2-6 恵の憧れ3
トイレから出た後、資料室の前で公明と合流したわたしは、彼と一緒に国語科準備室へと急いだ。公明には「炭沼の奴が知佳子先生を狙っている」とだけ伝えた。一部始終を教えたら、きっと知佳子先生を慕う彼は、こめかみから血を吹いてぶっ倒れるか、炭沼の顔面に穴をあけてしまうだろう。後者ならいいが、倒れられては困る。
準備室につくと、ちょうど扉が開いて中から炭沼が出てくるところだった。相変わらず涼しげな顔をして、余裕の笑みを口元に浮かべている。彼はわたしと公明になど目もくれず、颯爽と廊下を去っていった。
「先生。大丈夫ですか」
息を切らして準備室に駆け込んだわたしと公明が見たものは、いつもと何ら変わらぬ様子で本棚と向かい合っている、知佳子先生の姿だった。
先生はあわただしく入ってきたわたしたちに顔を向けると、どうしたの、と首を傾げた。まるで何事もなかったかのようなその表情に、わたしは胸をなでおろす。
「いや、ほら。今ここに炭沼君がきたじゃないですか。彼が先生に変なことしなかったかな……、と思って」
「変なことって?」
先生の問いにわたしの頬が思わずほてる。その様子を見た知佳子先生はそよ風のように笑って、
「何でもないよ。ただ、今日の授業の分からなかったところを訊きに来ただけ」
そう、こともなげに言った。その目はいつものように理知的で、澄んでいて、落ち着いていて、そこにほんのわずかな揺れも見出すことはできない。
さすが大人の女。わたしは今更ながら感嘆する。自分たちから見れば圧倒的な存在感を持った、学園の絶対的アイドルも、知佳子先生からすればただの生徒のひとりなんだ。
「よかった。わたし、てっきり炭沼君が告白なんかしたりして、先生を困らせてるんじゃないかと……」
安堵の吐息を漏らすと、思わず足の力も抜け、わたしは本棚にもたれかかった。そんなわたしの肩に、知佳子先生は優しく手をおいてくれる。
「心配してくれたの? ありがとう。でも、そうだとしても大丈夫。これでも数年前まではモテモテだったんだから。言い寄る生徒をなだめるなんて、造作ないわ」
そして先生は遠い目をする。生徒から告白されたことは数知れず。でも、みんな一時の気の迷いなのよ。年上の女性に対する憧れと若い衝動がおこす、気の迷い。私はその子たちを教え諭さなければならないの。
「本当かなあ」
公明がふいににやにやしながら話に割り込んできた。
「何が」
「先生がモテモテだったって話。かなり盛ってないですか」
すると先生は真顔になり、眼鏡を中指で押し上げた。眼鏡の表面が、陽光を反射してきらりと光る。
「守口君。そういえば最近お説教をしていなかったですね。久しぶりに一戦しますか」
あ、いえ。すみませんでした。今日は体調がよくないので。それはまた明日お願いします。公明は手に持っていた資料を机に置くと、そう口走りながらあたふたと部屋の出口へと後ずさっていった。
「失礼しました。ではまた、部活で」
そう言って出てゆこうとする公明とわたしに、先生はすまなそうに眉をひそめながら言った。
「ごめんね。今日はちょっと用事があって、いけないの」
「そう……、ですか」
沈黙が降りる。その空気の中にかすかな……ほんのかすかな違和感を感じて、ふいにわたしは気まずくなる。わたしは準備室から出ようと思ったが、どういうわけか、足がそこから動かなかった。
「先生……」
動けない理由に、わたしはすぐに気がつく。わたしはまだ、先生に何か訊きたいんだ。だけど何を訊きたいのかわからず、ただ飼い主の命令を待つ犬のように、そこにとどまって先生に視線を送り続ける。
知佳子先生はそのスクエア型のメガネを指で押し上げてから、軽く微笑んでうなずきかけてくれる。彼女のいつも通りの仕草。大丈夫。いつも通りだ。何も変わらない。そう自分に言い聞かせてわたしは、ようやく引き戸に手をかけた。
「ごきげんよう、先生。また、明日」
大丈夫。戸を閉めながらわたしは再びそう念じる。しかし静かな廊下を渡っていくわたしの胸に残ったのは、どうしようもない不安だった。秋の弱い日差しと一緒にチャイムの音が呑気に降り注ぐ。その音がいつまでも、言いようもない寂しさとともに自分の頭の中で響いていた。
緊張を伴う新学期。しかし、その雰囲気は春とは全く違う。教室の中にいるのは数カ月一緒にすごした同じ面々だ。ひとしきり再会を喜び合った後はすぐに一学期と同じ日常に戻っていく。しかしその中でも変わってしまうことがある。人間関係。同じ人の中でも、ずいぶん雰囲気が変わってしまっていることもある。
静かな教室。しかしそこに流れる空気は、夏前よりも心なしか穏やかだ。知佳子先生が板書をするときのチョークの音は、こんなに柔らかだったろうか。
「はーい。この歌の意味、分かる人」
知佳子先生が振り返って問いかける。張りがあって、ちょっとトーンの高い、どこか媚びるような声。何だか別人みたいなその声に応じて、何人かの生徒がはいはーいと、元気よく手をあげる。わたしも手をあげようとして、しかし何となくそれをやめてしまう。
「誰に答えてもらおうかな。えーっと、じゃあ……」
岩崎さん! そう言ってもらえるのを期待した次の瞬間、呼ばれたのは別の生徒の名だった。朗々と答えるその子に先生は笑顔でうなずいている。わたしには特別なご褒美にみえるその笑顔を、まるで水でも撒くように。
ふといらだちが、わたしの胸にこみあげる。だめだよ、先生。その笑顔は……。
「あの……。先生……」
こっち向いて。その気持ちを込めて質問しようとしたとき、わたしの愚かさをあざ笑うかのようにチャイムが鳴った。
休み時間に先生を追って廊下に出ると、彼女は数人の生徒に囲まれながら談笑していた。女子生徒の質問に答え、男子生徒の軽口をたしなめる。生徒の一人一人にほほ笑みかける彼女の頬に、秋の午後の光が当たり、その表情のまぶしさにわたしは思わず目をすがめる。
「知佳子先生ってさー。二学期になってから変わったよね」
「ねー。優しくなって、なんだかいいよね」
「夏になんかあったのかな。彼氏ができたとか」
「あー。それ、あるかもー」
廊下をすれ違ってゆくみんなの声が、わたしの胸をチクリチクリと刺す。
その痛みに耐える自分をわたしはしかりつける。
どうして痛いの。恵。これは喜ぶべきことじゃない。大好きな人がみんなから認められて慕われている。これって、素晴らしいことじゃない。わたしは、それを祝福しなければいけないよ。おめでとう先生。おめでとう……。
これでいいんだ。
ひとり残された廊下の柱の陰から、ほかの生徒たちと去ってゆく知佳子先生の背中を見送りながら、わたしはわたしに言い聞かせる。
これでいいんだ。わたしになんかもう二度と光が当たらなかったとしても、大好きなあの人が輝いてくれているなら、それでもう……。
* * *
神様は三毛猫の願いを叶えました。
次の日から、ちーちゃんは見違えるように明るくなったのです。彼女は上を向いて歩き、友達に積極的に話しかけるようになりました。彼女の頭の上にあった暗雲はいつの間にかなくなり、彼女の優しさや面白さに気づいた人たちが彼女の周囲を取り囲むようになったのです。
代わりに三毛猫は真っ黒な毛でおおわれてしまいました。すべての光をうけつけない、漆黒の毛です。これがかつての三毛猫であったことに気づく者はいませんでした。あの、ちーちゃんも。それどころかその姿を気味悪がられた黒猫は、人々から忌み嫌われるようになりました。
いいんだ僕は。これで。
人々から追いやられながら、しかし黒猫は幸せでした。
大好きなちーちゃんが幸せそうだったから。友達に囲まれて楽しそうに笑っている彼女の姿を見るたびに、黒猫の心は暖かいもので満たされました。それだけで、黒猫は満足だったのです。
………
……
…
嘘!
本当は、黒猫はつらかった。
彼もちーちゃんの傍にいたかった。
裏路地のごみ箱の陰で、いつも彼は泣いていました。
寂しいよ。寂しいよ。寂しいよ。
そう、誰にも届かぬ言葉をふり絞りながら、泣いていました。
* * *




