2-4 恵の憧れ1
この夏が、ずっと続けばいいのに。
頭上に大きく盛り上がる入道雲を見上げながら、わたしは切に思った。
高校三年の夏休み。わたしは生まれて初めて男子から告白された。告白といっても、「好きかも」と言われただけだが。それでもわたしにとってはそれは決して自分に向けられることはないだろうと思っていた、奇跡のような言葉だった。
相手は同じクラスの守口公明。春からできた、わたしが部長を務める図書部の、唯一の部員だ。
彼のことは正直はじめはあまり好きではなかった。だっていつも顧問の知佳子先生のお尻ばかり見ていたから。いやらしい奴。でも実はそれなりに誠実で、趣味も合うのでいつの間にか意気投合していた。この牛乳瓶の底のような眼鏡と地味な雰囲気のために、同性からも異性からも相手にされてこなかったわたしが、そんな彼を好きになるのに時間はかからなかった。
知佳子先生も彼のことは気に入っていたようだ。それも自分が公明のことを好きになる理由の一つだったように、わたしは思う。新田知佳子先生こそ、わたしの一番好きな人だったから。図書部の顧問で、ちょっと怖いところもあるけれど、落ち着いていて、知性的で、優しくもあり誠実でもあり、そしてちょっと弱い。男子は先生のことをオニッタ(鬼+新田)だのサバヨミ(先生の歳を疑っている。二十七だよ。本当に)だのとあしざまに言う。だけど容姿だって、地味を装っているけれど、かなりの美形であることをわたしは知っている。知佳子先生こそ、わたしのあこがれの女性だった。先生のようになりたい。そう思いこがれるほどに。
だから告白されて一夜明かしたこの日、図書室でその大好きな知佳子先生と、そして公明と一緒に本を読んだり、話をしたりした時間は、幸せでならなかった。昨晩はうれしくて一睡もできなかった。
今、この時が永遠に続けばいいのに。
わたしは公明と手をつないで夕暮れの街を歩きながら、また心からそう思う。この夏が、この日が、この時間が、いつまでもつづけばいい。
夏休みも、わたしは学校の図書室に通っていた。そこで本の整理をしたり、本を読んだり、勉強したりする。公明も、知佳子先生もいて、彼らと話をしたり、勉強を教えてもらったり、時には人生相談にのってもらったりと、それがわたしの夏休みの日常だった。そして時々帰り道に喫茶店による。たいがいは公明と二人だが、知佳子先生が一緒の時もある。
駅前の喫茶店「すずらん」は、わたしの父がやっている暇な店だ。その日も、壁際の隅の薄暗いテーブルを囲んで、知佳子先生と公明とわたし、三人でお茶を飲んでいた。
「それで、二人は進路をもう決めたの?」
公明がちょっと首をかしげる。
「何かを創り出す仕事がしたいとは思いますが、まだ、具体的なものはなかなか……」
そう言って、奥の窓際の席に目を向けた。
「岩崎さんは?」
「はい。わたしは……」
わたしは決まっています。ずっと前から。
「わたしは、教師になりたいです。あの、その、先生みたいな……」
言っちゃった。ちょっと恥ずかしくて、わたしは頬をほてらせてうつむく。ちらりと上目遣いに先生を見やると、知佳子先生は柔らかに目を細めて微笑んでいた。そうなの。心から嬉しそうにそう口ずさんで。わたしの胸に温かいものが満ちる。ああ、やっぱり先生は素敵。この人みたいになりたい。改めてわたしはそう思う。
「ところで岩崎さん。例の絵本のストーリーだけど、進捗状況はどうかしら」
「あ。え、えーっと……」
突然の先生の質問に、わたしは隠し事を問いただされた子供のように頭をかきながら斜め上を見上げた。
夏前に先生が図書部の新活動として企画した絵本作り。そのストーリーを公明とわたしと先生の三人で分担し、リレー形式でつくることになっているのだが、公明から引き継いだわたしの分のストーリーは、まだ出来上がっていない。
「えーっと。まだです」
そう、か細い声でやっと答えてから、わたしは公明を横目でにらむ。
「公明君がずいぶん改変するから、なんだかちょっと難しくて、これだ、っていうストーリーがなかなか考えつかなくて……」
そう。この街に伝わる「黒猫の涙」というお話をもとにした絵本、という企画だったのに、トップバッターをうけもった公明ときたら、全然違う登場人物を出してくるんだから。何だよ、ちーちゃんって。あれ、ぜったい知佳子先生がモデルでしょ。
わたしの抗議を含めた視線などものともせず、公明は得意げな顔でお茶をすすっている。こいつめ。骨の髄までスケベな奴。
「大丈夫だよ。時間をかけても。秋ぐらいまでに作ってくれれば」
今にも口喧嘩の火ぶたを切って落としそうなわたしたちをニコニコみつめながら、先生は優しく言ってくれた。
「冬までにはストーリーを完成させましょう。それを彼に渡そうと思っているから」
ちょうどそのとき入口の鈴が鳴って扉が開いた。入ってきたのは大きな絵を抱えた青年である。
「じゃあそろそろ、僕たちは行こうか」
公明がそう言って、わたしを肘でつつく。わかっているわよ。わたしもそう耳打ちして、彼と一緒に席を立つ。
「なあに。ふたりともニヤニヤして。そこにいてもいいのよ」
「いいえ。遠慮しときますよ。なんだかいたたまれないので」
「ごちそうさまです。先生」
「デートじゃないんですからね。デートじゃ」
もう、大人をからかわないの。そうどぎまぎと言いいながら先生はコーヒーにスプーンを突っ込んでかき回す。動揺しても先生は素敵だな。そう思いながらわたしは、コーヒーが飛び散ったことには気づかないふりをして頭を下げ、後ろ髪ひかれる思いで店を後にした。
どこかに行こうか迷ったが、結局どこにも行かずに喫茶店の前のベンチに腰を下ろした。公明が近くの露店でかき氷を買ってきてくれたので、二人並んで仲良くそれを食べる。わたしは夏の夕焼けのような赤さのストロベリー。公明は涼し気な若葉の色のメロン。
喫茶店の窓辺を見ると、知佳子先生とさっきの青年が向かい合って座り、立てかけた絵を挟んで話し合っているのが見える。この青年のことはわたしも公明も知っている。知佳子先生が発案した企画に力を貸してくれている人だ。画家なのかどうかわからないが、とにかく先生のために絵を描いている。この街を喧伝するための絵、らしい。そして、わたしたちがつくったストーリーに絵をつけてくれるのも、この人だ。
「あの人が、本当に先生の恋人なのかなあ」
「わからないけど、でも、きっと先生はあの人が好きだと思うよ」
公明の言葉に、わたしは首をかしげながら頷く。やせっぽちで、衣服も整っているとは言えない。髪はぼさぼさで眼鏡をかけていて、何だかもっさりしている。だけど、なんとなく優し気だ。
大丈夫かなあ。なんだか、頼りないなあ。と、わたしは思う。でも、彼と話しているときの先生は、とても楽しそうだ。
やがて先生と青年の二人は議論をやめて本を読みはじめた。いい光景だな。そう思いながら見とれていると、先生がこちらをふと向いて、微笑みながら手を振ってくれた。わたしもストローをくわえながら手を振り返す。また、胸に温かいものがこみ上げる。
幸せだなあ。
わたしはこの日何度目かのその感情を、心からかみしめた。




