第4話
七時ちょうどに駅に入ると、まぁむはもうそこにいた。
川口駅の、朝の光がまだ白く柔らかい時間帯。人の波に逆らうように柱の横に立って、スマホをいじりながら僕を待っていた。白いワンピースに薄いカーディガン、髪は緩くまとめてうなじのあたりで留めている。普段のゆるっとした格好とは少し違って、なんというか——きちんとしていた。
僕が近づくと、顔を上げた彼女は目を細めて笑った。
「おはよ!ちゃんと来た〜」
「来るって言ったら来るよ」
「まぁそうだけどさ、朝早いから寝坊するかなって」
「失礼だな」
彼女はくすくす笑いながら僕の隣に並んだ。甘い匂いがした。いつもと同じ匂いなのに、なぜか今日は少しだけ強く感じた。
「どこから行く?」
「仲見世でしょ、まず!雷門で写真撮って、仲見世歩いて、浅草寺でお参りして——って、全部計画してきたんだ」
スマホの画面を見せてくる。メモアプリにびっしりと書き込まれた行程表。時間まで書いてある。
「……几帳面だね」
「旅行とかってちゃんと計画立てないと楽しさが半減するんだよ!当日の流れが決まってると、その分いっぱい楽しめるでしょ」
「まぁ確かに」
僕が頷くと、彼女は満足そうにスマホをしまった。それから歩き出す。
——その時、気づいた。
歩き出した彼女の足取りが、わずかに重い。いつもなら少し前に出るくらい歩くのが速いのに、今日は僕に半歩遅れるくらいのペースで歩いている。顔を見ると、笑っている。ちゃんと笑っている。でも、目の下にうっすらとした影があった。
「……大丈夫?」
「え?何が?」
「なんか、顔色」
「えっ、そんなに悪い?」
彼女は慌てて自分のスマホのカメラを起動して顔を確認した。「うーん」と唸ってからこちらを向く。
「大丈夫大丈夫!ちょっと昨日眠れなかっただけだから。興奮しすぎて」
「無理してない?」
「してない!ほら、ちゃんと元気もりもり」
拳を握ってみせる。その笑顔は本物で、僕は「そうか」と頷いた。信じることにした。信じるしかなかった。
川口から浅草までは三十分ほどで着き、そこから五分ほど歩き、浅草寺の雷門へ着く。雷門は休日ということもあり、朝から人で溢れていた。赤い提灯が朝の光を受けて鈍く光っている。観光客のカメラ、修学旅行の集団、外国語が飛び交う喧噪。その中に立つと、まぁむは少し目を見開いて周りを見渡した。
「わあ……やっぱり来ると違うね」
「写真で見るより大きいよね、提灯」
「ほんとだね。ねぇ、写真撮って」
スマホを渡してくる。僕が構えると、彼女は提灯の前で少し首を傾けてポーズを取った。ワンピースの裾が風で揺れる。
シャッターを切る。
画面の中の彼女は、ちゃんと笑っていた。白いワンピースと赤い提灯のコントラストが鮮やかで、思っていたよりずっといい写真が撮れた。
「見せて見せて!」
「どう?」
駆け寄ってきて画面を覗き込む。しばらく眺めてから、嬉しそうに顔を上げた。
「いいじゃん!お気に入りに入れとこっと」
「喜んでもらえて嬉しいよ」
「ほんとありがと!……ねぇ、次は二人で撮ろうよ」
ちょうど通りかかった観光客に頼んで、二人並んで撮ってもらった。モニターに映る僕たちは、なんとなく釣り合っていない気がした。彼女が綺麗すぎるせいだと思う。
「……なんか変なこと考えてた?」
「別に」
「顔に出てるよ」
「……何も考えてない」
「ふうん」
疑わしそうな目で見てくるが、それ以上は追及してこなかった。
仲見世の通りは、朝から活気づいていた。
両脇に並ぶ土産屋、揚げたての匂い、飴細工を作る職人の手元を覗き込む子どもたち。まぁむは歩きながら一つひとつ眺めて、気になるものがあるたびに足を止めた。
「これかっこいい!見て見て、この鈴のお守り」
「まぁ可愛いんじゃない」
「一個買っていい?」
「君のお金でしょ、何で僕に聞くの」
「そういうもんでしょ!……じゃあ買う!」
土産屋のおじさんに声をかけて、鈴のお守りを一つ買った。それを手のひらに載せてじっと眺めてから、不意にもう一個買い直した。
「はい、これ君に」
「え、いいよ」
「いいから!お揃いにしたいのっ」
僕の手のひらに、小さなお守りが落とされた。アルミ製で、ひんやりとした感触。『金龍鈴』の文字とともに、龍が彫ってある。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女は自分のお守りを財布の中にそっとしまった。僕もそれに倣って、ポケットの中に入れた。
しばらく歩くと、揚げまんじゅうの屋台が見えた。甘い匂いが漂ってきた瞬間、まぁむの足が止まる。
「食べたい」
「どうぞ」
「一緒に食べよ」
「……まぁ、いいけど」
二個買って、二人で並んで立ち食いした。熱々のまんじゅうはほくほくしていて、甘みが丁度よかった。まぁむは目を細めて「おいしい」と言った。その顔が、なんとなく朝より少し血色がよくなっている気がして、僕は少し安心した。
「ねぇ」
「ん?」
「楽しい?」
「……うん。楽しいよ」
本当に、楽しかった。本当に、楽しかった。彼女は目を細めて「よかった」と言って、また歩き出した。
浅草寺の境内は、仲見世よりも少し静かだった。
大きな本堂の前に立つと、まぁむはしばらく黙って見上げた。朝の光が屋根の金細工を照らして、きらきらと揺れている。
「なんかさ、こういう場所来ると、ちょっと背筋伸びる気がしない?」
「わかる気がする」
「だよねぇ。……あ、そうだ。君はさ、神様とか仏様とか、信じる?」
「え、うーん……どっちとも言えないな」
「そっか。……私はね」
彼女は少し間を置いた。
「信じてるわけじゃないけど、でも、お願いしたくなる時はあるよ。こういう場所だと特に」
賽銭箱の前に立って、財布から小銭を取り出す。チャリン、と音がして、彼女は両手を合わせた。目を閉じている。長い睫毛が、ゆっくりと伏せられている。
何を祈っているんだろう、と思った。聞くのは野暮な気がして、黙っていた。
しばらくして、目を開ける。こちらを向いて笑った。
「君もお参りしなよ」
「何をお願いするの」
「そんなの自分で考えてよ」
僕も賽銭を入れて、手を合わせた。目を閉じると、瞼の裏が明るかった。
——何をお願いしようか。
「……今日みたいな日がずっと続きますように」
「ふっ……声に出ちゃってるよ……」
「……あ」
まぁむは笑いながら僕の背中を優しく叩き、参拝を終えた。境内から出ると大きな木の下に座れる場所があり、僕たちはそこに並んで腰を下ろした。風が通っていて、木の葉が揺れている。まぁむは足をぶらぶらさせながら、何も言わずに空を見上げていた。
「……ねぇ」
少しして、彼女が口を開いた。
「いい天気だね」
「うん」
「こういう日ってさ、なんか、ずっと外にいたくなる」
「ほんと。気持ちいいよね」
「うん」
また黙った。風が吹いた。彼女の髪がふわりと揺れて、甘い匂いが鼻をかすめた。
「……ねぇ、一個聞いていい?」
「何?」
彼女はベンチの上で少しだけ体をこちらに向けた。
「君はさ、将来どんな大人になりたい?」
唐突な質問だった。僕は少し考えてから答えた。
「……わからない。なりたいものが特にないから」
「そうなの?」
「うん。親にも将来はこういう人になれ、とか言われないから、自分ではよくわからなくて」
「ふうん」
彼女は少しの間、空を見ていた。
「私はね」
また、少し間を置いた。
「普通に、いたかった」
普通に。その言葉の重さに、僕はうまく返せなかった。
「……普通って?」
「なんか、こういう感じ。今日みたいに、好きな人と好きな場所で笑ってて、それがずっと続く感じ。そういうのが普通にある人生を、送りたかったな」
——送りたかった。
過去形だった。
「……まぁむ」
彼女は笑った。柔らかく、でもどこか遠い笑い方で。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよぉ。たまにそういう気分になるだけだから」
風が、また吹いた。木の葉が揺れて、光がまばらに地面を踊った。僕は何か言おうとして、言葉を探して、でも何も見つからなかった。せめてもの思いで絞り出せたのは、幼い言葉だった。
「……今日は、続いてるじゃん」
彼女は一瞬、目を丸くした。それからゆっくりと、目を細めて笑った。今度は遠くない笑い方で。
「……そうだね」
小さく頷いて、また空を見上げた。
「そうだね、今日は続いてる」
昼過ぎまで仲見世を歩き回って、どぜう鍋の老舗に入った。
暗くて静かな店内、古い木の匂い、他の席の土鍋から立ち上る白い湯気。まぁむは「なにこれ、ちゃんと老舗って感じがする!」と目を輝かせて、やけに背筋を伸ばして座った。
「なんで急に姿勢よくなったの」
「だって雰囲気あるじゃん!浅草って感じがして好き」
土鍋が来ると、湯気と一緒に出汁の香りが広がった。まぁむは慎重にどぜうを箸で持ち上げて、しばらく眺めてから口に入れた。
「……おいしい」
素直な一言だった。僕も食べた。やわらかくて、出汁が染みていた。
「こういうの、地元じゃなかなか食べないよね」
「確かに」
「だから遠くに来るのって好きなんだ。知らないものを食べたり、知らない場所に行ったりするのが。……いつか、もっと遠くにも行ってみたい」
「どこ?」
「京都とか、北海道とか。あと、海外も行ってみたい。イタリアとか」
「壮大だね」
「夢は大きいほうがいいんだよ!」
「一緒に行け……イタリアならご飯は美味そう」
「でしょ!パスタ食べたい!」
食事を終えて店を出ると、空はもう橙色になっていた。もうこんな時間なの!?、と二人で驚きながら、僕たちは隅田川沿いのベンチに落ち着いた。
買ったたい焼きをそれぞれ持って、川を眺めながら並んで座る。夕暮れ前の川面はきらきらと光っていて、遠くにスカイツリーが見えた。
「今日、楽しかった」
「……うん」
「ありがとね、来てくれて」
「僕が楽しかったんだから礼を言うのはおかしくない?」
「そういうもんじゃないんだよ」
彼女は少し笑って、たい焼きを一口かじった。川の向こうで、鳥が一羽、低く飛んでいった。川の水面が光を弾いて、夕空の橙が少しずつ深くなっていく。二人分の影が、ベンチの後ろに細長く伸びていた。
「帰らなきゃね」
彼女が言った。
「うん」
僕は答えた。
でも、二人ともしばらく立ち上がらなかった。もう少しだけここにいたかったから。今日みたいな日が、もう少しだけ続いてほしかったから。
空の橙が、少しずつ紫に変わっていく。
まぁむは最後にもう一度、川を眺めた。その横顔は穏やかで、静かで——どこか、覚悟を決めた人の顔に見えた。
気のせいだと思いたかった。
車窓の外を街の灯りが流れていく。
帰りの電車の中、彼女は途中で眠った。吊り革を持ちながら、立ったまま、こてん、と僕の肩に頭を預けてきた。僕は無意識に動かないようにしていた。
駅に着いて僕が肩を軽く揺すると、目が覚めた彼女は、「あっ、寝てた」と照れながら頬を掻いた。
「立ったまま寝るのは危ないよ」
「だって眠かったんだもん」
改札を抜けたところで、別れ際になった。
「今日、ありがとね。ほんとに楽しかった」
「僕もよかったよ。また来ようね」
「……うん、また来ようね」
彼女は笑った。でもその笑顔は、朝の笑顔とは少しだけ違った。何かを我慢するような、あるいは何かを飲み込むような——そんな笑い方に見えた。
手を振って、背中を向けて歩いていく。
僕はその後ろ姿が見えなくなるまで、その場に立っていた。
『普通にいたかった。』
その言葉を頭の中で反芻しながら、帰路に着く。今夜はただ、夜風が少し冷たかった。




