3-5 大好きな人たち
時刻はまだ五時前のはずだったが、もう西空には夕方の風情が漂っていた。西にそびえる山肌は黒い影になっていて、商店街の店たちの屋根には茜色の光がまだ照っているものの、路地は薄い闇に沈みつつある。
ぽつぽつと街灯の点りはじめた商店街を、知佳子は緊張しながら歩いていた。
何せ今日は、完成したあの絵を高志さんから引き渡してもらう日なのだ。「すずらん」に行くことをメールで連絡はしておいたが、今日も遅刻。完成した絵を一緒に見てからまだ一週間しかたっていないのが信じられない。あれからいろいろありすぎて、知佳子の頭もちょっと混乱している。一応事情はメールで簡単に説明してあるけれど、きっと彼もびっくりしていることだろう。学校でのことは教えていない。教えたら、きっと心配するだろうから。
相変わらずの、閉まるのが早い街。しかし、駅前のあの喫茶店だけは日暮れ時になってもまだやっていることを、知佳子は知っている。あのオレンジの瓦屋根の下の飾り窓から漏れる光を求めて、彼女は足を速めた。
(あれ? おかしいな)
知佳子が異変に気づいたのは、駅前に出る最後の緩いカーブを抜けた時だ。そこを曲がるとあとは駅まで直線で、そこから「すずらん」の明かりを見ることができる。しかし、今日はその光が、どこにもない。
「すずらん」は休みなのだろうか。それとも、高志さんは来ていないのだろうか。ふと路地の薄闇のような不安が知佳子の胸を押し包む。その不安を振り払うように、彼女は「すずらん」へと向かう歩をますます速めた。
不思議なことに、明かりもなく沈黙した店の扉には、「open」と書かれた木の札がぶら下がっていた。
オープン? クローズドの間違いじゃないの?
そう、首をかしげながら目の前の取っ手に手をかけて押すと、何の抵抗もなくその緑色の木の扉は動いて、店内の闇を彼女に垣間見せた。
さらに押して扉についた鈴をチリンと鳴らし、知佳子は店内に足を踏み入れる。
「あの……。やっていますか」
恐る恐る暗闇の中に声をかけるが返事はない。さらに二三歩踏み込んでみるが、急に周囲の空間が深く感じられて、恐ろしくなる。
「高志さん? いるの?」
すがるように呼び掛ける声が、思わずふるえた。一歩後ずさると床がギシリと鳴り、知佳子は反射的に肩をすくませる。その時、店の奥の方からガサリと音がきこえた。続いてささやき声。
「おい。はやくしろよ」
「ちょっと待って。ライターが……」
そのかすかな声がどこかでききおぼえがあると思ったとき、突然店内が光で満たされた。
眩しさに思わず目をすがめる知佳子の頭上で、破裂音が響き渡る。彼女の視界を、色とりどりの小さな紙片が舞いながら降り落ちてゆく。
「ハッピバスデー・チュー・ユー」
「ハッピ・バスデー・チュー・ユー」
「ハッピ・バァスデー・ディア……」
ちょっと調子の外れた三色の歌声が、陽気に知佳子を包みこむ。しきりに瞬きを繰り返す彼女の前には、懐かしい人たちの笑顔があった。
守口君。岩崎さん。そして……。
「ディア・知佳子せんせい~」
そう、ビブラートをちょっとかけながら歌い、高志さんが両手に捧げ持っていたホールケーキをテーブルにおいた。上目づかいに知佳子をみて、不器用なウインクをする。一本だけ刺さったろうそくに、岩崎さんから手渡されたライターで火をつけてから、彼は椅子を引いて知佳子をテーブルへといざなった。
「ハッピ・バスデー・チュー・ユー」
三人のハーモニー。それに続いて湧く拍手。促されるままケーキの前の席に座った知佳子は、それまでさんざん考えた言い訳の言葉も忘れて、唖然と彼らの顔を見渡した。
「これって……」
守口君が天然パーマの頭をかきながら笑う。
「いやだなあ、先生。今日は先生の誕生日じゃないですか」
岩崎さんは両手をスカートの前に合わせて、はにかんだ様子でちょこんと頭を下げる。
「先生。誕生日おめでとうございます」
隣の席についた高志さんが、知佳子の顔を覗き込む。
「さあ先生。火を、吹き消して」
言われるまま、力いっぱいに息を吹きかけると、その橙色の炎は消える直前、ケーキの上で一瞬踊るようにゆらめいた。
どうして?
ケーキを切り分ける岩崎さんの軽快な手の動きを見つめながら、今にも涎を垂らしそうな守口君の笑った口もとを眺めながら、そして細められた高志さんの目を見返しながら、知佳子は思う。
どうして、あなたたちはそんなに優しいの? と。
そして言葉にならない言葉で、二人の生徒に語り掛ける。
私は、ずっとあなたたちと会うことを避けてきたんだよ。にぎやかな子たちに囲まれて調子に乗って、イケメン生徒にうつつを抜かして、図書室に行こうとしなかったんだよ。私はあなたたちにずっと背を向けていたんだよ。それなのにどうして私を祝ってくれるの? あなたたちは、どうしてそんなに優しいの?
岩崎さんが一番大きな一切れを目の前に置いてくれる。それをほおばった時、不覚にも知佳子の目の奥がジンと熱くなった。まだ口の中のものを飲み込まないうちに、次のひとかけらをほおばる。すると、目の奥の熱はジワリと広がって、涙になってこぼれた。ケーキを口に入れるたび、それを咀嚼するたび、飲み込むたびに、涙は目から滲み出し、ぽろぽろと、雨粒のように頬を流れ落ちていった。
「わ……わらひは、ばかなおんならったんら」
口を膨らませ、ケーキを咀嚼しながら、知佳子は口から言葉をこぼす。
「自分は慕われているとうぬぼれて」
本当はよこしまな目で見られていることにも気づかないで。
「軽薄な生徒に騙されて」
怖い目にあわされて、罠にかけられて。
「変な噂を流されて、後ろ指さされて笑われて」
挙句に学校にいられなくなって……。
口いっぱいに詰め込んだケーキを飲み込むこともできずに、嗚咽だけを知佳子は漏らした。ごめんなさい。そう言いたいのだけれど、胸も口もいっぱいで、どうしてもその言葉を吐き出すことができない。もしそれを言ってしまったら、それまで必死に張っていたものが一気にゆるんで、ケーキを口からこぼしながら泣き崩れてしまうような気がした。
「話はふたりから聞きました。つらかったですね」
穏やかな声音とともに、知佳子の背中に手が当てられた。それは高志さんの手だ。それはとても暖かくて、優しい感触だった。
「僕たちの気持ちは変わりませんよ。僕たちはいつでもあなたの味方です」
「で、でも。私にはこんなに優しくしてもらう資格なんかない……」
「資格なんか!」
高志さんは笑い飛ばすように言った。
「資格なんか、そんなもの、必要ない。僕たちが勝手にあなたのことを好きなんだから。それは誰かが誰かに資格を与えたからじゃない」
「そうですよ、そうですよ」
横から守口君も口をはさむ。
「俺なんか、世界のすべてがそっぽを向いても先生の味方です。春からずっとそう心に決めています」
「噂のことは知ってます」
今度は岩崎さんが眼鏡を指で押し上げながら、かしこまった口調で言う。その厚い眼鏡越しでも、その目が怒りに燃えていることがわかる。
「あんな噂を流した奴、ぶっ飛ばしてやりたいです。先生は気にする必要ないですよ。悪意ある数人が面白がってるだけです。少なくとも私は、私たちはあんな噂を信じないし、先生への信頼を揺るがせたりしません」
「でも。もう、私は、先生じゃない」
「先生ですよ」
そして彼女ははにかむようにほほ笑んだ。その隣で守口君も首がもげそうなほどにうなずいている。
「先生は、ずっと、いつまでも、私たちの先生です」
彼女の分厚い眼鏡に店の明かりが反射して輝いている。まっすぐに知佳子を見つめる彼女の頬は少し紅潮していて、その表情は何か遠く憧れるものに向けられているようで……。
私は幸せ者だ。
知佳子は改めてそう、思う。ようやくケーキの最後のひとかけらを飲み込みながら。それと同時にまた涙を目ににじませながら。これほどに思ってくれる人がいて、私は本当に、幸せ者だ。
「ただ、図書部に来てくれなくなって、それはやっぱり寂しくて……」
そして彼女は守口君の方を向き、彼に目配せしてから鞄の中をまさぐった。
「でも、その間にこれを作ったんです。高志さんに協力してもらって」
岩崎さんが差し出してくれたのは、数枚の厚めの紙だった。知佳子がそれをめくってみてみると、そこには短い文章と、綺麗な絵が描いてあった。猫の絵。女の子の絵。街角の風景……。
これは……。
知佳子は思わず顔をあげる。その視線の先で岩崎さんがニコリとほほ笑む。
「誕生日プレゼントです。まだ途中までなんですけど」
「そうそう。とりあえず俺と恵の作ったストーリーの分だけ、高志さんに絵を描いてもらったんです」
「読ませてもらっても、いいかしら」
「えっ。ちょっと待って。いきなりは恥ずかしいですよ」
耳をほんのり紅くして手を振る守口君を笑みでなだめて、知佳子は朗読の態勢に入る。
「高原の寂しい街に、小さな雄の三毛猫が住んでおりました。彼の住処は段ボール。家族も友達もおりません……」
しかし彼女の声はほどなく小さくなっていき、震えを帯びた呼気に変わってしまう。
私は馬鹿な女だ。
改めて彼女は自分を責める。なんで私はこれをもっと早く読んであげられなかったんだろう。どうしてもっと早く、彼らの気持ちに目を向けてあげられなかったんだろう。
「だから、先生」
しばらく黙り込んでいると、頭の上から、陽が注ぐように高志さんの声が降ってきた。
「早く続きのストーリーを書いてくださいよ。クライマックスシーンの絵を、描かせてください」
「そうそう。締めは、先生じゃないですか」
守口君の言葉に何度もうなずきながら、知佳子は顔をあげる。締めは、私がやりたいので。そう彼に言った日のことがふいに瞼の裏によみがえる。するとそれに連鎖して、彼らと過ごしたこの半年の様々な場面が浮かび上がり、彼女の脳裏を駆け巡っていった。
高志さんとはじめて出会った日のこと。毎週会うことを提案した夕方。彼と議論を交わした日々。彼のさす傘の下を歩いた雨音響く帰り道。図書部の活動。守口君と岩崎さんのやり取りをほほえましく見守った放課後の時間。進路について一緒に考えた日々。ちょっと気恥ずかしい写真撮影。ありがとうと言ってもらえた、あの夕方の喜び……。
あの一場面一場面の、その時々の自分の気持ちを手のひらに包むようにして、知佳子は思う。
ダメな私の傍にいてくれたのはいつも、君たちだった。君たちと一緒にいることで私はどれだけ救われていただろう。どれだけ支えられていただろう。どれだけ、成長することができただろう。今思えば、私の隣りにはいつも君たちがいてくれた。今こそ認めよう。私は今、ここで宣言しよう。君たちは、特別な人なんだ。私は君たちのことが、大好きだ!
「すずらん」から出て帰路につくころには、日もすっかり暮れていた。西空の山際にかかる雲にだけ、ほんのりと紅色が残る。小さな星がちらほらと瞬きはじめた空の大部分は圧倒的な紺色で、地球が宇宙の一部なんだという壮大な感慨を抱かせる。知佳子は首が痛くなるほどその空を見上げながら、細い坂道を歩いていく。彼女の足元からは虫の音が盛大に湧き上がる。星の瞬きのように無数に。絶えることなく。
「私、今ならすぐに、お話の続きを書いてしまえそうです」
知佳子は隣を歩く高志さんに、声を弾ませながら告げる。
* * *
街のみんなと過ごしながら、しかしちーちゃんはいつも何かが足りないと思っていました。それがわからずに数カ月を過ごすうち、彼女の身に少しずつ異変が現れてきました。不思議なことに、彼女の上で照っていたはずの光が次第に薄れてきたのです。
ちーちゃんはようやく気がつきました。この光は、自分がつくりだしたものではなかった。街の人から与えられたものでもなかった。ああ、なんて愚かな私だろう。
彼女は本当の光がどこにあるのか知っていました。
あの猫ちゃんだ。路地裏で一緒に遊んだあの三毛の猫ちゃんなんだ!
* * *
「それで、ラストは、どうなるんです?」
問いかけてきた高志さんに、知佳子はウインクをしてみせる。あ、またこのウインクをしてしまった。まあいいや。高志さんになら。涙池のことを思い出して、舌を出しながら照れ隠しのように言う。
「まだ、これから」
「素敵な話です。完成が楽しみです」
「またまた。君なら、何か皮肉のひとつやふたつ言うと思ってたのに」
「たまには、素直になるのもいいもんですよ」
「あ、それ。私への皮肉?」
知佳子が彼の前に回り込んでその顔を覗き込むようにすると、高志さんは視線を逸らすように空を見上げ、そして笑った。
彼の笑いは、知佳子にもうつる。
ふたりのひそやかな笑い声が、星空へと吸い込まれてゆく。
いくつかの明るい星が、その笑い声に呼応するようにきらめく。地上の虫の鳴き声が、二人を囃し立てるように高く震える。
気がつけばもう知佳子の家の前だった。
「じゃあ、これ。よろしくお願いします」
高志さんは名残惜しそうに、大きな包みを知佳子に差し出した。
知佳子はそれを丁寧に、そしてしっかりと受け取る。彼の、大切な絵。必ず立派に世に出してみせる。
「確かに。任せてください」
両手で絵を持っているので握手はできない。知佳子はその代わりにジッと彼を見つめた。強く約束するように。しっかりと手を握り合うように。




