2-5 恵の憧れ2
夏休みは長いようで短い。お盆を過ぎると、夏休みの終焉はもうすぐそこまで迫っているように感じる。わたしは一向にはかどらない学校の課題に追われつつ、カレンダーを見てはため息をつく。ああ、あと二週間で休みが終わっちゃう。あと十日。あと、一週間……。
夏休み最後の図書室開放日の午後、また、わたしは公明と知佳子先生と連れ立って「すずらん」に寄った。
今日の先生はいつもとちょっと違う。普段より口紅の色が濃い気がする。アイシャドウなんて、この人していたっけ。まつげがいつもより重たそう。肌も一瞬、十代のそれかと勘違いし、いつもよりメイクが濃いのだと気づく。服装も、卒業式か、と突っ込みたくなる。いつも素敵だけれど、今日は一段と素敵だ。
「今日は、二人とも出てゆかないでね」
いつもとは違い奥の窓際の席に座らされたわたしたちは、先生に念を押された。ここは先生と画家の青年の定位置。なんだか居心地が悪いなあと思いつつうなずいていると、入り口の鈴が鳴った。
入ってきた青年は、わたしと公明をみると、ばつが悪そうに苦笑いした。
「なんだか、照れるなあ」
「そう言わずに、この子たちにも見せてあげてください、高志さん。この絵はもうかなり完成に近づいてきたと思うの。私たちが創ってきたこの作品を一番最初に観せるのはこの子達にって、ずっと思っていたのですから」
そういうことならば、と、高志さんは絵を隣のテーブルに乗せ、かぶせてあった布を取り払った。
その絵を見た途端、公明は感嘆の声を漏らし、わたしも思わずため息をついた。
素敵な絵だった。
どこか遠い外国のような街の風景。レンガ造りの建物たちの向こうの山すそから朝日が差し込んでいる。まるで、物語のクライマックスのようだ。重く暗い苦悩の日々は終わり、今、希望にあふれる未来が訪れようとしている。ただ、画面の隅にいる猫だけがさみしそう。この中にはまだ物語を終われない者もいる。
「どう?」
「素敵です」
「感服いたしました」
わたしも公明も、少しの世辞もなく、称賛した。先生も得意げにうなずいて微笑む。
「そうでしょう。もう、ほぼ完ぺきといってもいいと思うの。まあ、ちょっと、私のイメージとは違うのだけれど」
それを聞くと、高志さんがうんざりとした顔をする。
「まだ言いますか。先生もしつこいねえ。あ、そうだ」
そしてわたしと公明の方を向き、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
「君たち、先生の描いた絵を観たいかね」
「え、そんなの持っているんですか」
「わー。観たい、観たい」
高志さんがポケットに手を忍ばせる。その手をとっさに知佳子先生が抑えた。
「ダメ。ダメです」
「えー。せっかくなんだから、先生の名作をこの子達にも」
「ダメー。ぜったいに、いけません」
珍しく先生が取り乱し、慌てた様子で高志さんに縋りつく。おかしそうに彼女のその様子を見つめながら、高志さんは身をよじらせる。彼はポケットから手を放し、先生の肩に手を乗せ、彼女をなだめる。
「わかってますよ。見せません。これは僕たちだけの秘密ですからね」
「もう。悪い冗談ですよ。あなただけに見せたんですから」
ちょっと目を潤ませ、心なしか頬も染めて青年を見上げる知佳子先生の姿に、わたしの心は釘付けになる。自分がもし男の人だったら、この瞬間に惚れてしまうだろうな。わたしは思う。いや、男でなくても、間違いなくわたしは今、彼女に惚れている。可憐な大人の女の人。わたしもいつか、そうなれるのかな。わたしはなんだか甘いような、苦いような、泣き出したいような気持ちになって二人を見つめていた。
「……なんだか、妙な雰囲気になってしまったな」
公明のつぶやきを合図に、わたしも我に返る。
「そ、そうだ。わたしたち行きましょう。先生。高志さん。ありがとうございました。素敵な絵でした。どうぞお幸せに。じゃなくて、がんばってください」
どぎまぎしながら、あいさつをし、席を立つ。
引き留める先生に、宿題を二人でやるからと言い訳して、わたしは公明と街に出た。
夕暮れの紅い日差しが差し込み、人々の長い影が揺れる商店街。わたしは見慣れたこの風景を眺めながらしみじみと思う。この夏、この光景の中を何度彼と一緒に歩いただろう。もうすぐ楽しかった夏は終わってしまう。だけど、わたしたちは終わらないといいな。公明との関係も、知佳子先生との仲も。
「俺、きめたよ」
ふと公明が立ち止まって、言う。
「何を?」
「進路。あの絵を観て決めた。俺は、建築家になりたい。美しい建物を、人の心に残る風景を、創れるようになりたいと、思う」
わたしは少しの間彼を見上げて、それから静かにうなずく。いいね、その夢。素敵だと思う。
ふと、思い切ったように、わたしも口を開いた。ずっと胸の中にしまっていた夢。知佳子先生のような教師になる。それ以外にもう一つ持っていた、ささやかな空想。
「わたしね、いつか、あの喫茶店を受け継いで、ブックカフェにしたいの。そしてね、公明君や知佳子先生を招待して……」
言葉が詰まった。なぜかのどが締め付けられてそれ以上言葉が出ない。わかってるんだ。きっと、そのころはあんな店、つぶれちゃってるよね。
ふいに、わたしの手を握る公明の指に、力がこもった。
「よし。じゃあ。それ、俺にやらせてくれよ。俺がその店を創ってやる」
我慢していたのに、鼻の奥が熱くなった。やめてよ公明君。そんな言葉かけられたら、わたし泣いちゃうじゃない。
わたしは眼を腕で一回こすると、涙を振り払うように顔を上げ、無理やり笑顔を作った。
「約束だからね」
元気よくそう言って、つないだ手を大きく振る。
終わらないよね。わたしたちの関係は。わたしと公明。わたしたちと知佳子先生。ずっと一緒だよね。
そうあってほしい。そうだといいな。わたしは目の前に紅く輝く夏の夕陽に、強くそう祈った。
新学期が始まっても暑さはおちつく様子を見せず、教室の窓から流れ込んでくるセミの鳴き声もやかましくて、まだ夏が続いているかのようだった。ただ、校庭の桜の葉がところどころ黄や茶色に染まってわびし気に風に吹かれている様子を見ると、着実に季節の変化はおこりつつあるのだと、はっとさせられる。
いつもそうだが、新しい学期の始まりというのは緊張する。期待と不安の入り混じった、なんとも落ち着かぬ感情のおかげで、わたしの腹は朝から調子が悪かった。
今日からは好きな人たちと毎日一緒にいられる。だけど、当然、嫌な奴とも顔を合わせなければならない。
わたしは外に向けていた視線を、室内に戻した。放課後の教室にはもう生徒の姿はあまりない。ただ、廊下側の一番奥の席に数人の男子がたむろしている。その中心でしゃべっている背の高い男に思わず視線が止まり、わたしは慌てて顔をそらした。
炭沼唐四郎。学年のアイドルだ。背が高く、ハンサムで、成績もいい。元サッカー部のキャプテンで、同級生たちからも教師たちからも厚く信頼されている。町長の末っ子で、金持ちで、女の子に優しく、もちろんとてもモテる。
しかしわたしはこの男がどうにも苦手だった。ごくまれに、人のいないとき彼が垣間見せる薄笑いに、言いようのない残忍さを感じるのだ。
残っていた他の生徒達が帰り支度をして、立ち上がった。公明は今、先生から頼まれた資料を探しに資料室に行っている。わたしも資料室に行こう。わたしは手にしていた本を鞄にしまうと、急いで席を立った。
身を固くしながら男子たちの後ろを通り、無事に出口を抜ける。ほっとして扉を閉めようとしたときである。
「新田先生」
という単語が背後できこえて、わたしは一瞬、己の心臓までもがこわばるのを感じた。
急いで扉を閉め、扉のわきの壁にぴたりと背をつけて、わたしは耳を澄ませる。きこえてきたのは炭沼の声だった。
「新田ちゃんてさ、最近色っぽくね」
「あいつのどこが」
「シロちゃん。もしかして告るの? やめとけよ。あの新田ちゃんが相手にするわけないじゃん」
「別に好きでもねえし。つきあいたくもねえけど、ただ、一発やりたいのさ。きっと処女だぜ。あいつ」
「無理だよ」
「そうかな」
少し間が開いた。炭沼はひょっとして笑っているのかもしれない。あの残忍な薄笑いを思い浮かべて、わたしはぞっとした。
「堕とせると思うよ、俺なら。男に飢えてるって顔してるじゃん、あのオバサン。熟れた体を持て余してさ。お堅い教師を装ってるけど、ああいうのにかぎって乱れるとすごいんだぜ」
わたしの胸を吐き気が襲った。足が震えている。激しい尿意をおぼえるが、体が委縮して思うように動かない。
(どうして)
口惜しさが吐き気とともに胸にこみあげる。どうしてそんなひどいことが言えるの。涼しげな顔して、いかにも優しい声で、好人物の印象振りまいて。でも、考えていることはとんでもない下衆野郎だ。
「よし。じゃあ、これから行ってくるぜ。あいつどうせ国語科準備室だろ」
椅子の足が床をこする音がした。あいつらも出てくるんだ。見つかったらヤバイ。わたしは力を振り絞って、生まれたての小鹿のようにびっこをひきながら、まずはトイレへと一目散に駆け出した。




