3-2 告白
私は、どうすればいいのだろうか。
町長たちから解放された後、「すずらん」への道をとぼとぼと歩きながら、知佳子は何度も自問した。
町長たちに協力してもらえば、彼女の活動は一気に進展する。当初の目標、この街の活性化と街での自分の確固たる居場所をつくるには、彼らはこれ以上望むことのできない味方だ。
しかし、あの町長の態度を思い出すと、知佳子の胸はなぜか重くなる。はっきりとは言えないが、どうにも彼を好きになれない。彼と一緒に仕事をするということに、漠然とした不安を覚えてしまう。押しつけがましい口調。高圧的な態度……。きっと高志さんも、彼とかかわることを好まないのではないだろうか。
秋の短い陽はもう、西空を茜色に染めている。高く澄んだ空に流れる鱗雲は紅色に染まり、それを見上げると、稲の穂の香りを含んだ風が知佳子の髪をなびかせていった。
答えを出せぬまま、いつの間にか知佳子は商店街まで来てしまっていた。
蒼い闇の幕の下りた街路には街灯の火がともり、シャッターを下ろした店たちが黒く沈黙している。人通りは相変わらず少ない。しかしその中で、駅前の「すずらん」の飾り窓からだけはまだ明かりが漏れていた。
「おそいなあ、先生。大遅刻だ。ずいぶん待ちましたよ」
喫茶店に入ったとたん、高志さんがいつもと変わりのない皮肉っぽい調子で言葉を投げかけてきた。しかし、知佳子を見つめるその表情は、旅から戻った家族に向けられたそれのように嬉しそうだ。
黄色い灯りが点々とともる木組みの薄暗い天井から、いつも通りのひび割れたピアノの曲が流れてくる。静かだ。自分の身体のふるえと心の動揺が、音として伝わってしまうかと思えるくらいに。
「モーツアルトですね」
気まずさを紛らわすために知佳子が言うと、
「シューマンですよ」
と訂正されてしまった。ますます気まずくなって知佳子は口を閉じて視線を下げてしまう。
黙り込んだ知佳子に何か言おうとして、しかし高志さんは口をつぐんだ。そのかわりに隣の椅子の上に置いた大きな包みを解き、それをテーブルの上にのせた。
「みてくださいよ先生。最後の仕上げを終えたんです。もう、直すところはないんじゃないだろうか」
知佳子が顔をあげると、そこには見慣れた絵があった。彼女と高志さんが議論を重ねながら一緒につくってきた絵。朝日に照らされる街と、それを通りの隅から見上げる黒猫の絵。構図も色も、観飽きるほどに観てきた。でも、観るたびに新鮮だった。塗りかえ、削除し、描き加えるほどに驚きや、発見があった。この絵はもはや、ただの絵ではなかった。絵画作品という物体を超えて崇高な何か。きっと自分と高志さんにしか見えない輝きで包まれた特別な何かであるように、知佳子には思えた。
「完成ですね」
その輝きに照らされた頬をほころばせて、高志さんはにこやかに言った。
知佳子も呆けたように、口を半開きにしながらうなずく。そう。完成だった。もうこれ以上加えることも引くこともないように思われた。もうどうやってもこれ以上のものはこの世に存在しえない、唯一無二の、それは絵だった。
「ねえ、高志さん……」
知佳子はいったん口を閉じ、小さく深呼吸してから言った。それは言い出す瞬間まで彼女自身も思ってもいなかったことだった。
「私と、デート。してくれませんか」
高志さんが目を丸くする。聞き間違いか。そう問いたそうに瞬きをして顔を少し前に出す。知佳子も彼に顔を寄せて、その鼻先に息を吹きかけるように言う。
「涙池に、行きましょう。週末。一緒に」
翌日、授業を終えた知佳子は、今日こそ図書室に行こうと心にきめて国語科準備室に戻った。この日は、図書部休止前の最後の活動日だったから。
他の先生は部活動などの用事で皆出払って、部屋には彼女しかいない。物憂げな午後の陽の這う壁に掛けられた時計の音だけが、放課後の静かな空気を震わせている。自分の事務机に腰掛けた知佳子は乱雑に積まれたテキストや資料類をどけて、引き出しの中から取り出した二枚の紙をその上に広げた。守口君と岩崎さんが書いてくれた、「黒猫の涙」のストーリーだ。まだちゃんと読んでいなかったこれを、今日こそきちんと読もう。きちんと読んで、続きのストーリーも少し考えて図書室に行こう。そして、彼らにも町長から持ち掛けられた話を伝えるんだ。あの絵を発表する計画の話を。この活動に参加している彼らが、あの絵を観てもらった彼らが、それをどう思うのか知りたいから。
守口君のストーリーの最初の行を読みはじめた時だった。準備室の戸を叩く音がして、男の人の声が廊下から彼女の名を呼んだ。
「失礼します」
そう言って部屋に入ってきたのは、炭沼君だった。
「あら。どうしたの」
知佳子は二人のストーリーを裏返して机の上に戻しながら、彼に急ごしらえの笑みを向ける。しかし、彼女のその表情はすぐに冬の日の窓ガラスのように曇った。彼の様子が、いつもと違っていたから。
炭沼君はいつになく真剣な様子で、緊張したように口を引き結びながら知佳子のところに歩み寄る。その表情にいつものさわやかさはない。
「大丈夫? 具合でも悪いの」
知佳子が問うと、炭沼君は姿勢を正し首を垂れた。
「昨日は父が、ご迷惑をおかけしました」
「ああ。そのこと。別にいいのよ」
「いいえ。僕のせいで、先生の大切な活動に父を介入させることになってしまった。申し訳ありません」
「いいのよ」
知佳子は今度こそ笑みを浮かべて、彼を安心させるように柔らかい声でそう言ってあげる。確かに町長があんな話を持ち掛けてきたのはこの子がそれを話したことが発端だろう。しかし、彼を責める気にはならない。彼はきっと悪気なんかなかったのだろうから。
「もし、先生が父の提案を受け入れるなら、僕にも手伝わせてください。きっとお役に立てると思います」
そんな殊勝な言葉をかけてくれる炭沼君を見上げると、彼の目にはうっすらと涙がにじんでいる。知佳子は立ち上がって彼の肩に手をかけ、ゆりかごを押すような優しさでゆすってあげる。
「ありがとう。でも、まだ受け入れるかどうか決めてないの。だから、君はあんまり思い悩まないで」
そして知佳子は彼の身体を回れ右させて、部屋の外へいざなおうとする。どうか君は、気にせずいつもどおりの君の生活を続けて。そう語り掛けながら。
「せんせい……」
顔を伏せ、そう絞り出した炭沼君の声はふるえている。知佳子は立ち止まって彼の顔を覗き込む。ひょっとして泣いているのだろうか。優しい子だなあ。そしてそんな彼を気遣える私も、なかなかいい先生になってきたのではないだろうか。そんなことを思った瞬間、突然彼女の身体は強い力で引っ張られた。
「えっ。何?」
気がつくと、知佳子の身体は壁に押し付けられていた。目の前十センチほどの距離に炭沼君の胸がある。彼の両手が知佳子の顔の左右の壁面をついている。いわゆる壁ドンというやつだ。しかも両手での壁ドン。しかし少しも胸はときめかない。まるで牢に押し込められているみたいで、ふいに知佳子は怖くなる。
「ねえ。どうしたの? やめなさい」
「知ってるでしょう、先生。僕の気持ち」
「えっ。どういうこと……」
「ああもう。察しの悪い人だな。いい加減気づいてくださいよ」
突然彼の口調が荒くなったかと思うと、知佳子のあごが彼の手でつかまれた。無理やり上を向かされた彼女の目の前に炭沼君の顔が寄せられる。テレビに出てくる人気アイドルのような、美しい整った顔。その顔にかかる髪の下の、知佳子を見つめるその両目に、熱のこもった表情を宿して。
「僕は、あなたのことが好きなんですよ。僕ならあなたの願いを何だって叶えてあげられる。悩むことはないでしょう。僕と付き合ってくださいよ。そうすれば、幸せにしてあげますよ」
粘っこい口調でそう言うと、彼は知佳子のあごから手を離した。指の先で知佳子のブラウスの、首もとについたリボンをもてあそびながら、薄くほほ笑む。
「そうすれば、お互いに利益があるじゃないですか。僕は好きな人と一緒になれる。あなたは絵を世に出せて、この街での自分の地位も居場所も確立できる」
「でも……」
知佳子は炭沼君から目をそらし、斜め下を見つめながら、優しく彼の身体を押し戻した。
「でも?」
知佳子に抵抗せず体を離した炭沼君はそう聞き返す。ほかに選択肢なんかない。そう言いたそうな余裕のある声音で。それに対し知佳子は何も答えることができない。教師と生徒が関係を持つなんて、そんなことはいけないことだ。でも……。でも、彼が卒業した後は? その時、自分はその選択肢を選ばないと断言できるのだろうか。
「でも……。今はあなたは生徒で、私は教師で……」
「ま。せいぜい悩んでください。どのみち親父には……、僕の一族に逆らうことなんかできないんだ」
そう言い残して炭沼君は、軽い足取りで準備室から出ていった。
ひとり部屋に残された知佳子は、急にひどい疲労を感じて自分の椅子に座りこんだ。校庭から届く生徒たちの声が、妙に遠く感じられる。机の上に出してあった二枚の紙を読まずに引き出しに戻して、彼女は帰り支度をはじめた。




