第1話
「ねぇ、枝垂桜の花言葉って知ってる?」
駅前のカードショップは、外の六月の熱気が嘘みたいに冷えていた。カードを擦る音、パックを剥く乾いた音、店内に満ちる独特の紙とプラスチックの匂い。その空間の隅のテーブルで、僕はまぁむと向かい合っていた。
まぁむ——僕たちはずっとプレイヤーネームで呼び合っていて、本名は知らない。灰色のカーディガンをゆるく羽織って、長い髪を片手でさらりと梳かしながら、彼女は唐突にそんなことを言い出した。外では春がまだ残っているのに、この店の中だけ季節が止まっているようで、彼女の声だけが妙に鮮やかに響いた。
「なんで急にそんなことを?」
「なんでって、知ってるか気になっただけだよぉ」
頬を膨らませて、小さくため息をつく。機嫌を損ねたのかと思えば、すぐにまた僕の手札に視線を落とす。僕もそれに合わせてデッキを回しながら答えた。
「花言葉はよくわからないな。それに、普通の桜じゃダメなの?」
「桜にも種類はたくさんあるんだよ?枝垂れ桜だけじゃなくって、八重桜とか、山桜、河津桜……って。そのなかでも、枝垂桜が一番好きなの」
「……なんで?」
その言葉の奥に何かあるような気がして、少しだけ興味が湧いた。
「きみは『なんで?』しか言えないわけ?もっと私の好きなものに興味を持ってほしいんだけどなぁ」
「興味を持ってるから聞いてるんだけど?」
「あ、そっか~」
あはは、と無邪気に笑う。窓から差し込む光がその指先を透かして、春の日差しが彼女の白い肌を照らした。細い指が髪をすくうたびに、甘い花の匂いがこちらに漂ってくる。
「それで、なんで枝垂れ桜なの?」
「桜ってね、基本的には『精神美』とか、『優美な女性』とか、『純潔』っていう花言葉があるんだけど、そのなかでも枝垂れ桜は“ある言葉“があってさ、それがすごく好きでね……」
「“ある言葉“って?」
「ふふっ、秘密」
「……君に期待した僕が馬鹿だった」
「ひどいっ!そんなこと言うともう教えてあげないんだからね?」
また頬を膨らませて、今度はじーっとこちらを見てくる。呆れながらターンを返したところで、ふと問いかけた。
「それで、つまり君は自分が美しい女性だと言いたいの?」
「まぁ......それもある」
「相変わらず自画自賛がすごいね……」
「えへへ、ありがと~」
「褒めたつもりはないけどね」
彼女のカードを持つ手が弾むようになった。機嫌が直ったのが一目でわかる。
「なんで教えてくれないの?せっかく興味を持ったのに」
「う~ん、まぁ質問した私が言うのもあれだけど、この先きっと知ることになるから大丈夫だよ!というか、知ることにするから安心して!……うん、たぶん」
「多分って......」
「でもこういう"不思議”は残しておくとさ、『早く知りたい!』ってなってさ、人生が少し明るくなると思わない?」
彼女はそう言って、少しだけ遠くを見た。一瞬だけ。僕が何か言おうとした時にはもう、彼女はこちらに笑いかけていた。
「はい、これを使って……私の勝ちっ!」
気づけば盤面は詰んでいた。彼女に気を取られて、完全に見落としていた。頭を抱えると、彼女は腰に手を当てて満足そうに笑う。その笑い声が店内に響いて、僕はより一層悔しがった。
「相変わらず負けず嫌いだねぇ」
「まぁ、僕があげたデッキに負けるのは悔しいから」
彼女は「ふ~ん」と言いながらデッキをまとめ、立ち上がる。灰色のカーディガンと長い髪がふわりと宙を舞い、甘い匂いがまたこちらへ流れてきた。
「ねぇ、カード買いに行かない?気になるカードあるんだ」
「気になるカード?」
「そう。今作ってるデッキでほしいカードがあってさ。いいでしょ?」
「まぁ君が払うから、全然いいけど」
僕はデッキをまとめてカバンにしまい、立ち上がる。彼女は僕のところに小走りで来ると、僕の手を引いてショーケースへ向かった。ショーケースにはたくさんのカードが並んでいる。百円のものや五百円、千円を超えるもの……広い幅の値段のカードがたくさん並んでいた。その中の一つを、彼女は指さす。
「これ!これがほしいんだ。えっとお金は......」
彼女は財布を開けて小銭を漁り始める。指さしたカードを見ると、その金額は千円。買えない金額ではない。よく見ると、僕が今使っているデッキの強化パーツだった。彼女もこのデッキを作っているのか、と少しだけ感心していた。そんな時、彼女は「見つけた!」と千円札を出し、店員を呼んでショーケースからカードを取ってもらい、購入した。店員から渡されたそのカードを両手で大切そうに持ち、輝いた目でしばらく見た後に、僕に渡してきた。
「はいこれ。プレゼント。君が持ってるデッキの強化パーツなんでしょ?この前パソコンでみたんだ」
「え?いや、いいよ。君が買ったカードなんだから、君が使うべきだよ」
「いいのいいの!君のために買ったカードだし!それに何度も言うけど、プレゼントを断る男は嫌われるよ〜?」
「......じゃあありがたくいただきます」
彼女は満面の笑みで手を胸の前で組んで喜んだ。言ってはいけないと思うが、その様子が少し幼く見えて、自然と頬が緩む。
自動ドアを抜けると、むわっとした熱気が頬を打った。まだ六月なのに太陽は真夏のようで、アスファルトの匂いが熱と一緒に空気を揺らしている。さっきまでの冷房が夢みたいに遠い。自転車のサドルは鉄板のように焼けていたので、僕たちは押して歩くことにした。
「あっつ〜……一か月前は冬だったのにもう夏じゃん」
「春と秋が消えてるよね。未来は春夏秋冬じゃなくて夏冬になってるかも」
「え~最悪~!私、春と秋が一番好きなのに」
彼女は空を見上げた。眩しさに目を細めながら、口をとがらせる。
「神様ってほんと意地悪だよねぇ。……まぁ、いいけど」
その言葉は軽口のはずなのに、なぜか一瞬だけ宙に浮いた気がした。僕は少し間を置いてから答えた。
「でもさ、そうなるころには——」
「あっ!今私のこと皮肉ったでしょ!それ禁句!これから私の”それ”皮肉るの禁止ね!」
僕に指をさして少し怒った声で文句をつけてくる。本気でそう思っていそうなその視線に圧倒され、僕は過去の発言を悔やんだ。
「ご、ごめん……。でも、幸せに過ごしてるのは事実でしょ?」
「そうだけどさ......。でも君もいつか来るんだよ?ちゃーんと私のところにねっ!」
「何兆人もいる場所で君一人を探すのは至難の業だと思うけど」
「君と私の愛の力は不滅!よって関係なし!」
「……相変わらず愛が重いなぁ」
「愛が重くて何が悪いのよ!ちゃんとした愛情でしょうが!」
彼女は片腕を僕の腕に絡ませ、上目遣いで見てくる。これには何度受けても慣れない。顔が赤くなったのを見て、彼女はニヤニヤしながら頬を突いてくる。
「やっぱり、照れた顔かわいい」
「うるさい……かわいい担当は僕じゃなくて君でしょ」
そう言った瞬間、彼女の足音がぴたりと止まった。ちら、と見ると、顔を真っ赤にして固まっている。風が少し止んで、世界が静まり返った気がした。
「ほ……褒めたぁっ!褒めたよね!?私のこと可愛いって!」
「そんな驚くほどのことでもないでしょ……」
「で、でも……そんなの君から言われたの初めてで……び、びっくりしたの!」
「君も人のこと言えないじゃん」
僕が少し笑うと、服の裾をちょん、と引っ張ってくる。
「まぁお互い恥ずかしがり屋ってとこは認めるけどさぁ、君、たまに変なこと言うからこっちは構えることができないんだよぉ。……ずるい」
「ありがとね〜」
「褒めてないし……!」
そう言うと彼女は少しだけ笑ってまた歩き出した。僕もそれに合わせて歩き出す。少し歩くと、彼女がまた話題を切り出してきた。
「ねぇ、今度浅草行こうよ。一日丸々外出許可出たからさ」
「浅草?何するの、食べ歩き?」
「えっ!?なんでわかったの!?」
「浅草行ったら普通は食べ歩きがメインじゃない?」
「そりゃそっか……」
人差し指を口に当てて上を向く。その仕草が妙に愛しくて、目が離せなかった。
「食べ歩きもいいけど、写真いっぱい撮ろうよ。思い出にしたいし」
「まぁ君がやりたいなら止める理由はないよ」
「……それさっきも聞いた気がする」
「『君とならどこまでもついていく』って意味だよ」
「……ずるっ」
俯いた頬が赤くなっている。僕が彼女のように頬を突くと、真っ赤な顔のまま僕を睨んで腕を掴んで強く締め付けてきた。「ごめんごめん」と言うと手を離して、また歩き始めた。
「浅草さ、来週に行けそう?」
「来週かぁ、親をなんとか誤魔化しておくよ」
「やった〜!」
「じゃあそれまで体壊さないようにね?楽しみにしていたのに行けなくなった、が一番最悪だから」
「わかってるって!また今日みたいに元気もりもりで来るから安心して!」
彼女はそう言うと拳をグーにして空に掲げ、ドヤ顔をする。やはり、見た目は中学三年生でも、中身は小学三年生なのではないか。そんな気がしてならなくて、僕はまた笑ってしまう。僕の笑いにつられて笑う彼女の声が、少しだけ風に溶けていった。
しばらく歩き、大きな公園のある交差点に着いた。
「それじゃあまた来週。朝の7時集合でいい?」
「もちろん。何時でもいいよ」
「じゃあ朝の七時に改札で集合で。じゃ、またねっ」
「うん、またね」
手を振る彼女の笑顔が、春の光に溶けていく。僕はその背中を目で追いながら、小さく息を吐いた。風の音が、少しだけ遠くで揺れていた。
——こんな日々が、いつまでも続けばいいのに。そう思ったのは秘密だ。僕たちは交差点で別れ、それぞれの“家”へ向かう。
帰宅後、ベッドにダイブしてスマホを開く。SNSのトレンドはどれも興味がなくて、すぐに閉じた。頭の中はまぁむのことと、嫌いな勉強のことでいっぱいだった。
「まぁむがいないと、何も面白くないな……」
勉強机の参考書は昨日と同じページで開いたまま。周りには真面目なキャラとして通っているけれど、本当は勉強も運動も得意じゃない。友達といる時間が好きなだけだ。僕には、まぁむや友達と過ごす時間だけが、本当に息ができる場所だった。そんなことを考えて、少しだけ息が詰まった。こんなこと今は忘れよう、そんなことを考えていると、スマホが鳴った。まぁむからのメールだ。
『来週の予定だけど七時に駅集合してそのまま浅草に行って、お昼食べよ!そのあとは食べ歩きとかしながら思い出の写真タイム、ってことで!六時ぐらいには家に着くようにするからそこは安心して!お母さんたちには頑張って誤魔化してよ〜?それじゃ、また来週ね。楽しみにしてるから!』
僕はメールを閉じて、母親のいるリビングへ向かった。リビングのドア越しに、油の弾ける音と換気扇の唸りが聞こえてくる。夕飯の匂いはするのに、なんとなく足が止まった。受験、受験、受験——今年に入ってから、この家でその単語を聞かない日はない。深呼吸を一つして、ドアを開けた。
「お母さん、ちょっといい?」
「ん?どうしたの?」
「その......来週の日曜日さ、安西さんが浅草にみんなと行くらしくて、僕も行ってもいい?」
安西さんの名前を出すと、お母さんの表情が少し柔らかくなった。カードショップで知り合った大学生で、頼んでもいないのに「持ってきな」と財布を開く人だ。なのに不思議と、甘えすぎた気がしたことが一度もない。だから安西さんの名を出せばいけると考えたのだ。お母さんは肉を焼く手を止め、「う~ん」と少しだけ唸った後、僕のほうを向いた。
「まぁいいんだけど、いつも言ってる通り勉強はしてね?丸一日浅草に行くならその日は勉強あまりできないんだから」
「わかってるってそんぐらい。いつも言われて結局前日にワークとか塾のテキストたくさんやってるでしょ?」
「まぁわかっているならよし。お金はどうするの?」
「とりあえずお小遣いの四千円は持っていくよ。安西さんが『奢ってあげる』って言ってきたらあの人引かないから甘えるしかないし」
「そう。でも全部奢ってもらうのはだめよ?それだけ頭に入れて、楽しんでおいで」
「うん。ありがとう!」
僕が笑顔で頷くと、お母さんはできた夕飯を渡してくれた。僕は机に持っていき、食べ始める。
家族は今日のように優しくなることがごく稀にある。こんな優しさがずっと続いていればどれだけ自由だろうか。そんなことを考えながら、スマホを開き、まぁむへのメールを打ち始める。
『お母さん、何とかなったよ。だから来週は行ける。それまで体壊さないようにね』
スマホの画面を閉じ、ご飯を食べながら返信を待った。すると十分もせずにすぐに返信が帰ってきた。
『さすが!じゃあ日曜日、待ってるね!体壊さないようにって言うけど、私そんなに暴れてないでしょ?』
……暴れてはないけど、君は元気すぎてたまに心配になるんだよ。
そんなツッコミを入れながら、僕は笑って返信を打った。
『君は元気すぎるから何が起きてもおかしくないんだよ。ベッドの中でおとなしくしてて』
『それしかできないんだって!……でも、会いに来てほしいな。最低三回ね、三回!』
『もちろん。学校終わったらすぐ向かうよ』
『やった〜!もう夜遅いし、おやすみ!いい夢見てね』
『うん。おやすみ』
スマホを置くと、胸の奥がふわっと温かくなった。浅草の街を並んで歩く僕たちの姿が、頭の中で何度も再生される。笑い合って、写真を撮って、またくだらないことで言い合う。そんな日が、もうすぐ来る。
——楽しみだな。
小さく呟くと、夜の静けさの中に声が溶けていった。
ご飯をかきこみ、自室に戻ってベッドにまたダイブする。
目を閉じる直前、ふと思い出した。
『この先きっと知ることになるから。』
あの時まぁむが言っていた言葉。『たぶん』とつけ加えた、その一言。
あの時の彼女の目が、なぜか頭から離れなかった。




