よかったな。お前の好きなあたしの匂い、嗅ぎ放題だぞ
「はぁ……ハァっ……! し、死ぬ……ッ!」
結局僕は、榊さんを背負ったまま秋葉から隅田川まで一気に駆け抜けてしまった。距離にしてニキロ強はあるだろうか。阿呆である。
走っている間にすっかり日は世界の端に消えてしまい、東京の空は夜が支配していた。
「さ、さすがに一回降ろしますね……」
隅田川にかかる蔵前橋の前で屈み、榊さんをその場に降ろした。
「……あ、あんがと」
榊さんは、肩で息をしながら足をガクガクと震わせる僕に、普通に引いていた。さ、さっきまであんなに楽しそうだったのに……。
死にかけの僕を見て、嘆息する榊さん。
「あたし、何度も降りようかって訊いたろ?」
「すみません。楽しくなっちゃって」
「ま、あたしも楽しかったけど」
「なら、よかった、です……」
僕は、その場で息が整うのを待った。しばらくは全く動けないかもしれない。
少しだけ休憩してもいいか訊ねてみようか。
そんなことを考えていると。
「ん」
なにを思ったのか、榊さんはその場にしゃがみこんでしまった。
僕に背を向けながら、彼女は端的にこう告げる。
「もう動けねーだろ? 今度はあたしがおぶってやるよ」
一瞬、彼女の言っている言葉が理解できなかった。
いや、僕の脳が理解を拒んでいた。
あのモノグサな榊さんが、僕をおぶってくれるだって……?
言葉が出てこないままに黙り込んでしまった僕を見て、榊さんは声音を少し尖らせる。
「おい。乗らねーならやめるけど」
「の、乗ります乗りますっ!」
慌てて榊さんの背中に乗る僕。少し躊躇いながらも、自分の腕を榊さんの首に回した。
「ん。いくぞ」
力強く立ち上がる榊さん。
その瞬間、ふわりと彼女の黒髪が広がり、微かな紫煙の香りが僕の鼻先をかすめた。
僕の好きな、榊さんの香り。
うなじが近いこの距離だと、どうしても榊さんの髪の香りを意識してしまう。
自分から嗅ぐのはちょっと──いや、かなり変態っぽい。
それをしたら、僕のなかの大切ななにかが崩れ去ってしまう気がする。
だから僕は、意識的に彼女の香りを嗅がないようにしていたのだが──。
「よかったな。お前の好きなあたしの匂い、嗅ぎ放題だぞ」
「……」
本人から許可が出てしまった。
というか、心読むのやめてくれないかな?
「えっと……。それは冗談ですか? それとも、マジで言ってます?」
「別に、匂いなんて嗅がれても嫌じゃねーから」
「普通は嫌じゃないですか?」
「まあ、お前じゃなかったら嫌かもだけど」
「へぇ……。へぇっ!?」
驚愕により、普段よりニトーンくらい高い声が出てしまった。
「それも冗談ですか?」
「うっせぇな。どっちでもいいだろそんなもん。あたしの発言は五割が本音で五割が冗談なんだから、あんま気にすんなって」
この人の発言、五割は冗談なの!?
まあ、この発言自体も冗談という可能性はあるが。
榊さんは、僕を背負いながらライトアップされた蔵前橋を堂々と歩いていく。
眼下に眺望できる隅田川は、橋の光を取り込み銀河のように揺らめき、煌めく。
顔を少し上げて遠方を見やると、街が吐き出す明かりが都会の喧騒に彩りを与えていた。
僕は今、美しい景観を望みながらメイドさんにおんぶをしてもらっている。
現代の貴族かなにかだろうか。
なんとも言えない郷愁を胸に抱きながら、僕は榊さんにこう問うた。
「……で、本当に嗅いでもいいんですか?」
「まだ言ってんのかよ。キモ。嗅ぎたきゃ黙って嗅いでりゃいいだろ」
「それはなんか、一線超えてる気がしませんか」
「結構色んなお前の性癖知ってるけど、一線超えてるの多いし今更じゃね?」
なんでこの人は僕の性癖に造詣が深いんだよ。
「榊さん。僕のfanzaの購入履歴見たりしてませんよね」
「はぁっ? ンなことするわけないだろ」
「ご、ごめんなさい。変なこと言いました!」
「そんなん見なくてもわかるって。……よし。あたしが知ってるお前の性癖以外の、まだ見ぬ新たなお前の性癖、当ててやんよ」
ちょいっとジャンプし、少しずり落ち始めた僕の位置を調整する榊さん。
「えっと。その、なんだ。……まあ、どうせメイドものとか見てんだろ」
「……」
これ、からかわれてるのか? それとも本気で当てにきてる?
「エロいメイドにご奉仕されるようなやつ。いや、お前はマゾだから奉仕より管理される方が好きか」
「……」
「……いや、なんか言ってくれねーか? 無言は怖いんだけど」
この人、本当に僕の購入履歴見てないんだよな?
全身に冷や汗をかきながら、なんとか声を絞り出す。
「ま、まあ。当たらずとも遠からず……とだけ言っておきましょうか」
「なんでちょっと偉そうなんだよ」
小さく吐き捨てる榊さん。
「お前ってさ。あたしと出会う前からメイド好きだったわけ? それか、あたしと出会ってから?」
「それは……」
緊張により、ごくりと唾を飲み込む。
真実を伝えるかどうか数秒悩み、僕は曖昧に誤魔化すことにしたのだった。
「秘密、です」
「あ、そ。まあどっちでもいいけど」
さして興味もなさそうな榊さんであった。
「でも、メイドが好きなことには変わりねーんだな?」
「まあ、はい」
「キモ」
絶対にメイド喫茶の店員が言ってはいけない発言すぎて笑いそうになってしまった。まあたぶん、冗談なのだろうが。
「漫画派? 動画派?」
「どっちでもいいでしょ!」
「なら、素人派?」
「いやいや……」
「pixiv?」
「だから言いませんって!」
なんの益にもならない話をしながら、僕たちはひとつになって橋の上を歩いた。
ちなみに、僕のメイド好きは榊さんと出会ってからである。
彼女と出会ってからメイドものの購入比率が爆増しただなんて、当たり前だが本人に言えるはずもないのだ。
超不定期更新予定です!




