4-2 高志の怒り
「ええーっと。この絵はこの地に伝わる伝説を題材にして描かれたもので、この街の文化と風景を愛する炭沼唐次郎氏の最新作です。いずれポスター化されて東京にも配布される予定で……」
どこかの学芸員だろうか、解説係の女の人の声が喧騒をぬって高志の頭の中に流れ込んでくる。
違う!
高志は唖然と目の前の絵を見上げながら、その声に頭の中で反論する。
違う、違う! これは町長の次男の作品なんかじゃない。坂の街並みを見下ろし、その向こうに山がそびえ、朝日が昇ろうとしている……。これは、僕の作品だ。知佳子先生と毎週額を突き合わせて、議論しあって、二人で完成させた絵じゃないか。
高志は何度も瞬きをし、目をこすり、目をすがめてもう一度よくその絵を眺めてみる。そして自分が勘違いをしていたことに気づく。
それは、彼の作品ではなかった。よく似ているけれど、使われている色彩はまったく別物だ。色の塗り方も。屋根瓦の光沢。人々の表情。光のさし方。山の影……。似ているようで全然違う。よく言えば重厚。悪く言えば……高志にはその印象の方が強かったが……全体的に薄暗くて陰鬱だった。しかし、構図は全く同じで、その絵全体に漂う雰囲気も似ていて。それはまるで、彼の絵が裏に隠れているようで……。
「ちょっと。絵には触れないでください」
女の人に声をかけられるのと同時に、高志はその絵に伸ばしかけていた腕をひっこめ、自分の手のひらにじっと視線を落とした。その手は小刻みに震えている。それを見つめる自分の鼓動が段々と速くなる。女の人に注意されたからじゃない。あることに、直感的に気づいてしまったから。
額の中に入っているから、はじめはわからなかった。しかし、手を近づけてみれば、もうそれを、否定することはできなかった。何十日も休まずに向き合い、何度となく持って運んだその絵のサイズを、そのキャンバスから漂い来る空気を、高志の手の感覚が忘れるわけがなかった。
同じ構図で、しかも同じサイズの絵。まさか……。
そして高志は駅舎から飛び出した。
駅前の街路をぬけ、裏路地の階段を上り、畑と草原と民家の点在する丘の坂道をのぼりながら、彼は何度も何度も、誰に言うでもなくつぶやきつづけた。
まさか、描きかえたっていうのか。僕の絵を。勝手に。
塗り替えちまったていうのか。僕たちが悩んで、苦労して描き上げたものたちを。あんな風に。僕に何の断りもなく。
なんてことをしてくれたんだ。
駆けるうち、そしてつぶやきをつづけるうちに、絵を観た瞬間は麻痺していた高志の心の内に、ようやくふつふつと、怒りの感情が沸き起こった。
なんてことをしやがったんだ!
証拠はない。しかし高志はそれを確信していた。そしてそれを確認するために彼が足を向けたのは、知佳子先生の家だった。
街のはずれの小さな一軒家にたどり着いた高志は、白いドアの脇についた呼び鈴を乱暴に押した。
返事はない。
息を切らしながら二度目を押す。しばらく待って、しかし反応はなかった。
しびれを切らした高志が三度目を押そうとしたとき、ようやく扉の向こうから物音がした。
「どなた?」
「僕だ」
しばらくの沈黙の後、低い軋みをたててドアがゆっくりと開く。中から姿をのぞかせたのは、まぎれもなく知佳子先生だった。少しやつれたように見える。しかし彼女は、背筋を伸ばし、意を決したように口を引き結んで高志を中に招き入れた。
「ちょうど私も、あなたを訪ねようと思っていたの」
「僕たちの、作品は?」
知佳子先生は目を伏せ、
「お茶……、淹れるわね」
そう言って彼に背を向け、キッチンに向かった。
こじんまりとしたリビングキッチン。高志はローテーブルの前に座り、知佳子先生は彼に背を向けたかたちで、火にかけたポットを見つめている。
沈黙が流れる。湯を沸かすガスの音だけが静かに響く。やがて知佳子先生は、ポットに視線を落としたまま、話しはじめた。
「絵を、観てもらったの。町長のお宅に行って。そこには町長の次男もいた。画家なんですって」
中の水に気泡がたちだしたのか、細かく踊るようにポットが音をたてる。
「彼の同席を拒む理由はなかった。町長の肉親だし。それに、私たちではわからないことを、指摘してくれるかもしれないと思ったから。そしたら……」
ポットの中で沸く湯の音が、激しさを増してゆく。
高志の胸の中を、重たいものが転がり落ちていった。わかっていた。それを確信していた。しかしどこかで否定してほしかった。あなたが駅で観た絵は別物。町長の次男が私たちに触発されて描いた、あなたの絵のただのオマージュ。舌を出してそんなことを言ってもらえたらどんなに救われただろう。盗作を発表されるのだってずいぶん悔しいが、よっぽどましだ。自分の絵を塗り替えられてしまうよりは! しかし彼女の言葉は、高志のその一縷の望みをも打ち砕こうとしていた。
「駅に、行ってきたよ」
「私は、そんなつもりじゃなかった。観てもらうだけだと思っていたの。だけど、彼は勝手に、あなたの絵に……、あなたの絵の上に……」
「僕の絵は、永遠に日の目を見ることはないんだね」
知佳子先生の顔を見て落ち着きかけていた高志の心が、ふたたび高ぶっていく。怒りと、哀しさと、やりきれなさと……。いろんな感情がごちゃなぜになって、のどに詰まった。
ポットの口から湯気がたち、細い音が鳴り響く。何かを断ち切るように知佳子先生はコンロのスイッチを切る。彼女は何も答えない。相変わらずローテーブルに背を向け、ただ、そのポットを見下ろしていた。
「なんてことをしてくれたんだ」
高志が怒鳴っても、振り返らない。
「こんな屈辱は初めてだ。こんなに腹が立ったのも、傷ついたのも。そんなに僕の絵が駄目だったというのか」
知佳子先生はわずかに首を振ったように見えたが、何も答えなかった。頭に血が上った高志には、彼女の沈黙は彼の言葉を肯定しているようにしか思えなかった。そうよ。あなたの絵では、駄目だったのよ。
高志は膝の上でこぶしを握り締め、下を向いて唇をかんだ。
「こんなことをするなら何で、僕に絵を描かせ続けた。最初からその町長の次男とやらにやらせればよかったんだ。どうせ僕は下手くそさ。本当は君だって、きっと僕を素人とあなどり、内心その絵の稚拙さを笑い、悪戦苦闘する姿をみて馬鹿にしていたんだろ」
言葉を出すと、止められなくなった。こんなことはきっと、知佳子先生も高志自身も傷つけるだけだと思われたが、しかし彼にはどうしようもなかった。抑えることができなかった。どうしようもなく彼は傷つき腹が立ち、悲しく、そして情けなかった。
「僕は、悔しいよ」
知佳子先生のうなだれた背中は何かに耐えるように震えている。そしてようやく短い言葉を絞り出す。
「お湯……沸いたわ。お茶……淹れるわね……」
「いらない」
高志は言い捨てると、そのまま彼女の家から出ていった。




