外伝・第十話
翌日。
山に囲まれた根乃己において、季節はいつも空にある。山の移り変わりと雲の変化、季節感はいつも目から忍び込む。見るとはなしに山を見て、聞くとはなしに風を聞く。
しかし現代においては、根乃己でもそのような季節感を持たない者も多い。草苅真末もその一人だった。
待ち合わせ場所はカスタネット。早朝にやってきた草苅は水穂と合流する。
「太陽雨ちゃんは?」
「先に行って雨で人払いしておくって、あそこ朝は体操してるおじいちゃんとかいるから」
「私も水穂ちゃんに案内されたことあるわよね。見た感じはふつーの神社だったけど」
カスタネットは本日は休業となっている。お茶でももらおうと入ってみれば、枯滝瑛子が台所にいた。
「水穂、お弁当と水筒は持った?」
「うん、大丈夫、言われたとおりに雨具も持ったよ」
「草苅さん、これどうぞ」
と、差し出すのは細いグラスに入ったオレンジ色の液体である。
「マンゴージュース。水穂のお弁当にフルーツ使ったからね、そのあまりよ」
「ありがとうございます。タダですよね?」
「タダに決まってるわ。今日は引率お願いね」
「実は給料から引いてるとかないですよね?」
「あなた私を何だと思ってんの?」
飲みながら水穂の方を見る。いつものワンピース姿ではなく、ストレッチ素材の長袖長ズボン、そこに白のフリースを前開きで着ている。足元はピンクと灰のまだら模様のトレッキングシューズ、登山もこなせそうだが、色使いは鮮やかになりすぎず落ち着いている。瑛子の見立てなのか、それとも水穂の趣味なのか。
「というか、瑛子さんは行かないんですか?」
呼びかける。瑛子は厨房で忙しく働く気配がある。
「だめよ。私は夕飯の仕込みが終わったらタツガシラに行くから。今日はお店も営業できないし、もう一つの収入源を大事にしないとね」
「……娘さんのこと心配じゃないんですか。伝城資料館って異常存在なんでしょ」
「伝城資料館は本当に安全な場所なの。少なくとも私はそう確信してる。あそこに行くことは水穂と太陽雨にとって有意義だと思うから行かせるのよ。草苅さん、あなたにもね」
そこで、草苅は顔が熱くなるのを感じる。ふいに浮かんできた言葉を、浮かんだ姿のままにぶつけてみる。
「安全だと確信してるって、どのぐらいですか」
「……」
物音が止まる。瑛子がこのように言葉を停滞させることは珍しいが、草苅とのやり取りではしばしば起きている。
少し言葉が過ぎるのは意識している。顔がかあっと熱くなり、舌がもつれるような感覚がある。しかし、枯滝瑛子という人物には少し強い言葉をぶつけないと流されてしまう。
「異常存在は理解できないから異常なんでしょ。不測の事態は起きるかも知れないし、予想外の敵がいるかも知れない。その可能性は瑛子さんなら分かってるでしょ」
「……どうしろっていうのよ。はっきり言って二人の戦闘力はREVOLVEの機動部隊より高いのよ。誰かがついて行ったところで」
「あの、草苅さん」
背後から声がかかる。水穂の声だ。
「ん、どしたの」
額の汗をぬぐいながら言う。水穂はぽかんとした顔で自分を見ている。
「え、草苅さん、だよね?」
「え、何の確認? 草苅だけど」
「いや、顔が」
「顔?」
そして己の顔に触れて、妙に大きいと気付く。ヘルメットでもかぶってるかのようだ。
そして口と舌の腫れが意識されて、喉や口腔全体にイガイガした感じが広がる。
「どうしたの?」
瑛子が出てきて、そしてやはり固まる。
「あの、なんか、いま私って変じゃないです? なんか顔が重たい、熱い、かゆいしピリピリするし」
「お母さん、まさか草苅さんに毒とか」
「まさか! いや、あ、もしかして草苅さん、あなたアレルギー持ちね?」
「アレルギー? いや別に何、も……」
立ちくらみを起こして、その場で倒れてしまう。
それから数分。居間に寝かせられた自分を意識する。大きな苦痛はないが、全身が熱を持っていて、強いだるさがある。
「草苅さん、大丈夫?」
「うん何とか……顔がでっかくなってない?」
「まあ多少ね、腫れちゃってる」
「あとで写真撮っといて……暇な時に見たいから」
「めちゃくちゃ余裕あるね」
瑛子は店の電話をかけた後、居間に来る。
「タツガシラの医療班をこっちに向かわせたわ。動画と写真付きで症状を説明したけど、向こうが判断する限りでは重症じゃなさそうね」
「マンゴーアレルギーってこんな感じになるんだね」
「いえ……私も医者じゃないから確かなことは言えないけど、普通はこんな急速に症状は出ないし、寝込むほどひどくなるのは稀なのよ。マンゴーはウルシ科だし、含まれるマンゴールは確かにアレルゲンだけど、おもに皮に含まれるからジュースだと影響は小さいはず……」
草苅の首のあたりに触れる。主に腫れているのは顔だけで首はさほどでもない。気道まで腫れれば呼吸困難に陥る可能性もあり、気管挿入も含めて応急処置を検討せねばならない。瑛子はひととおりの心得があるが、プロが間に合うなら任せるに越したことはない。
「……こんなに急に症状が出るのはアナフィラキシーかしら。だとしたら危険だけど、草苅さん食生活に気を使ってる感じじゃないし、アレルギーがあったなんて聞いたことないけど……」
仮にアレルギーでないとすれば何だろうか。急に顔が腫れるのは虫刺され、虫歯、おたふく風邪などが思い浮かぶ。
(……竜の天運)
それならば説明できるのだろうか。草苅という人物が持つ運の良さは、時に自分を病気にしてでも災難から遠ざけるのか。
とん、とん、と己のこめかみを突く。
「水穂、私の様子をよく観察して」
「え? うん」
「私はREVOLVEの根乃己支部長の枯滝瑛子、草苅真末に伝城資料館を調べるように指示した。伝城資料館とは根乃己の歴史が眠る場所。そこを調べることは太陽雨という存在を知るために助けになると思ったから」
「……」
「伝城資料館は異常存在、初見滝神社から行ける。訪れた者は案内人から一つだけ、何でも置いていって良いと告げられる。REVOLVEではその性質を利用し、封印が難しい異常存在を処理してきた。しかし文明圏崩壊級は処理していない。これまでに訪れたエージェントはすべて何事もなく帰還している。案内人が敵対したことは一度もない。水穂、ここまでで違和感はある?」
「ううん……何もないよ。どういうことなの?」
「私は伝城資料館を安全な場所と認識してる。それは嘘じゃないけど、私の認識が何らかの方法で歪められてる可能性がある。それを確かめてる」
瑛子は精神戦の訓練も積んでいる。自分が何らかの催眠や洗脳を受けていないか、異常存在によって認識を歪められていないか、瑛子が判断する限りは「無い」と結論される。
「……いいわ、私が行きましょう」
「え、お母さんが?」
「日を改めてもいいけど、何となく同じことになりそうな気がするわ。もし伝城資料館に危険があるというなら、誰かREVOLVEの職員が付いていくべきでしょう。生半可なエージェントに任せるよりは、私が行くべきね」
「だ、だめ」
布団から手がはい出して、瑛子のモモをつかむ。
「私がっ……私が行くんです。ピュリッツァー賞が待ってる……」
「草苅さん、今は寝なさい。ピュリッツァー賞だけが人生じゃないでしょ」
「じゃ、じゃあ、ベストジーニスト賞」
「それ同列なの?」
無理やり引き止めるほどの力は出ていない、瑛子はそっと手を外しながら立ち上がる。
「水穂、用意するから少し待ちなさい。私の分のお弁当も作らないとね」
「……ううん、私がお弁当作るよ、お母さんはREVOLVEの職員さんとのお話もあるでしょ?」
「そう? じゃあ任せるわ」
水穂が台所に消えて。
そして瑛子は、しばしその場で思考する。
(異常存在はなぜ生まれるのか)
(なぜ人は異常存在と出会うのか)
意味などない。
異常存在は偶発的に生まれる世界のバグであり、人類はそれに触れるべきではない。
封印し、拒絶する。そのためという前提の上でわずかに研究し、利用する。
それがREVOLVEの信念であり、世界が選んできた道。
(そうではない、という者もいた)
(異常存在とは神秘であり、救済である)
(人が進むべき、変革の路であると)
(かつての大工の息子や、苦行の果てに真理に到達した僧侶も……)
瑛子は頭を振る。
迷いだ、と感じる。
半休止状態とはいえ、REVOLVEはプロジェクト・ニライカナイのために動いている。その支部長の立場で考えることではない。
カスタネットの扉が開き、白衣の職員が3人ほど入ってくる。瑛子はそれを出迎え、支部長としての己を固定しようとする。
先ほどの想念は、意識の外に追い出す。
それも技術。己の感情すら支配する、人間の獲得してきた技術のひとつ――。
※
「水穂ー、おっそーい」
初見滝神社とは根乃己の南西にあり、屋根のない古い手水台が一つ、石の鳥居が一つ、古びた社殿が一つあるだけの神社である。木だけは立派なものが何本も立っており、境内全体に木陰を落としている。
その隙間からしとしとと雨が落ちている。さほど激しくないが、人払いには十分なほどの雨だ。
「あれ、瑛子おばさん?」
「草苅はアレルギーで倒れたの。私が代わりに来たわ」
「ふーん」
身を固めている水穂とは対照的に、太陽雨は今日も灰色のワンピース姿である。水穂は自分の服を貸すと言っているが、最初に着ていたワンピースで通している。寝るときだけは水穂のパジャマを着ていた。
「というより太陽雨、あなた異常存在の情報を持ってるみたいだけど、伝城資料館については知らないの?」
「うん知らない。不思議っちゃ不思議だよね。それについてはなんにも知らないみたい」
その答えを受け、瑛子は数秒だけ思考する。
(この子は雪縞の虎について知っていた。それなのに伝城資料館は知らない……)
(REVOLVEのデータベースにアクセスしてるのかとも思ったけど、そうではないのかしら)
(単に知ってることと知らないことがあるだけ……?)
しかし、そもそも太陽雨が本当のことを言っている証拠もない。あまり深く思考しても意味がないと判断する。
瑛子の格好はスキニーのジーンズに大ぶりなザック。バイザー型のサングラスをつけて足元は迷彩柄の安全靴を履いている。登山用の装備というより、何かの武装のようだ。
「じゃあ行くわよ。二人とも、行き方は調べたわね」
「うん」
社殿には賽銭箱があり、その奥に数段の階段と、大人ひとりが寝そべるのが精一杯ほどの狭い空間。瑛子はそこにブルーシートを敷き、三人があぐらを組んで座る。
「瞑想して五感を閉じるんだよね」
「そうよ、REVOLVEでは手っ取り早く薬物で行くけどね」
銃の形をした注射器を取り出し、それを首筋に当てる。
「あ、瑛子おばさん、そんなことしなくても」
聞く前に薬液を注入。数秒の酩酊と視界の揺れ。
目が覚めた時、そこは板の上である。
左右にはかなり離れた場所に手すりと、その上に擬宝珠と呼ばれる金色の球体。そこに渡される板材は長さが50メートルほどもあり、合板ではない。
とてつもなく巨大な木から採られた木材が無数に並び、要素をすべて複合すればここは橋である。百人が横一列に並んで歩けそうなほどの橋。板の下には水が流れる音がする。
「わーもー、心配になるよおばさん。そんなことしなくても水穂と私なら感覚を閉じるぐらいできるよ」
「……別に問題ないわ。REVOLVEが使っている薬剤だから安心よ。きっちり一分で目覚めたでしょ」
立ち上がり、三人で並んで歩く。
やがて現れるのは、和風の館。
生け垣があり、その奥に日本家屋が見える。生け垣の横幅は200メートルほどだろうか。この長さが縦横に適応されるとすれば、館の広さは4ヘクタールほどになる。奥には塔のような構造物がいくつもある。
そして、そのすべてに滝が振り注いでいる。
「うわすっご、建物が丸ごと滝の中にあるよ」
滝の奥ではない。文字通りすべてが滝の中にある。
敷地は升目状の樫の柱である。すのこ状の上に家屋が建っているのだ。生け垣も、茅葺きの屋根も、上がりかまちの石も途轍もない水量に打たれ続けている。上空を見ると灰色の空があり、水は遥かに天の高みから振り注いでいる。想像しうる最も激しい雨の3倍ほどの水量だろうか。
「これが、伝城資料館?」
「そうよ、REVOLVEができる前からあった異常存在」
「ある意味では、REVOLVEの役目を務めてきた場所……かもね」




