女は、眼鏡をかけていない。どうやら、眠気と近視で、ここにいるのが俺たちであることをまだ認識できていないようだ。
酒臭い。かなりきつめの彼女の息に耐えながら、俺は思い切って声をかけた。
「先生。俺たちです」
すると、眠たげだった先生の目が瞬く間に見開かれた。
「守口君……。岩崎さん……」
俺たちの名を口ずさむと同時に頬を真っ赤に染め、彼女は慌てた様子で扉を閉めてしまった。
「先生開けて。お話きかせてください。私たち、先生のお役に……」
恵が扉に縋りついて訴える。お願い出てきて。閉じこもらないで。私たちにあなたをたすけさせて。もし私たちにできることがあるのなら……。
やがて先生は扉の向こうから返事をしてくれた。
「ごめんなさい。今日は散らかっているから。明日……。明日、また来てくれるかな」
恵は目をこすり、小さくうなずいて扉から離れた。彼女には分ったようだ。そして俺にも容易に想像できる。きっと先生は扉に背を預けて、眠気と酔いと驚きと闘いながら、動悸を一生懸命しずめながら、やっとのことでそう言ってくれたのだろう。
(また明日。約束ですよ)
そう心の中で語り掛けて、俺たちは先生の家を後にした。
帰り際、庭の生け垣の隙間から、先生の姿をちらりと見ることができた。ビールの缶がいくつも散乱する縁側に、膝を立てて座り、彼女はぼんやりと空を見上げていた。寂しそうに。何かをあきらめたかのような瞳で。
翌日は小春日和の土曜日だった。午前中に再び訪れた俺たちを、先生は今度はちゃんと家に招き入れてくれた。
「昨日は、恥ずかしいところを見せちゃったね」
細いスタイルのパンツをはき、水色のワイシャツの上にカーディガンを羽織った先生は、またかすかに頬を赤くして視線を斜め下に流した。今日は部屋の中は整理してあるようだ。通されたリビングキッチンの床にもローテーブルの上にも何も落ちていない。きっと昨日は、そこに幾本ものビール缶や酒の瓶が転がっていたことだろう。
「久しぶりね。二人とも。さあ座って」
「お久しぶりです」
「おひさし……、ぶりです」
短い挨拶をかわすと、沈黙が室内を支配した。なんとなく何も言ってはいけない雰囲気が流れる。先生はうつむいて黙ってしまうし、敷いてあった座布団の上に正座した恵も俺も、なかなか言葉を発することができない。
「ごめん。今お茶を入れるね」
気を取り直したふうに先生がようやく顔を上げ、キッチンに向かう。ポットを出して、水を入れ、それをコンロの上にのせて……。火をつけようとしたところで、しかし突然彼女の手は止まった。
先生はコンロと向き合ったまま、口に手を当ててうつむき、背を震わせていた。鼻をすする音が聞こえる。俺たちに背を向けているが、彼女が泣いているのはすぐに分かった。
「ごめんね……。お茶は、きらしてるんだったわ」
お茶の粉ならキッチンのわきの棚においてあるのが見える。でも、言えなかった。きっとそういうことではないと思ったから。何かつらい記憶を、お茶で思い出したのに違いない。
無理しなくていいよ、先生。そう言いかけて、俺は口をつぐんだ。このまま帰ってしまいたくなった。これから自分たちが言おうとしていることは、もっと先生の気持ちをえぐってしまうかもしれなかったから。
あの絵を見せてほしい。
それを言うために、俺たちは今日ここに来た。絵を修復できるなら、それを手伝おうと思ったのだ。でも、その要求は、どれほど今の先生を傷つけてしまうだろう。
横を見ると、恵はさっきからこぶしを握り締めてうつむいている。彼女はきっと言えない。彼女は、優しすぎるから。
俺は意を決して、背筋を伸ばし先生に声をかけた。
「あの、先生」
「なあに」
先生は眼をこすって振り向き、気弱そうな笑みを浮かべる。その眼尻に残る涙のきらめきを見つめながら、俺は大きく深呼吸して、そして言った。
「絵を……。あの絵を。見せていただけますか」
先生の表情から徐々に笑みが消えてゆく。そして彼女は、苦痛に耐えるように目を細めた。
「絵を……。どうして」
「炭沼から聞き出したんです。あいつらがきっと先生の絵にひどいことしたんだろうなと思って。もし直せるのなら、俺たちお手伝いしたいって、そう思って、今日ここに伺ったんです」
先生は困ったように眉をひそませ、また視線を斜め下に流す。しばらくそうやって何かを考えている様子だったが、やがてその表情のまま小さくため息をはいた。
「あの絵は……、もう、ないわ」
そう言って、部屋から出ていった。
「ない。と、言いたいけれど。でも、駅でのイベントが終わった後、あいつらがご丁寧に返してくれた」
もどってきた先生が抱えていたキャンバスは、俺にも覚えのある大きさのものだった。しかし俺たちの前に立てかけられたそこに描かれていたものは、まったく知らない絵だった。
「これが、本当に、あの絵なんですか」
「そう……。あの絵」
にわかに信じることはできなかった。
色も、光も、雰囲気も違う。構図だけが何となく似ている、しかしまったく別の絵だ。夏の終わりのあの日、俺たちが「すずらん」で見せてもらったあの絵の輝きはもう、そこにはなかった。哀しみを内包しつつもきらきらと、どこまでも未来の希望にあふれたあの美しい絵の面影は、みじんも残されてはいなかった。
修復なんてまったく不可能だ。よく見ると、ところどころひっかいた跡がある。それでも何とか下の絵を取り戻そうと、先生が悪戦苦闘した形跡だろうか。先生は知っているのだ。もう、どうしようもないことを。
「もう、いいの。しょうがないの」
唖然としている俺と恵に、知佳子先生はため息をつきながら言った。あきらめたような、寂し気な笑みをその口元に浮かべながら。
「高志……。高志さんは」
思わず俺は問うた。本当はきいてはいけなかったかもしれないけれど、衝撃が、その問いを制することを妨げた。
「出て、いっちゃった」
そして知佳子先生は、ゆれる瞳を隠そうとするかのように目を伏せた。目の下の頬が、プルプルと震えている。
「きっともう、会ってはくれないわ。とても怒らせてしまったから。あわせる顔もない。でも、最後に一言だけ伝えたかった。ごめんなさい。って」
さっきから耐えるようにうつむいていた恵がようやく口を開いた。
「それで、いいんですか。先生は」
挑むように見つめる彼女をなだめるように、先生は口元だけほころばす。
「だって。どうしろっていうの」
その眉には苦悩が、瞳にはあきらめが、口元には生徒に対する慈愛が、現れている。
「大人の世界にはね、理不尽なことが山ほどあるのよ。それを時には受け入れ、口惜しさを飲み込んでいかなければ、生きていくことはできないの」
恵も俺も、何も言い返せなかった。自分たちは子供で、大人のことは何もわからなかったから。先生がそれでいいというのなら、それしかないのだろう。ただ、納得できないという気持ちだけが、しこりとなって胸に残った。
退出する俺たちを玄関の外まで送ってくれた先生は、恵と俺の手を交互に、何度も握った。
今日は来てくれてありがとう。二人に気にかけてもらってうれしかった。
先生は一生懸命笑顔をつくりながらそう言って、俺たちを送り出してくれた。しばらく行って振り返ると、先生はまだ玄関の前にいて、手を振ってくれていた。
そのまま帰る気持ちにはなれなくて、俺たちは高志さんのアパートに足を向けた。
もし、高志さんが先生のことを誤解して怒っているのなら、せめてその誤解を解いてあげよう。それができなかったとしても、先生の気持ちを、ごめんなさいという言葉を、伝えよう。
絵はもう取り返しはつかないけれど、二人の仲はまだ何とかなるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて、俺と恵は街中の古い建物の門をくぐった。
高志さんの部屋は、一度だけ教えてもらってその前まで来たことがある。二階の街路に面した部屋。そこに様々な大きさのキャンバスや絵の具やバケツや、俺にはわからないいろいろな道具が乱雑におかれていた。
部屋の扉は閉まっていた。ドアについている郵便受けには、太いテープで封がしてあった。
「そこは空き部屋だよ」
背後から声がして振り向くと、アパートの管理人のおじいさんが箒をかついで立っていた。これから掃除をするんだ。見ていくかい。そう言って彼がカギを開けた、そのあとについて俺は部屋の中をのぞいた。
部屋の中は空っぽだった。あの雑然と積み重なっていた道具の数々は全く消え去り、ただ虚ろなほどにシンプルで何もない四角の空間に、ただ眠たげな秋の日差しが差し込んでいる。
「あの……、ここに前、住んでいた人は」
恵が遠慮がちに問うと、管理人さんは箒を動かす手を休めて、遠い目をした。
「ああ。あの人は、出て行ったよ。ひどく傷ついた、思い悩んだ顔をしていたな。最近はとても穏やかな顔をしていたが、それだけにあの落ち込みようは見ていてこちらも心が痛んだのう」
「どちらに、越したのでしょう」
さらなる恵の問いに、彼は顎をさすりながら、
「さて……東京にゆく、とか言っていたが、どうかのう」
そして閉まっていた窓を開けた。白い薄手のカーテンが、吹き込む風と一緒に、小春日の光の散る部屋の中を舞った。
外の街の景色を見つめながら、おじいさんは言う。彼は風のようにやってきて、風のように去っていった。風を捕まえるのは、難しいぞ。
管理人さんに礼を言ってアパートを辞した後、俺たちは「すずらん」に向かった。
今日もこの喫茶店は閑散としている。俺と恵はいつもの壁際の席ではなく、窓際の席についた。先生と高志さんがいつもいた、奥の窓際のテーブルだ。柔らかな陽光がねむたげに注ぐ席。テーブルの花瓶や砂糖を入れたガラス容器が、あの日と同じようにキラキラと輝いている。なんだかまだ二人の笑い声が聞こえてきそうで、しかしそこにはどんなに目を凝らしても、彼らの姿を見つけることはできない。
陶器がかすかに触れ合う音が鳴り、俺と恵の目の前に、コーヒーのカップが静かな動作で置かれた。振り向くと、恵のお父さんが目をしばたたかせながら立っていた。
「あの二人が戻ってきたのかと、錯覚しちゃってね。思わずいつもの特性コーヒーを淹れたんだ」
そう、ぼそぼそと言う彼の髭面は、ほほ笑んでいるようにも見え、泣いているようにも見える。その表情を隠すように背を向けた彼は、
「寂しくなったね」
そうつぶやいてカウンターへと戻っていった。
俺は恵と同時にカップを手に取り、それに口をつける。コクがあって、ちょっと苦くて……。その茶褐色の液体は、胸の中を滴り落ちてゆくほどに、寂しさと切なさを掻き立てて……。
ふと、俺の胸に怒りの感情がともった。それは瞬く間に体内に広がり、猛然と、俺の心をゆさぶった。それは、知佳子先生に対する怒りであり、高志さんに対する怒りでもあった。あるいは無力な自分たちに対するものであった。それらに対し、俺はどうしようもなく腹が立った。猛然と腹が立って、どうしようもなかった。
「もう一度先生の家に行こう。俺は、あの人にどうしても伝えたいことがあるんだ」
そういって、俺は立ち上がる。恵も思うところがあったのだろう。彼女も強くうなずいて、俺を追い越す勢いで「すずらん」の扉を開いた。




