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4-1 高志の願い

 鼻歌を歌いながら勢いよく扉を開けると、頭上で鈴がチリンと軽やかに鳴り、差し込んだ光がカウンター上のグラスをきらめかせた。

「やあ、今日ははやいんだね」

 カウンターの中で暇そうに雑誌を読んでいたマスターが顔をあげて言う。その髭面に笑みを返しながら、若草高志は歌うような口調で答えた。

「ええ。今日は、特別な日ですから」

 そして小脇に抱えていた鞄をいとおしむようになでる。

 これは、先週知佳子先生の誕生日に渡すことのできなかった、彼女へのプレゼントだ。彼女のために描いた、一枚の絵。これを渡すことを考えて、この日を待ちわびていた。今日はいてもたってもいられずに、ついいつもよりずいぶん早く来てしまった。でも、早くたって構わないと、彼は思う。彼女とたくさんの時間を過ごしたこの喫茶店にいることは、それだけでもう、彼を幸せな気持ちにしてくれるから。それにきっと、今日も彼女はちゃんとここへ来てくれるだろうから。


 高志はいつもの奥の窓際の席に腰を下ろし、木組みの天井を見上げながら先週の木曜の出来事を思い返した。クラッカーの音に驚いた知佳子先生。ケーキをほおばりながら泣き出した知佳子先生。生徒の書いたストーリーを読みながら、やっぱり泣いた、知佳子先生……。一緒に星空を見上げながら自分の考えたストーリーの続きを語ってくれた、あの晴れ晴れとした声。


 大丈夫だ。と高志は思う。

 本当は彼女のことが心配だった。あの二人の生徒から、学校での事件と噂について聞いていたから。学校を休職したということも。

 何とかしなければ。そう思っても、自分にできることなど何もなかった。その無力感と焦りを、彼女と逢えない時間にさんざんかみしめ、そして彼は嫌というほど思い知らされた。どれだけ自分が、彼女を必要としていたかということを。

(だから……)

 あの日の別れ際、彼女に手を振りながら、高志は決心したのだった。立ち直りかけた彼女の笑顔を見つめながら。でもふとすれば崩れてしまいそうな、頼りないその姿を眺めながら。

 彼女のその笑顔を守りたい。そのために……。


 衣擦れの音と食器の合わさるつつましい金属音がして、高志はおもむろに視線を下げる。無言でコーヒーをテーブルに置いたマスターが、目だけで笑いかけて、足音もたてずにカウンターへ戻っていく。

 コーヒーカップを口もとに近づけ息を吹きかけると、湯気の形が一瞬、知佳子先生の髪のようになびいた。高志はカップを持ったまま、その湯気に優しく語り掛ける。


 だから、今日、僕は一つの決心をしているんだ。


 このプレゼントを君に渡す。そして、一緒にメッセージを送るんだ。心からの、君への想いを込めて。




 秋の柔らかな日差しが、テーブルの上に物憂げに注いでいる。砂糖を入れたガラスケースや小さな花瓶が、まるで宝石でできているかのようにいろんな色の光を瞬かせる。薄暗い天井から流れてくるのは、飽きるほど聴いたピアノのBGM。それに耳を傾けながら往来に目を向け、高志は何度目かの小さな吐息をつく。今日は珍しく、いつもは閑散とした駅前通りを、何人もの人が通り過ぎていく。しかしそこに知佳子先生の姿を見出すことができない。

 この席に座ってから三時間がたった。待ち合わせの時間は一時間過ぎている。知佳子先生は遅刻の常習犯だが、今日はちょっと遅すぎはしないだろうか。


 読んでいた文庫本を閉じた高志は、水を足しに来たマスターに話しかけた。

「今日はずいぶん、通りがにぎやかですねえ」

「この店は相変わらずですけどね」

 そう言って彼は、苦笑しながら静かな店内を見渡す。木の柱やテーブルや椅子の上に、窓から差し込んだ光の幕が下りている。窓辺におかれた用途不明のガラスケースが、白い瞬きを散らす。木組みの天井の一部に、反射した光が物憂げな輪を浮かべている。ときどきかすれながらも流れ続けるピアノのBGMが、その空間の侘びしさを一層引き立たせる。

 突然チリンと鈴の音が鳴って、ためらいがちな速度で扉が動いた。

 高志とマスターが同時に扉の方を向く。

 知佳子先生ではなかった。見知らぬ若い二人組の女の人だ。これは珍しい。そう言いたそうに高志に目配せして、マスターは彼女たちに歩み寄っていった。


「ねえねえ。あの絵、素敵だったよね」

「町長さんの息子さんって、才能がおありなのね」

 マスターに注文をした二人組はさっそく会話をはじめる。たった二人だけど、もう、そこにいるだけでなんだか賑やかだ。声をひそめているつもりかもしれないが、それは高志にまで筒抜けに伝わってきた。店内の雰囲気にそぐわぬ、高く弾んだ声。訊きたくもないのに勝手に話の内容が入ってくる。

「今日は、何があるんですか」

 コーヒーをテーブルに置きながらマスターがモゴモゴときいている。笑みと媚を含んだ甘ったるい声がそれに答える。

「えー。知らないんですかあ。町長さんの息子さんが街のために絵を描いてくださったらしくて、今日はそのお披露目会なんですよ」

「そう。そこの駅前で」


 コーヒーのお代わりを頼もうとしていた高志は、町長の息子ときいて、あげかけた手であごをつまんでウーンとうなった。そういえば、いつだったか画家仲間からきいたことがある。たしか町長の次男が画家なのだとか。たしか山麓の小都市に住んでいるという話だったが、帰ってきていたのか。

 町長の肉親なら、知佳子先生の活動だって知らないことはないだろうに……。

 窓の外に目を向ければ、相変わらず往来は常にない人の行き来でにぎやかだ。その様子に漠然とした不快感と不安を覚えた高志は、コーヒーのお代わりをやめて立ち上がった。

 知佳子先生が来たら、マスターに駅に行っていると伝えてもらおう。今は、その町長の息子とやらの腕のほどを見てやろうではないか。そう、半ば挑戦的に思いながら。




 釣り鐘型の窓の並んだ、白壁のまぶしい洋風の小さな建物。それがこの街の駅だ。駅前の広場にはチューリップやコスモスなど季節の花の植えられた花壇が鎮座している。猫の額のような狭い広場。普段は閑散としているのだが、この日はちょっとしたお祭りのようだった。

 楽しそうな表情で行きかう人々。カップル。家族連れ。近所の子供。学生たち……。

 母親に手をひかれた小さな子のもつ風船が、秋風にゆらゆら揺らめいている。青年が、恋人の肩に手をかけて引き寄せる。会話に興じていた女の子の三人組が、嬌声をあげながら笑いだす。

 三軒ほど露店も出ている。食べ物ではない。花屋。雑貨屋。アクセサリー店。


 無数の光の粒をちりばめたアクセサリー店の店先で、高志は思わず足をとめた。黒い布の上に並べられたネックレスやイヤリング、そして指輪たちに目が釘付けになる。

 きっとガラス細工だ。宝石なんかじゃない、安物のアクセサリー。でも……。

 指輪の一つ一つに見入りながら、高志は思う。でも、綺麗だな。これをあの人に贈ったならば、どんな顔をするだろう。あきれるかな。それとも……、ちょっと喜んでくれるかな。もし、喜んでくれるなら、あの澄ました表情が、どんなふうに変わるだろう。

 しばらく屋台の前で悩んで、結局彼は、ひとつの指輪を買った。コバルトブルーの小さなガラス玉の入った、銀の指輪。彼女の雰囲気にぴったりだと思う。

 さあて、先生はもう喫茶店に来ているだろうか。さっさと町長の次男の絵とやらを拝見して「すずらん」に帰ろう。

 鼻歌を歌いながら高志は駅へと足を向けた。


 その絵は、駅の待合室に飾ってあった。そんなに広くないその部屋の中には何人もの見物人がごった返していて、彼らの頭の向こうの壁に、絵を収めた額がかけられている。絵の前には簡易机が設置されていて、その机上にはいろんな絵のポストカードと、A4ほどの大きさの冊子が売られていた。

「いい絵だね」

「素敵」

「さすが炭沼一族」

 などというささやきが方々からきこえる。高志は彼らの間を縫って前に出る。その絵が、彼の目の前に現れる。

 その瞬間、高志の時間が止まり、室内の喧騒が遠のいた。静かになった頭の中で、しかし思考はおもちゃ箱をひっくり返したようになる。

「どうして。こんなことが……」

 高志は一生懸命目の前にあるものを理解しようとする。しかし彼にはどうなっているのかどうしても分からず、ただただその絵の前に立ち尽くしていた。


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