キモかったな
それは、蔵前橋を渡り切った瞬間のこと。
「も、もう無理だ……」
と、榊さんが音を上げてしまったので僕は彼女の背から降りることになった。
恐らく距離にして二百メートルほどのことであったが、あの榊さんにしてはかなり頑張ってくれた方だと思う。
「すみません、ありがとうございました」
「もう歩けそうか?」
「はい。榊さんのおんぶのおかげでピンピンです」
休憩ができたからというよりは、榊さんにおんぶしてもらうという今後二度とあるかわからない経験のおかげで元気をチャージすることができたのだ。
「ふーん?」
急に元気になった僕を見て、榊さんは真顔でこう吐き捨てる。
「キモかったな」
「キモかったな!?」
「ああ、スマン。『キモい』と『よかったな』が混ざって、罵倒百パーになっちまった」
「そ、そうですか」
相変わらず、冗談なのか素なのかわからない。
〇
橋を越えた後、電車を使うか否かを話し合いながら、僕たちは夜の東京の中を泳ぐように歩いた。
この辺りでは学校や公園なんかを時折見かけることができ、ネオンギラギラのザ・東京という感じの風景ではない。だが僕は、あまりにも煌びやかな街よりかはこのくらい庶民的な方が落ち着くのだ。
……なら、なんで東京に出てきたんだよ、という感じではあるのだが。
「いいよな。この辺りの夜の雰囲気」
ここには、美しい夜景も賑やかな喧騒もない。
しかし榊さんは、人通りの少ないなんの変哲もない落ち着いた道を眺めながらそう呟いたのだ。
「……そうですね」
僕は、榊さんと感性が似ていることが嬉しかった。……なんて、驕りかもしれないが。
「そういえば。榊さんって、どうして錦糸町に住んでるんです? 秋葉じゃなく」
「秋葉はあたしにはちょっち家賃が高くてなぁ」
「確かに。高いですよねぇ」
「錦糸町に住んでんのは、職場にそこそこ近いのと、都会すぎもせず田舎すぎもしないとこが好きなんだよ。……あと」
「あと?」
「錦糸町駅ってさ。出たらすぐ、でっけぇ喫煙所あるからいいんだよな」
「……」
言われてみると、確かにそうだった。
いや、目線が喫煙者すぎるだろ。
「榊さんがあの喫煙所で煙草吸ってたら目立ちそうですね」
「まあ、もう皆見慣れてんじゃね」
駅前の喫煙所で馴染み、誰も榊さんのことを気にしていない場面を想像したらちょっと面白かった。
「喫煙所で吸ってる榊さんを、非喫煙者の僕が横で見てるのって合法なんですかね?」
「合法かどうとかわからねぇけど……。まあ、他の人の副流煙が気にならねぇならいんじゃね」
真面目に答えてくれてはいるが、榊さんは珍獣を見るような表情を僕に向けている。
「……というか、知ってると思うけど副流煙の方が健康に悪いから、あたしに煙かけてほしそうな顔すんのやめろよな? あたしも、むかついたときとかかけちゃうときあるけど、あんまよくねぇんだよ、あれ。すまんな」
「そ、そんな……。吸わないようにしたらギリオーケーとかないですか……?」
「まあ、副流煙気にしすぎ説とかも巷に言われてたりはするけど……。てか、どんだけかけられたいんだよ、キモいな。お前、どんどんマゾになってってないか?」
「いや、榊さんといたらなるだろ」
「なんでだよ。あたしがおかしいやつみたいに言うな。あたしがおかしいんじゃなくておかしいのはお前だからな?」
そうなのか?
「もし煙草に興味あんなら、一緒に博物館いくか?」
「博物館ですか? 煙草の?」
「おん。たばこと塩の博物館ってとこ」
「へぇ、いってみたいです! 榊さんはいったことあるんですか?」
「散歩してるときに見つけたんだけど、博物館ってメイド服でいっていいのかわかんなくて入らなかった」
「変なとこで常識持ち合わせてんのはなんなんだよ」
常時メイド服を着ている人の発言とは思えない。
「まあ展示品を見る場所ですから、メイド服の人がいたら気が散るかもですね」
「じゃあ、それ以外の服でいくかぁ」
「え、いいんですか? ポリシー曲げちゃって」
「ん?」
榊さんの顔がこちらを向く。月光に照らされた彼女の美しい横顔の輪郭に、僕は見入ってしまう。
「そんなポリシーより、お前といきたい場所いく方が優先に決まってんじゃん」
「……っ」
イ、イケメンが過ぎるだろ……!
「じゃ、じゃあ、今度一緒にいきましょうか」
「おん」
頷いてから少し後、榊さんは大仰に息を吐いた。
「お前がもし喫煙者になったら、百パーあたしのせいだなぁ、こりゃ」
「そ、それはそうかもしれませんが」
榊さんは、僕の健康を案じてくれているのだろうか。
「まだ吸うと決まったわけじゃありませんから!」
「……吸わねぇの?」
榊さんの瞼が数ミリ下がる。
その問いの中には、「一緒に吸おうぜ」という意は混入しておらず、「絶対吸いたいと思ってるだろ」という意が多分に含まれているような気がした。
「……実は、ちょっとだけ気になってます」
「公太郎は立派なヤニカスに育ちそうです。あたしのせいです。公太郎のお父さん、お母さん、すみません」
「会ったこともない僕の親に謝ってる!?」
虚空に向かって頭を下げる榊さんに、僕の突っ込みが炸裂した。
まだ僕が喫煙者になると決まったわけじゃないのに。




