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2-3 公明の憧れ3

「守口君。何かあったの」


 知佳子先生が声をかけてくれたのは、一週間後の古典の授業の後である。しかし俺は言葉を濁してろくに返事もせず、逃げるように教室から出た。一瞬、心配そうに眉を寄せてこちらを見ている彼女の姿が視界に入ったが、俺は振り切るように扉を閉めた。


 その日一日、俺は知佳子先生を避けて過ごした。

 翌日も。そのまた翌日も。


 そんな俺が知佳子先生から呼び出されることもなかった。彼女を無視して以来、声をかけられることもない。

(所詮俺はただの生徒だったのだ。その他大勢の、一人でしかなかったのだ)

 それなのに自分は勝手に彼女にあこがれて追いかけまわして……。そんな自分がいまさらとても恥ずかしいものに感じられる。それでいて、やはり彼女と触れ合えない毎日が、何だか物足りなく寂しいものに感じてしまうのを、どうすることもできないでいるのだった。




 そうしているうちに一学期が終わってしまった。


 終業式後の、夏休みの街へと繰り出してゆこうとする生徒たちで騒がしい教室の隅で、俺は恵に呼び止められた。

「ちょっと、こっち来なさいよ」

 彼女に連れてこられたのは、図書室だった。しかし、知佳子先生はいない。本棚に押し付けられるように立たされた俺の前で、恵は仁王立ちになって眉を逆立てた。


「あんた何なの。先生のこと無視して。姿も見せないで。先生、心配してたよ」

「……心配なんて、してないだろ」

 そう言って俺はそっぽを向く。そんな俺に恵はさらに詰め寄り、

「心配してたよ。とても」

 そして、彼女自身も心配しているかのように眉根を寄せた。

「一体どうしたの。ふてくされちゃってさ。あんなに先生になついていたのに。先生があんたに何をしたっていうのさ」

 俺はそっぽを向いたまま鼻で笑う。

「あの、喫茶店で……」

 いったん口を閉じてから、思い切るように息を吸って、俺は言った。

「先生の、あの時の表情……。あれを思い出すと、俺はたまらない気持ちになるんだ。どんなに俺が慕っても、先生は俺なんかに心は開いてくれない」


「馬鹿じゃないの」

 恵は声を荒げた。さらに詰め寄り俺の顔に唾がつきそうな勢いで、彼女はまくし立てた。

「あんたひょっとして先生と恋人気取りだったの。馬鹿じゃないの。うぬぼれないでよ。あんたみたいな子供に先生が惚れるわけがないじゃない。あんたはいつも先生に教えられ、導いてもらって、甘えていただけでしょ。あんたはその先生に、いったい何をしてあげたっていうの」

「そうさ。だから俺は、あの人には不用な人間なんだ」

「馬鹿っ」


 恵はもう一度、言った。この馬鹿。と。

「出会って、触れ合ってきた人に対してそんなことあるわけないでしょ。有用とか、不用とかでわりきらないで。先生はちゃんとあなたを見ている。そしてあなたをかわいいと思っているのよ」

「どうしてお前に、そんなことがわかるんだ」

「わかるわよ。毎日図書室で見ているもの。あなたが来なくなってから、先生を避けるようになってから、何度もため息をもつくようになったあの人の表情を、気が付けば寂しそうに窓の外を見ているその横顔も」


 俺は自分の頬にかかった唾を拭きもせずに、恵を唖然と見つめていた。その牛乳瓶の底のようなメガネの下に小さな雫が垂れ、そして光った。

 俺は恵の顔に手を伸ばし、抵抗もしない彼女の眼鏡をそっとはずしてやる。厚い眼鏡の下から現れたのは、いっぱいに涙をたたえた、茶色の美しい瞳だった。そのうるんだ杏仁型の目にかぶさる長い睫にも、目じりにも、涙が宿ってきらめいている。


 一滴、またひとしずくと、涙は恵の頬をつたい落ちていった。

「ねえ、来てよ図書室に。みんなでまた本の整理しようよ」

 そう言うと、恵はすべての力を使い果たしたかのように、俺の体に倒れこんだ。

 自分の胸に顔を押し付け泣いている、恵のその柔らかな背に触れてよいものか途方に暮れながら、俺は本棚に背を預け、ようやく暮れようとしている夏の窓辺を見つめていた。




 夏休みでも三年生は補習授業があり、図書室もあいている。

 俺は休み最初の補習授業の日、その放課後に恐る恐る、図書室を訪れた。


 知佳子先生はいないかと思われたが、奥の棚のほうからがさごそと音がする。棚と棚の間を進んでゆくと、知佳子先生が、椅子の上にのって、分厚い本を棚の最上段に入れようとしているところだった。

「先生……」

 そう、呼びかけると、先生はこちらを向き、そしてはっと目を見開いた。それと同時に椅子が傾き、バランスを崩した彼女はそこから落ちそうになる。


 危ない。俺はとっさに知佳子先生を支えようと、その体にしがみつく。椅子が倒れる音がし、その隣に俺も、先生の下敷きになる格好で尻もちをついていた。

 床は硬くて尻は痛かったが、体は密着する知佳子先生の暖かな感触と匂いに包まれている。


「ごめんね」

 謝りながらすぐに体を離した先生は、まだ何か言いたそうに口を開いたがまたすぐに閉じ、俺の顔を見ると気まずそうに目を伏せた。

「そこに、座りなさい」


 俺と先生は向かい合って座る。いつかこっぴどく説教をされた日、何度となく進路の相談にのってもらった日々と同じように。すぐに説教がはじまるのかと思ったが、先生はなかなか口を開かなかった。何を話したらいいのかわからないというような、困惑した表情で俺を見つめている。


「久しぶりね」

 ようやく発したのは、そんな言葉だった。

「毎日、授業であってますよ」

「ここに来るのは……」

「試験勉強が忙しかったので」


 俺は己でもわからぬ衝動で、自分がだんだん不機嫌になっていくのが分かった。なんだこのやり取りは。俺は、何をしに来ているのだ。怒られると思った。悪いのは俺だ。なのにまるで先生は俺に気を遣うようにして……。怒ってくれよ。そうでなければ、諦められないじゃないか。嫌いになれないじゃないか。


「それに、俺がいつも付きまとっていたら、恋人と楽しめませんしね」

 つい口から出た皮肉に、俺自身も驚く。こんなことを言うつもりはなかった。傷つけようという気もなかった。俺は本当は、謝るつもりで来たというのに。


 一瞬ぽかんと口を開けた知佳子先生は、表情をこわばらせると、中指を眼鏡に当てようとした。しかしすぐにその手を下ろし、苦笑して小さく息を吐く。

「あの人はね……」

 そして、先生はあの青年について話しはじめた。この街を喧伝する絵を描くという彼女の企画。それにのってくれた唯一の絵描きがあの人だったこと。彼の描いたその絵について、ずっと彼と二人で議論を重ね、修正を加え続けてきたこと。


 青年画家のことを話すときの先生の表情は晴れやかで、思い出すようにちょっと上を見上げている彼女の瞳や眼鏡のふちが、きらきらと輝いている。俺はふと、同じような表情を以前どこかで見たことがあったと思う。そうだ、あれはたしか、恵が自分の実家の喫茶店を眺め渡していた時の表情だ。


「……好きなの?」


 思わず問いが出た。皮肉でもなく、揶揄するわけでもなく。ただ人間の当然の感情を確認するように。

 先生は応えなかった。ただ困ったように俺を見つめた彼女の頬が、うっすらと紅色に染まってゆく。

 先生の表情の変化をまぶしく眺めながら、俺は思った。これは、かなわないな、と。


 俺の心はいつしか凪いだ水面のように穏やかになっていた。嫌いになんてなれるわけがないではないか。好きでいることもやめられない。たとえ彼女の心が俺になくても。彼女にとってただのかわいい生徒でしかなかったとしても。いや。せめて、彼女の一番かわいい生徒でありたい。


「俺もいつか、先生から教えられるだけでなく、何か先生のためにしてあげられる人間になりたいな」

 知佳子先生の顔にいつもの柔らかな笑みが広がった。

「そのころはきっと私はもう、いい年のおばさんね。あなたの横には、若くて素敵な恋人がいるんだろうな」

 先生が笑う。俺もつられて笑いながら、

「それでも俺はきっと、あなたのことを尊敬することをやめないでしょう」


 恋愛とか、結婚とか、そういうことを抜きにして。それを超越した存在なのだと思う。

 午後の陽ざしが入り込む窓際で、今開いたばかりの花のように微笑む知佳子先生を、本当に美しいと俺は思った。決して触れることのできない、気高い高嶺の花。


「あ、そうだ」

 俺はふとあることを思いついて、彼女にたずねる。数カ月前にはこっぴどく怒られたこと。でも、今なら許してもらえそうな気がする。

「写真撮っていいですか。先生のお姿を」


 先生は一瞬きょとんとした表情になり、長いまつ毛をゆらして瞬きを繰り返した。しかしすぐにその大きな瞳に、白い頬に笑みが広がってゆく。

「いいよ」

 優しい声でそう言って、先生はまたちょっと頬を赤らめ、髪を整えだした。

「きれいに撮ってね」


 うなずきながら俺は鞄からスマホを取り出し、先生にレンズを向ける。

「ちょ、ちょっと待って。まだポーズが……」

「撮りますよー」

 ファインダーの中で先生が慌てた様子で姿勢を正し、はにかんだ笑みをつくる。決して忘れまい先生の姿も、表情も、心も。焼き付けるんだ。写真だけでなく、自分の胸に。

 念じながら、俺はゆっくりとシャッターを押した。


   * * *


 高原の寂しい街に、小さな雄の三毛猫が住んでおりました。彼の住処は段ボール。家族も友達もおりません。


 ある雨の日、段ボールの中で鳴いていた彼に、餌をくれる人がおりました。細くて色白で、眼鏡をかけた女の子。彼女は彼を抱き上げて、頬を擦り付けながら言いました。

「こんなに濡れて。おいで。一緒に遊ぼうよ」



 ちーちゃんは口下手で、ひとりで本ばかり読んでいる女の子でした。彼女にも友達はいないようです。彼女はいつも下を向いていて、その頭の上にだけ、いつもどす黒い雲が立ち込めているようでした。


 しかし猫にはわかっておりました。ちーちゃんが本当はとても優しい子だということが。彼の頭をなでてくれる手に。彼を呼ぶ声に。餌をむさぼる彼を見つめるときのほほ笑みに。それはにじみ出ているのでした。


 ちーちゃんは猫にいろんなことを教えてくれました。遠い外国の話。星の話。大昔の偉い人の話。南の海の美しさ。遠い大都会の賑わい。


 ある日、ちーちゃんが猫の頭をなでながら言いました。

「私もいつかいきたいなあ。大都会。でも、私なんか、どこにいったって……」

 猫は、ちーちゃんの頬に落ちた涙をなめました。いつもひとりぼっちで、寂しそうな顔をしているちーちゃん。僕に食べ物をくれるちーちゃん。僕の頭をなでてくれるちーちゃん。僕にいろんな話をきかせてくれるちーちゃん。僕は、君のために何かしたいよ。


 三毛猫にできることは願うことだけでした。だから彼は願いました。どうか神様。ちーちゃんに光を与えてください。ちーちゃんの頭の上にある暗雲を取り払ってください。そのために僕の身体が黒い雲に覆われてしまっても構いませんから。どうか。と。


   * * *


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