第3話
第三話
彼女と遊ぶ日々が続き、僕らは中学三年生になった。
変わったことと言えば、集合場所がカードショップではなく、あの分かれ道となる交差点の近くにある、小さな公園になったこと。それと、ゲームセンターや映画に行くことが増えたことくらいだ。カードゲームだけじゃなく、僕らは“普通の中学生”みたいに遊ぶようになった。
あとは――僕の持っていた中で一番強い「ネクスト」のデッキを、彼女にあげたことだ。このデッキは友達に人気なデッキだったので、友達には、カードショップで売って手持ちから消えた、とごまかした。
「え、ほんとに!?」と驚いていた彼女に、「飽きたんだ、このデッキ。強すぎてつまんなくなっちゃって」と言ったら、彼女は満面の笑みで「ありがとう」って言ってくれた。
……かわいい。この笑顔を見て、何度そう思っただろう。そして、そのたびに、ずっと彼女のそばにいたいと思った。
「……面白かった」
読み終わったばかりの恋愛小説を胸に抱えたまま、僕はしばらく動けなかった。
ページをめくるたびに、主人公とヒロインの距離が少しずつ近づき、やがて互いにかけがえのない存在へと変わっていく。その結末に、僕は人生で初めて、小説で涙を流した。
感動の余韻が胸の奥にじんわりと残る中、スマホを開いて、プロフィール欄のステータスメッセージを更新した。
『物語のような青春を過ごしてみたい』
次に読む本を探そうと本棚を漁っていると、スマホが鳴った。彼女からだった。
『おっはよ〜!起きてる?ねぇ、今年から私たち中学三年生年生だよね?そろそろ受験のことも考えようかなって思って、あのショッピングモールに参考書買いに行こうと思ってるの。でも私そういうの詳しくないし、君も一緒に来てくれない?無理ならいいんだけど……よろしくね!』
この町で一番大きなショッピングモールは、放課後や休日は中学生の溜まり場みたいになっている。そんな場所で、僕が彼女と一緒に参考書を選んでいるところを友達に見られたら――確実に「付き合ってるの?」とからかわれるに決まっている。
……でも、断る理由はなかった。彼女には“僕しかいない”と知っ ているから。『もちろん、いいよ』と返したあと、ふと画面の上に表示された日付を見て、気づく。
今日は――土曜日だ。
いつも日曜日しか予定を入れてこない彼女が、なぜ今日誘ってきたのか。そのことに小さく胸がざわついた。
公園のブランコに揺られながら、僕は彼女を待っていると、十分ほどして、遠くから風を切る自転車の音が聞こえてきた。
「ごめ〜ん、待った?」
「いや、僕も今来たところ」
「え、ってことは君も遅刻じゃん!もし私が時間通りに来てたらどうするの〜?」
「でも、来てなかったよね」
「……たしかに!お互い様だね!」
彼女は小さく笑い、マスクの下から漏れた声が、春の風に混ざって消えていった。
「じゃ、出発しよっか……あ、でもその前にちょっとトイレ行ってくるね」
そう言って、公園のトイレに向かって走っていく。
最近、彼女はやけにトイレが近い。今日も、マスクをしている。時々、お腹を押さえているのも気になっていた。
でも、僕はそれについて何も言えなかった。
彼女のプライベートに踏み込むなんてことはできなかった。
「そういう日もあるよな」って、見て見ぬふりをすることで安心したかったのかもしれない。
ショッピングモールに着くと、知り合いの顔がちらほら見えた。僕は咄嗟に視線をそらす。気づかれたくなかった。
「なんか元気ない?」
「ううん、大丈夫。なんでもないよ」
彼女は心配そうに僕を見つめたけれど、僕はそれを曖昧な笑顔でやりすごした。
参考書売り場で、彼女は棚の前に立ち尽くしていた。
「うーん……どれがいいのかわかんないや」
母は僕の志望校の高校の教師をしている関係で、受験情報には少し詳しい。僕はおすすめの参考書を数冊手に取って説明した。彼女は真剣に聞いてくれていたけど、しばらくすると、その肩が小さく震えていた。目元も、どこかうっすら赤かった。
疲れているんだろうか――いや、違う。なんとなく、そんな気がした。僕は胸が苦しくなって、彼女に言葉をかけることができなかった。結局彼女は「こんなに高いなんて思わなかった!」と言って、参考書を買うのはまた後日、ということになった。
「ちょっと……トイレ行ってくるね」
まただ。今日だけで何回目だろう?僕は気づかないふりをしながら、頭の中に「?」が積み上がっていくのを止められなかった。
数分後、彼女が戻ってきた。
「ちょっと待ってて、すぐ戻るから!」
そう言って彼女が小走りで向かったのは――百均だった。
僕は店の前の椅子に座り、ただぼんやりと彼女の背中を見つめていた。そしてすぐに戻ってきた彼女は、少し息を切らしていた。
「はいっ、これ!」
手のひらに乗せられたのは、小さな黒い天使の人形。彼女のバッグについている、白い人形とおそろいの色違い。
「……え、いいの?」
「うん、おそろい。これが今日の本当の目的だったの。参考書はついで」
僕はそっとそれを受け取り、申し訳なさそうにバッグへとしまった。
「……ありがとう。いつか、お金返すよ」
「ばかだなあ。そういうの、返すもんじゃないんだよ。プレゼントって言葉知らないの?」
その笑顔には、ほんの少しだけ――寂しさがにじんでいた。
「じゃあ、帰ろっか」
このあとは何も予定がなく、もう帰るだけと分かっている僕はそう言うと、彼女が僕の肩を軽く叩いた。
「……ちょっと話したいことがあるの。だから、あの交差点まで、歩いて帰らない?」
少し視線を落としながら、彼女はそう言った。僕の鼓動が高鳴る。もしかして……なんて期待を抱きかけて、すぐに打ち消した。
「……うん、いいよ」
自転車を押しながら、僕たちは並んで歩き始めた。いつもの交差点で信号が赤に変わり、僕たちは止まる。少し気まずい空気が流れていた。すると突然、彼女が突拍子もないような言葉を告げた。
「……私ね、昨日、余命宣告されたの」
耳を疑った。鼓動が一瞬で止まり、空気が凍りつく。僕は息が苦しくなる感覚に見舞われた。
「え……?」
「実は……私、大腸の癌で、ずっと入院してるの。ほら、いつも日曜しか会えなかったでしょ?あれ、外出許可がその日しか出なか
ったから……」
胸が締めつけられた。
彼女の笑顔の奥に、そんな重い現実が隠されていたなんて。僕は動揺のあまり、茫然としてしまった。
「それで、昨日、検査があって……『余命は夏の終わりまでです』って言われた」
彼女の声は震えていなかった。でも、その静けさが、逆に胸に突き刺さった。
「……私、死ぬとき、誰かにそばにいてほしいの。家族はお母さんだけで、パートで忙しいし……だから、お願い。君に、いてほしいの。私の唯一の“友達”の君に」
彼女が振り返った。
「……わかってくれる?」
その瞳に宿る決意に、僕は何も言えず、ただ頷くことしかできなかった。
「……私、中一の頃から君のことが好きでした。君のやさしさに、何度も救われた。だから、こんなことを言った後でずるいことはわかってるけど……私と、付き合ってくれますか?」
彼女の眼には、涙が溢れていた。いつのまにか、ゆっくりと頬をなぞるように伝っていた。
「……もちろん。一緒にいるよ。君が死ぬ、そのときまで。ずっと」
彼女の目が見開かれ、そしてふっと、微笑んだ。次の瞬間、自転車が倒れることも構わず離して僕にしがみつき、大きな声で泣き出した。
「うわぁぁぁん!」
マスクがすぐに涙で濡れ、その声は胸の奥から絞り出されるようだった。それでもその泣き顔は、儚くて、美しかった。僕は小さく震える彼女の肩を、そっと撫でた。言葉はなくても、その温もりだけで、すべてが伝わる気がした。
数分後、彼女の呼吸が落ち着きはじめた。そしてそっと顔を上げて、僕を見つめた。その瞳には、悲しみと希望、そして強さが混ざって
いた。
「じゃあ、約束ね。君は、私が死ぬまで、一緒にいること」
「うん。約束」
彼女は静かに微笑み、僕の手を包み込むように握った。僕はその温もりを、離したくなかった。
「明日はもう外出できないから、次会えるのは来週かぁ……」
「うん、そうだね」
「来週も、ここ集合ね」
「うん……わかった」
「じゃあ、またね」
「……うん、また来週」
彼女は、病院へ向かう坂道をゆっくり登っていった。夕焼けは町を赤く染め、風はすこし肌寒く感じた。
僕は、家に帰ってベッドに倒れ込んだ。
今までの出来事が、何度も頭の中を巡った。
――何度も行っていたトイレ
――ずっと外さなかったマスク
――ときどき見せていた顔色の悪さ
――歩きながら、お腹をさする仕草
――本屋で震えていた肩
――参考書よりも急いで買いに行った人形
全部、病気のサインだったんだ。
それなのに僕は――なにも、気づけなかった。その事実が、胸の奥を容赦なくえぐった。涙が枕に落ちて、静かに染みこんでいった。
目を覚ますと、スマホの時計は朝の8時を指していた。部屋の中は、まだ昨日の温度を引きずっているようだった。顔を横に向けると、枕が少しだけ湿っていた。
――夢じゃなかった。
彼女が泣いて、僕が抱きしめて、約束を交わしたあの時間は、現実だった。トイレの回数も、震えていた肩も、マスクを外さなかった理由も。あのときは気づけなかったすべてが、今になって胸に重くのしかかってくる。
けれど。それでも、僕は前を向こうと思った。苦しくても、不安でも、怖くても。
「君が死ぬその時まで、ずっと一緒にいる」
その言葉を口にした瞬間、僕は初めて、自分の"物語"が始まった気がした。
朝、リビングに降りると、母がトーストをかじりながら、こちらを振り返った。
「おはよう……あら、起きてきたのね。昨日、夕飯食べなかったでしょ?お腹空いてない?」
「うん、大丈夫」
「……そう」
母は少し目を細めて僕を見たあと、静かにパンを飲み込んだ。
「昨日、何回呼んでも降りてこなかったから、ちょっと心配だったのよ。……泣いてたでしょ。何かあったの?友達と喧嘩した?」
「別に、大丈夫。まあ、話したくなったら話すよ」
母はそれ以上何も言わなかった。ただ「そっか」と言って、コップの水をゆっくり口に運んだ。その仕草がやけに優しくて、言葉よりも何かを伝えてくるような気がして、少しだけ胸がきゅっとした。昔、初恋の子に振られた話をしたとき、母は茶化すように笑っていた。あの反応が、正直とても苦手だった。だから今回も、“話したくなったら”なんて言ったけど、本当は話すつもりなんて、きっとない。
何より、彼女のことを“可哀想ね”なんて言われたら、それこそ彼女に対して失礼だと思った。
父と妹の花子は、親戚の家に出かけているらしい。いつもなら、僕も無理やり連れて行かれるのに、今回は置いていかれた。母が言うには、昨日の僕を見て、父も花子も気を利かせたのだそうだ。
その話を聞いて、少しだけ救われた気がした。いつも理不尽な父が、ほんの少しだけ、まともな人に見えた。
トーストを食べていると、スマホが震えた。彼女からのメールだった。
『おはよう。昨日はごめんね。いきなり重たい話しちゃって。私、たぶんあのタイミングで言わなかったら、もう一生言えなかったと思う。心の整理なんて、すぐにはできないってわかってる。私だったら、たぶん無理。でも、ゆっくりでいいから、また普通に話せるようになってくれたら嬉しいな。
それから、お願いが二つあるの。
ひとつ目は、時間ある時でいいから、病室にちょっと顔を出してほしいな。付き合ってるのに、日曜日しか会えないのって、やっぱりさみしいから。四〇五号室だよ。あ、でも無理はしないでね。君のペースで大丈夫。
ふたつ目は、君が“ほんとうに信頼できる友達三人”に、私のことを話しておいてほしいの。君も、きっと私のことで悩むことが出てくると思うから、その時、相談できる人がいた方がいいと思う。
なんだかお願いばっかりでごめんね。
でも、こうして気持ちを伝えられて、ちょっと安心した。それじゃあ、また今度。』
「ちょっと、どこ行くの!?」
気がつけば、僕はトーストを無理やり口に放り込み、立ち上がっていた。母の声が背中から飛んできたけれど、僕は何も言わずに靴を履き、自転車のペダルを踏んだ。
病院に着き、四〇五号室を探して廊下を歩いた。
廊下の端は蛍光灯が切れかけたようにちらついていて、どこか寂しさを感じる薄暗さがあり、そこに405号室はあった。しかしドアを開けると、廊下とは対照的に室内には白くて静かな空気が広がっていた。その穏やかさに、少しだけほっとした。
彼女は窓際のベッドで、外の景色をぼんやり見ていた。ドアの音に気づいたのか、ゆっくりこちらを振り向いて、そして、笑った。
「わ、ほんとに来た」
「“寂しい”って言われたら、来るしかないでしょ」
そう言いながら、僕は彼女のベッドのそばにある椅子に座る。
「えへへ、私って罪な女だなぁ」
「それ、自分で言う?」
「言っておかないと、誰も言ってくれないもん」
少しだけ、笑いが止まった。
彼女がそっと毛布に顔を埋める。僕は何も言えなかった。
それでも、むくっと顔を出した彼女は、少し照れたように笑って言った。
「心の整理、ついた?」
「ううん、たぶん、僕はずっと無理かも」
「えっ……じゃあ、私、話さなきゃよかった……?」
「いや、それは違う。もちろん悲しいけど、少なくとも、知らずに突然失うよりかは、断然こっちの方がいい」
「……うん。ありがとう」
「でね、話は変わるんだけど、信頼できる友達の話……2人はすぐに浮かんだ。でも、3人目がどうしてもわからない」
「気づいてないだけかもよ?意外と、すぐ近くにいるかも」
「そうかな…….」
「うん。だって、私も君のこと、最初“怖そう”って思ってたけど、 今じゃ優しすぎて困ってるもん」
「うわ、思ってたのと違う印象……」
「でもね、そういうの、ちゃんと見てる人って、いると思う。たぶんね」
その言葉を聞いて、僕は胸が少し温まったように感じた。そんなことを思っていると、彼女がふいに話題を変えた。
「ねぇ、あのキーホルダー、どうした?」
「ああ、筆箱につけた。僕の筆箱地味だったから、ちょうどよくて」
「え〜、筆箱!?もっとオシャレなとこにつけてよ〜」
「どこだよ、オシャレなとこって」
「う〜ん、ランドセルとか?」
「小学生か」
「……今、バカにしたでしょ」
「ちょっとだけ」
「失礼な彼氏だなぁ、もう」
「……それでも、好きなんだけどね」
その一言で、彼女の頬がふわっと赤く染まった。
「……今の、ズルい」
「君が言わせたんでしょ」
そんな他愛のない話をしていると、僕のスマホが震えた。母からの着信だった。
「ごめん、ちょっと出てくる」
「うん。バレないようにね。私のこと」
廊下に出て、電話に出る。母の声は、やっぱり少し怒っていた。でもその怒りの中に、僕の無事を確かめてほっとしたような気配も混ざっていた。“何か言わない自由”を、母はなんとなく許してくれていた、そんな気がした。
電話を切ったあと、僕は一瞬立ち止まって深呼吸をした。母の声も、彼女の笑顔も、どちらも僕にとって大切なんだと、あらためて思った。
僕が病室に戻ると、彼女が聞いた。
「誰から?」
「僕のお母さん」
「私のこと、言ってないよね?」
「当たり前でしょ」
彼女は軽く笑いながら、何かをねだるような上目遣いをしてきた。
「実はね、お願いもうひとつだけあるの」
「まだあるの?」
「うん……これ、大事。ずっと迷ってたんだけど、今なら言える気がして」
彼女は少しだけ視線を伏せた。言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「私ね、お母さんには君のこと言ってないの。たぶん、知ったら泣いちゃうと思う。君のこと、“可哀想”って思うと思うから……そ れが、すごく嫌で」
彼女は一度だけ、ぎゅっと布団を握った。
「本当は、君のことを“特別な人”として覚えていてほしい。でも……私のなかだけの特別でいてくれたら、それでいいって思ったの。だから、私が死んでも、君のことだけは秘密にしておきたいの。……だからお願い。君の家族にも、私の家族にも、友達にも、私たちの関係は……内緒にしておいてほしい」
「……うん。わかった。絶対に言わない」
しばらく彼女と話しているうちに、時間が過ぎていった。僕は帰らないといけない現実を思い出し、少し名残惜しさを感じながら口を開いた。
「……そろそろ、帰らないとだ」
「うん……。来てくれて、本当にありがとう。すごく嬉しかった」
彼女の言葉に僕は軽く頷いた。心のどこかで、この時間がいつまでも続けばいいのに、と願いながら。
病室のドアに手をかけ、僕は息が詰まりながらも声を出した。
「ねえ、」
「うん?」
彼女の間抜けな声が背中から届いた。振り返らずに、僕は少しだけ笑って答えた。
「……またね」
「……うん、またね」
ばいばーい、という彼女の声を背に、僕は病室を出た。
“またね”――その言葉が、約束みたいに胸に残った。




