5-4 恵の願い
十一月。
休職中だった新田知佳子先生は、辞表を学校に提出した。
久しぶりに学校にやってきた先生の周囲には彼女を慕う生徒たちが駆け寄り、泣きながら別れを惜しんだ。
先生が辞めた後も、わたしと公明と、彼女の交流は続いた。わたしたちは休日になると先生の家を訪れ、勉強を教えてもらったり、家の掃除を手伝ったりした。
新年のお祝いも先生の家でやった。もちろんわたしと公明と、知佳子先生。この三人で。まるで自宅のようにこたつに入ってくつろぐわたしたちに、先生はごちそうを作ってくれようとして、それがうまくいかなくて、大騒ぎになった。結局料理はできなくて、でも、キッチンに鎮座する焦げた鍋を指しながら照れたように舌を出す先生は、以前と同じように可愛かった。唯一作ることのできたのは、卵焼きだけ。砂糖入れすぎの、その卵焼きは甘くておいしかった。ちょっと卵の殻が入っていて、歯ごたえがあったけど。なぜか公明は気味悪がって食べなかったので、それは先生とわたしの二人で平らげた。
三学期になってからは受験勉強の傍ら、先生の引越しの手伝いもした。先生は整理がよほど下手なようで、彼女一人だけだと何も進まず、結局ほとんどわたしと公明の二人でやってしまうことになったのだけど。
そう。彼女もまた東京に移住することにしたのだ。引っ越し先は東京のM市。管理人さんが教えてくれた、高志さんの書き残した彼の移住先だ。小さな自治体だが、芸術活動に力を入れており、大きな美術館もある。そこに行けば、ひょっとしたら……。
そして、春……。
高原の街にはまだところどころに雪が残っている。しかし、日差しは柔らかく、つぼみの膨らみ始めた木々の枝にも、数カ月ぶりに顔を見せた土の地面にも、街の辻々を吹き抜けてゆく風にも、日に日に膨らんでゆく春の予感が匂う。
駅のホームに立つと、わたしは大きく深呼吸をした。
春の香りを運んでくる南風が気持ちいい。東京はきっと今、桜の花が満開に咲いているんだろうな。都会の、花盛りのあたたかい宵を想像して、わたしの胸はうきうきとする。
「あの……。恵先輩」
柱の陰から姿を現した男の子が、おずおずと一枚の封筒を差し出した。この子は一年の……、誰だったろうか。
「これ……。その、読んでください」
わたしはそれを受け取ると、困ったように微笑んだ。銀ぶちの、オーバル型の眼鏡を人差し指で押し上げる。
「ありがとう。でも、わたし、彼氏いるよ」
男の子は頬を赤くして、
「僕の一方的な気持ちだから……。いいんです。東京でも、頑張ってください」
一生懸命そう言い切ると、一礼して駆け去っていった。
首をかしげて男の子を見送るわたしの背後で、はやすような口笛の音が鳴る。
振り返ると、そこには知佳子先生の姿があった。
「知佳子先生!」
思わず頬をほころばせてすり寄るわたしに、先生も晴れやかな笑みを返してくれる。
「どうしたの。モテモテじゃない。先に東京に行った守口君も、おちおちしていられないなあ」
「これの、おかげですかね」
そしてまた、わたしは新しい眼鏡を、人差し指で押し上げてみせた。ちょっとレトロな雰囲気の、お洒落な銀ぶち眼鏡。受験後に公明が選んでくれたものだ。
牛乳瓶の底のような眼鏡をやめて、新しいのをかけるようになってから、ちょっとしたモテ期がわたしに訪れていた。この一カ月で、告白された回数は三回。もちろんみんな彼氏がいるからと断ったが。男の人は皆、今までことごとくわたしの前を素通りするばかりだったのに、その一部が立ち止まってくれるようになったのは不思議なことだ。眼鏡をかえただけだというのに。でも、そんなものかもしれない。
知佳子先生は得意げに白い歯を見せるわたしの肩に手を置いて、またふわりとほほ笑んだ。
「いよいよ出発ね。守口君も待っているわ。頑張ろうね。将来お父さんに孝行してあげるためにも」
うなずいてわたしはちょっと後ろを振り返る。駅舎の前の目立たないところに、ひげ面の父が立っている。とても無理だと思っていた学費も生活費も出してくれると彼が言ったときは本当に驚いた。実は会社員時代にためたお金と、投資で稼いだお金がかなりあるということを知って、もっと驚いた。あの喫茶店を維持できていたのはそのためだ。ただコーヒーを淹れているだけの人ではなかったのだ。好きなことをするためにはお金がいるし、そのための力がいるということも教えられた気がする。そして、今そんな父にとても感謝している。
もちろん父がお金を出してくれるからといって、都会で贅沢はするまいと、わたしは考えている。学校の勉強はもちろんする。そして、バイトもしよう。大丈夫、頑張れる。公明がいるし、知佳子先生だって……。
「先生も、はやく来てくださいね」
「ええ、ここの桜が咲くのを見届けてから。そのころはもう、東京は暖かくなっているんだろうな」
そして先生は遠く山の方を見はるかして目を細めた。肩の高さで切りそろえたショートボブの髪が風になびく。その周囲を薄桃色の花びらが舞っていったような気がして、わたしははっと目を見開いた。
わたしは知佳子先生に縋りつくようにして彼女の顔を見上げる。
「先生は、向こうに行っても、先生をやるんだよね」
先生は、わたしの目をしっかり見て、ゆっくりとうなずく。
「もちろん。やっとつかみかけていたところだもの。とりあえず臨時教員としてある私立校に採ってもらったわ。そしてまた勉強して、都の教員採用試験に挑むつもり」
そしてにっこりとする。
「私も頑張らなくちゃ。むこうでも、また会おうね」
「きっとよ」
わたしは目をこすりながらも、知佳子先生の今の表情をしっかり見ておこうと、顔を上げた。しかし視界が濡れてゆがんでゆく。あれ、おかしいな。泣かないでおこうって決めていたのに。なのに、目の奥が熱くなって、あふれてくるものを抑えることができない。
涙を見せまいと、わたしはきつく目を閉じる。春の光を受けて暖かい暗闇を見つめながら、しかしわたしは思う。しょうがないよ。だって、うれしいのだもの。知佳子先生が、教師を続けようとしていることが、うれしくてうれしくてしょうがないのだもの。
わたしは目を再び開けると、思わず知佳子先生に抱きついた。その肩に涙を擦り付けるようにして、わたしは強く先生の体にしがみつく。
「先生。大好きだからね」
わたしの頭に先生の温かい手の感触があった。うん。私もよ。甘く柔らかな声が耳元でささやく。
知佳子先生が優しくわたしの頭をなでてくれている。その感触が自分の胸に雫となって落ち、そして体中に喜びがたちまち広がってゆくのを、わたしは感じていた。
汽笛が、鳴った。
もう、出発の時間だ。わたしは父に促され、彼と一緒に汽車に乗り込んだ。
席について外に目をやると、知佳子先生が、窓のすぐ傍で小さく手を振ってくれていた。
わたしは窓から身を乗り出す。
知佳子先生は、胸の高さで手を振りながら、心からわたしを慈しむように目を細めた。
汽車がゆっくりと動き出す。先生はそれについてきてくれる。両手をメガホンのようにして口元にあて、彼女は叫んだ。
「今までありがとう。これからも、一緒に頑張ろうね」
汽車の速度が速くなる。ついてこれなくなった先生は立ち止まり、そして今度は腕を高くあげて大きく振ってくれた。その姿がどんどん遠ざかってゆく。わたしもそれに、一生懸命手を振って応えた。わたしこそ、ありがとうございました。また、会いましょう。そう叫びながら。
ホームが木々の陰にかくれ、先生の姿が全く見えなくなると、しんみりとした寂しさが全身を覆い、わたしはどうしようもなく泣きたくなった。ようやく席に座ってうつむくわたしに、父が声をかけてくれる。
「ほら、商店街や、学校が見えるよ」
その時初めて、わたしは流れ去ってゆく街の風景に目をやった。
ふとわたしの脳裏によみがえる。半年前、あの商店街の道を公明と手をつないで歩きながら、思ったものだ。この幸せな瞬間が永遠に続けばいい。このまま時間が止まってしまえばいいのに、と。
でも、今は違う。わたしは顔を上げて、遠ざかってゆく街を見つめながら強く思う。わたしは、わたしの明日を見たい。明日の、一年後の、十年後の自分を見てみたい。そして同じ強さで思うのだ。公明の明日も、先生の明日も、わたしは楽しみでしょうがない。その未来を一緒に歩んでいきたい。と。その先のわたしたちはきっと、半年前よりも、今よりも、もっと幸せに違いない。
泣くのはとりあえず今日で終わり。街の姿も完全に見えなくなると、目もとを指でぬぐいながら、わたしは前を向いた。頬に、窓から差し込んだ柔らかな陽光があたる。目を細めた先で、初めて見る林の木々が、無数の葉をきらめかせながらさざめきゆれていた。




