3-1 町長からの提案
終業のチャイムの響く廊下にでた知佳子は、食後の猫のように大きく伸びをした。秋の午後の陽が差し込む廊下の静けさは、あっという間に教室から出てくる生徒たちの喧騒にとってかわられる。ちょっとだけ涼気を含んだ風が開け放した窓から吹き込んできて、知佳子の頬を優しくなでていった。
知佳子は立ち止まって目を閉じ、その風を胸いっぱい吸い込む。すると好きな物語を読み終えたときのような幸福感と充実感が、彼女の胸を満たした。
最近私は絶好調だ。知佳子はそう、感じている。
知佳子は実感している。自分に起こった変化を。自分に向けられる人々の眼差しに灯るものの違いを。何もかもが、春とは違っている。かつては授業中、誰も私なんか見ようとはしなかったのに。誰も私の声に耳を傾けようとはしていなかったのに。なのに今はどうだろう。その同じ生徒たちが嘘のように輝いた、まるで晴れ渡った空を見上げるような瞳で私を見てくれる。私の問いかけに発言を求めて、元気よく手をあげてくれる。みんな私を受け入れようとしてくれている。そして私は、そんなみんなを見ることができるようになった。私は変わった。こうだったらいいなと思える教師に、とてもなれないと思っていたような大人に、私はなりつつある!
「せんせー」「せんせー」
生徒たちが誰かを呼ぶ声が背後でしている。質問でもするのか、それともただの世間話をしようというのか。いずれにせよ、授業が終わったとたん、生徒たちは元気だ。
そんなことを思いながら知佳子が目を開け、教務室に戻ろうとすると、さっきの声が、今度は彼女の耳元で弾けた。
「知佳子せんせー。ちょっと待ってくださいよぉ」
その言葉に思わず知佳子は飛び上がりそうになる。岩崎さんでも、守口君でもない、女子生徒の甘えるような声。え。私を呼んでいたの? そういえば二学期になってから、こういうことが時々ある。生徒から呼び止められることが。でも、いまだに違和感がある。あまりにも意外で、慣れていなくて。図書部の二人以外の生徒から声をかけられるなんて、一学期にはありえなかったことだから。
「な、何かしら」
一生懸命笑顔を取り繕ってその声の主たちに向き直る。若々しい笑みを満面に浮かべた、可愛らしい三人組の女の子。手に教科書は持っていない。質問ではなさそうだ。しかし彼女たちは探るように知佳子の顔を覗き込んで、もったいぶった調子で言う。
「質問していいですかぁ」
うんいいよ。と知佳子はうなずく。何だか嫌な予感がする。
「せんせーってぇ。彼氏とかいるんですかぁ?」
嫌な予感的中。そんな人いません! と返事をしようとして、しかし一瞬躊躇する。あの「すずらん」の奥の席に座る、さえない青年の姿を思い描いてしまったから。すると、その一瞬できた間に敏感に反応して、女子生徒がまたはしゃぎだす。きゃぴきゃぴという効果音がきこえてきそうだ。
「ええー。やっぱ、いるんだ」
「どんな人。ね。どんな人」
この年頃の子って、どうしてこの手の話題がこんなにも好きなんだろう。その情熱の何割かでも勉強に向ければいいのに。と思いながら知佳子はようやく返事をする。
「いませんよ。そんな人、いませんからね」
「なんだぁ。つまんないの」
残念そうに言う女子の後ろから、今度は男の子の声が飛んでくる。
「じゃあ。俺が立候補しようかな」
その言葉に知佳子の胸はちょっとだけざわつく。だれ? そんな冗談でからかうのは。と動揺しそうになり、しかしすぐに犯人に思いあたって知佳子は眼鏡に指をあてる。
「また守口君。そんな軽口を……」
怒った口調で言いながら、しかし心の隅で彼女は少しホッとする。
しかし、視線を声の方に向けると、女子生徒たちの後ろに立っている長身の男子生徒は守口君ではなかった。
「あ。炭沼君」
そう。彼は学級委員の炭沼唐四郎君だった。サッカー部のキャプテンでもあり、女子生徒からの絶大の人気を誇る、学校のアイドルだ。最近よく知佳子のところに質問に来るようになった。
「またそんな冗談を言って。先生をからかうものではありません」
改めてそう彼をたしなめながら、一方で知佳子は悪い気もしなかった。
なにせ彼は生徒たちからも、教師たちからも絶大の信頼を寄せられている人気者だ。しかも女子生徒たちのあこがれるハンサムボーイ。そんな彼が自分を頼ってくれている。十歳も年上の自分に好意を抱いてくれている。それは彼女の自尊心をくすぐる現象だった。自己肯定感の低い知佳子にとって、それは決して与えられることのないと思っていた、勲章のようなものだった。
その炭沼君が、整った顔にさわやかな笑みを浮かべて言う。
「あ。そうだ先生。ちょっと今日、相談にのっていただけませんか。進路の相談」
「あら。そうなの。でも……」
私には図書部の活動が……。
知佳子の脳裏に、教室の隅から自分の様子をうかがう守口君と岩崎さんの、寂しそうな表情がよみがえる。最近放課後に質問や相談に来る生徒が増えて、なぜか先輩や上司から雑用を頼まれるようにもなって、あまり図書部の活動ができていない。
あの子たちはきっと今日も図書室にいる。図書室で本を読みながら、私を待っている。
知佳子は図書室のある別棟のほうへと、足を向けようとする。その行く先に、長身の男子生徒が立ちふさがる。美しい顔立ちの、たくましい男の子。彼は低音の美声で、甘えるように言う。
「お願いしますよ。悩んでいるんです」
「わかったわ」
知佳子はとっさに答えてしまう。間違った判断ではないはずだと、自分に言い聞かせながら。生徒は図書部の子だけではない。みんなに平等に接しなければ。私は教師なのだから。
これは私のためではない。生徒のためなのだから。生徒の……。
その週の木曜の放課後。教務室を出て喫茶店「すずらん」に行こうとした知佳子は、教頭から呼び止められた。
「新田先生。ちょっと。校長がお呼びです……」
手招きをしながらそう言う彼の表情は、いつもの悪代官のようなそれではなく、ちょっと青ざめてこわばっている。そんな教頭のいつにない真面目そうな表情が、知佳子の胸に言い知れぬ不安を灯した。
でも、私は今日は予定が……。
そう言おうとしながら躊躇する知佳子に顔を寄せ、教頭は低い声で囁いた。
「町長がおこしなんです。先生にお話があると」
町長を務める炭沼氏の一族は、昔からこの地一帯に威を張り、治めてきた家柄である。今でも地元の企業や職能団体に強い影響力を持っていて、実質この地域の支配者と言っても過言ではない。そんな炭沼の名に、この街の誰もが半ば恐れのようなものを抱いていた。
教頭に連れられて校長室に入ると、応接セットの黒いソファに座っていた初老の男が立ち上がった。奥の席に置物のように鎮座している校長が、ひとつ咳払いをして彼を紹介する。
「ああ。新田君。ご存じと思うが、町長の炭沼さんだ。炭沼さん。こちらが新田知佳子先生です」
町長の炭沼氏は、炭沼君の父でもある。長身で体格もよくて顔立ちも整っていて、たしかに炭沼君にはこの人の面影があると思う。
「やあ。話は聞いていますよ。息子がお世話になっております」
そう言ってわずかに微笑んだ、その表情も炭沼君とよく似ている。
用事があるので手短にお願いします。と、言いたいのだけれど、その言葉が喉にひっかかって出てこない。炭沼氏が促すままにソファに腰を下ろすと、知佳子は金縛りにあったように動けなくなってしまった。彼の物腰は穏やかなのだけれど、妙な威圧感があって、彼に見つめられていると知佳子は逆らう意思を持つことができないのだった。
「さて、新田先生は面白い活動をされているのですね」
ローテーブルをはさんで知佳子の向かいのソファに体をうずめた炭沼氏は、長い脚を組んでたばこの箱を取り出しながらそう言った。知佳子にはそれが何のことかわからない。しかし聞き返すこともできずに、ただ固まったまま瞬きだけをくりかえす。
「ほら。絵を、作っているそうじゃないですか。この街を喧伝するような。素晴らしいことだと、私は思います」
炭沼氏が煙草をくわえると、彼の傍に立った教頭がすかさず火をつける。彼の口から吐き出された白い煙が怨霊か怪物の醸し出す妖気ででもあるかのように、知佳子には感じられた。彼女の下腹部に緊張がはしる。
「はあ。ありがとう、ございます」
どうしてそれを、知ってるの。という質問は、たばこの煙の刺激のせいで、咳に取って代わられた。しかし彼女の疑問は察してもらえたらしい。口に手を当てて小さな咳を繰り返す知佳子に、炭沼氏は目を細めながら教えてくれた。
「息子がね。聞かせてくれたんですよ。先生が面白いことをしているようだって」
それでようやく知佳子は理解した。そういえば、先日炭沼君に高志さんと作っている絵のことを話したのだ。進路相談とか言いながら、結局進路についてはほとんど話さなかった。普段の生活のこととか、趣味とか、そんなことばっかりで。挙句に高志さんとの活動のことも言う羽目になったのだが、親に伝わっていたとは……。
「そこでね。いいことを思いついたんです」
炭沼氏の声が、回想から知佳子を無理やりに引き戻す。その力強さに思わず顔をあげた彼女の視線を、氏の鋭い眼光がからめとる。
「私たちに、その活動のお手伝いをさせていただきたい。私の次男は画家なので制作のアドバイスもできると思いますし、完成した絵を世間に公表する術も色々と持っていますから」
有無を言わせぬ言い方だった。承諾以外のいかなる返事も受け付けない、自信と圧力に満ちた、押し付けるようなそれは言い方だった。
知佳子は酸欠の金魚のように、口を開きかけて閉じるということを繰り返し、やがて視線をローテーブルの一点に落として黙り込んだ。
炭沼氏の態度にはどことなく不安と反発を覚える。自分たちの活動に有無を言わせず強引に入り込んで来ようとする姿勢。その鋭い目。ソファにふんぞり返っている姿。彼の口から吐き出されるたばこの煙に。
しかし……。
一方で、知佳子は思いなおす。しかしこれは願ってもない提案でもあった。あの絵を完成させた後の計画など、知佳子は何も考えてはいなかったのだ。愚かなことだが、ただ作ることに夢中で。作りはじめれば、完成すれば、何かが変わるのではないかという、漠然とした期待があるだけで。
町長が興味を示してくれている。それは高志さんの絵を世に出すには願ってもないことではないだろうか。町長を利用すれば。彼が後ろ盾になってくれるなら。彼らの力を借りて作品を世にだすことができるなら……。
「すこし、考えさせていただいてもよろしいでしょうか。絵の制作者の方とも話したいので」
知佳子の返事に、町長は鷹揚にうなずいた。どうせお前は自分たちの意思に従うしかないのだ。そうとでも言いたそうな、その表情だった。
挨拶をして校長室から退出し、すこし廊下を歩いたところでまた教頭に呼び止められた。もうひとつ、伝えることがあったようだ。
彼がこわばった表情で告げたのは、図書部のしばらくの活動休止だった。文化祭に伴う英会話クラブとサッカー部の活動のため図書室が使用されるというのが、その理由だった。




