2-2 公明の憧れ2
図書室の大机の上に知佳子先生がばらまいたのは、何冊かの絵本だった。
なんですか? これは。俺がそう問いかけるように見上げると、先生はそのシャープなスクエア型のメガネに人差し指を当て、口の端をあげた。
「絵本よ」
見ればわかります。俺が訊きたいのはこれを持ってきた真意なのですが……。それを声に出して言う前に、向かいの席の恵が、授業中には見せないような元気さで手をあげた。
「わかった。朗読会!」
先生は手を腰に当て、眼鏡にあてていた人差し指を顔の前に出して、メトロノームのように左右に振った。片目を閉じてみせながら。チッチッ。違いまーす。そう言おうとするかのように。しかしウインクが下手なので、まるで腰の痛みを必死で訴えかけている人のように見える。
「創るの。絵本を」
そして知佳子先生は彼女が考えたその企画について語ってくれた。
企画の内容はこうだ。
この街に古くから伝わる伝説「黒猫の涙」のお話を絵本にしようというのだ。そのストーリーをアレンジして。ハッピーエンドにして。分量は六枚。三人で分担して、リレー形式でお話を創ってゆく。
「でも、俺、絵なんか描けませんよ」
俺があげる抗議の声に、恵も同調した。
「あたしも。美術のセンスはゼロ」
「先生もだよ。でも、安心しなさい」
知佳子先生はこともなげに言って、また下手くそなウインクをした。俺たちの不安を解きほぐすつもりなのだろうが、今度のは自らの絵心のなさを嘆き悲しんでいるように見える。そのウインクはやめた方がいいと教えてあげるべきだろうか。
「絵の方はまあ、任せておきなさい。君たちが考えるのは文章の方だけ。それじゃあ、一番手は守口君ね」
「え? 言い出しっぺの先生じゃないんですか」
「私は締めをやりたいので」
なんと身勝手な。半ば呆れながら、いつもの癖で髪の毛を指でこねくり回そうとした俺の目の前に、知佳子先生は先ほどばらまいた絵本を一冊ずつ差し出した。
「資料は持ってきたから、これを参考にして創ってみて」
ゆるいキャラクターたちが笑っている、カラフルな表紙に描かれた題名を俺は口をゆがめながら見つめる。「あかずきんちゃん」「ないたあかおに」「てんまでとどけ」……。どこまで本気なんだろう、この人は。
「ところで、進路については、目星はついた?」
計画発表のあと、知佳子先生は俺の隣の席に座って、髪を耳の後ろにかきあげながら問いかけてくれた。一瞬ふわっと、いい香りが鼻先をかすめる。それが香水の匂いなのか、大人の女の人特有のそれなのかは、俺には分らない。ただ、耳元で先生の声をきき、その匂いを吸い込んだ刹那、苦しいような、切ないような気持ちが俺の胸を締め付けた。
胸の鼓動と頬のほてりを悟られないように、わざとけだるそうなため息をつきながら、俺は目の前に置いた「しょくぎょうずかん」に視線を落とす。
「面白そうって、感じるのはありました」
「どんなの?」
「冗談みたいと言われるかもしれないけど、小説家とか。あと、工芸家とか建築士とかも、面白そう」
あとは、大工、デザイナー、映画監督……。指折り数えながら、俺の声はだんだん小さくなってゆく。なんだか、どれにもなれる気がしない。俺みたいな無気力な人間には不釣り合いで、笑われてしまいそうだ。
隣に視線を向けると、知佳子先生はテーブルに片肘をついて、笑いもせずに俺を見つめてくれていた。
「す、すみません。なんだか、非現実的、ですかね」
「ううん」
先生は首を振って、また髪を耳の後ろにかきあげ、頬杖をついて窓の方を見やった。遠くを見晴るかすような、ちょっと夢見がちな表情をして、彼女は言う。
「君はきっと、何かを創る仕事がしたいんだよ。そういう道を、探せばいいと思う」
いつの間にか雨はあがっていたようだ。図書室内が明るくなって、さしこんだ白い光が先生の頬を輝かせた。
「その所を得る」
知ってる? と、たずねるように知佳子先生は俺の顔を覗きみる。俺が答えられないでいると、先生はその言葉について説明してくれた。
昔、中国に子産という偉い人がいたの。ある日立派な鯉を送られた彼は、それを庭の池に放ちました。何日か経ってから池に様子を見に行くと鯉がいない。庭番に尋ねると、彼が言うには鯉は池を飛び出して海のほうへと泳いでいったとのこと。
「それをきいた子産はどうしたと思う?」
「怒った」
知佳子先生は首を振って、
「彼は言ったの。やはりあのような立派な鯉にはこの池は狭すぎたようだ。ようやくそれにふさわしい場所を見つけたのだろう。その所を得る、か」
そして知佳子先生は俺を見つめる目を細めた。あなたも、あなたにふさわしい場所を見つけて、そこへ行くのよ。そう言いながら。
午後の光に包まれた知佳子先生の顔が、とても柔らかなふわふわしたものに満たされているようにみえた。柔らかで、優し気で。見ているとなんだかうれしくなって、胸も暖かくなるようで……。
先生は、こんな人だったか。
俺は思う。そうだ。俺は知っていた。本当は先生はこういう顔をした人なんだ。こういう優しい顔をした人なんだ。そして俺は、この顔を見に、また明日も彼女に会いにここに来る。はじめは近寄り難い先生だなと思っていた。しかし一緒にいるほど、親しく言葉を交わすほど、彼女のそばにいることが、なんだか妙にうれしくて楽しくて、温かい。彼女から離れているとそわそわして落ち着かなくなるほどに。
「俺……、ひょっとして、先生のことが、好きかも」
つい俺が口を滑らすと、先生は真顔になって眼鏡を中指で押し上げた。眉間にしわを寄せて目を閉じる。彼女が俺を叱るときの癖だ。
「そういうことを言うと、怒るよ」
すみません。俺は素直に謝るが、罪悪感はなかった。この感情は、彼女と過ごすことにより得た、崇高なものだと感じていたから。
木曜日は知佳子先生ははやく帰ってしまう。だからその曜日だけは先生の帰宅後、俺と恵がしばらく本を読んでからかたずけをして、戸締りもする。しかしその週の木曜は、先生は最初からいなかった。俺が図書室に入ったとき、恵がひとりで本をいじっていた。
俺の顔を見るなり、恵はメガネを光らせてにやりと笑う。
「ねえ、駅前通りの喫茶店に行こうよ」
先生もいないことだし、特にやることもないので俺は彼女の提案に従った。
駅前通りにある喫茶店「すずらん」は、今日も閑散としていた。もともと繁盛していない店だったが、大通りにチェーンの有名な店ができたおかげでほとんど客が入らなくなり、近年の空き様は絶望的だ。
どこにでも座り放題なのに、わざわざ窓から離れた隅っこの薄暗い席で、俺と恵はジュースをすすっていた。
店内は異様に静かだ。窓から差し込む光が、それぞれのテーブルに置かれた花瓶や、砂糖を入れたケースをきらめかせている。木組みのされた天井から、ひび割れたピアノのBGMが流れてくる。
「いい雰囲気でしょう。私、この静けさが好き」
「しかし、みんなは大通りのほうへ行ってしまうがな。お前は変わっているな」
「実家だから。私の」
俺は恵の顔を見つめた。厚い眼鏡のせいで表情がよくわからないが、唇をすぼめ、ちょっと恥ずかしそうに口の端をあげている。その表情のまま顔を上げたかと思うと店内を見渡す。もうボロボロだけれど、好き。そりゃそうだよね。だって、小さいころからの思い出とかそういうのがみんなしみついているんだよ。
薄暗い席だけれど、橙色の照明の光を受けて恵の眼鏡がきらきら輝いている。
本当に好きなんだな、この店が。俺は思った。俺も嫌いではないよ。いい店だと思う。
そう、伝えようと口を開きかけた時、鈴の音が鳴って店の扉が開いた。入ってきたのは大きな絵を抱えた青年だった。
珍しいな。そう思いながら窓際の奥の席に座ったその男を見ていると、五分ばかりしてまた入口の鈴が鳴った。
「今日はえらく繁盛してるじゃないか」
「うん。珍しいね」
恵は言ったまま息をのみこんだ。俺も振り向いてすぐに顔を伏せる。
知佳子先生だ。
メニューで半分顔を隠し様子をうかがう俺たちには気づかずに、知佳子先生はまっすぐ画家の座っている席へと向かっていった。
「よう、先生。遅刻だぜ」
「あなたが早いのです。まだ約束の十分前ですよ」
そんなことを言いながら先生が席に着くや否や、青年は無遠慮ともいえるしぐさで隣のテーブルに絵を立てかけ、何か説明しだした。
知佳子先生も身を乗り出し、熱心に彼の話を聴いている。先生が時々指をさして何か質問したりすると、青年は得意げな顔になり、手ぶりを交えて解説する。そのたび、先生は感心したふうにうなずいたり、首を傾げたり……。そんなときの先生の表情は、いつも教室にいる時とは全く違っていて。図書室にいる時よりも活き活きとしていて。まるで……。
(まるで、先生ではないようだ)
そう、確かにそこにいるのは、生徒の前で毅然としている教師ではなく、一人の若い女の人だった。
「おい、出よう」
俺は恵を肘でつついて、彼女と一緒にこっそりと店を出た。街路を渡って振り返ると、絵の話は終わったのか、店の窓辺で向かい合って本を読んでいる二人の姿が見えた。青年が顔を上げて何か言うたび、先生が口に手を当てて笑う。
俺は歯ぎしりをし、店に背を向け、足早にその場を去った。
「びっくりしたね」
恵が俺についてきながら言う。
「先生、あんなとこで何やっているのかな」
「さあ」
「誰なのかなあの人。……恋人、だったりして」
その瞬間、腹の底から冷たい手のようなものが伸びて、俺の心臓を乱暴につかんだ。立ち止まってふり返り、恵をにらみつける。
「知らねえ。興味ないし」
その語気の鋭さに恵はおびえた様子で半歩あとずさった。
「どうしたの。あ、そうだ。本屋寄ってこうよ。私ほしいのがあるんだけど、なかなか見つからなくてさ……」
「一人で行けよ。俺は帰る」
呆然と立ちすくむ恵をそこに残して、俺は長い橙色の光の差し込む街路を駆けた。
翌日、俺は放課後の図書室を訪れなかった。




