008 魔王、お忍びで来る
災厄竜が村の駕籠になって、七日目の朝。
リーフェ村の食堂に、一人の旅人が入ってきた。
上質だが飾り気のない黒い外套。長身。歳の頃は三十半ばに見える、彫りの深い偉丈夫。腰の剣は一見ただの旅装だが、目利きが見れば、鞘の拵えだけで城が買えると分かる代物だった。
「……芋煮を。噂を聞いてな」
「あいよ! 旅の人かい?」
「ああ。……千年ぶりの、な」
厨房の奥で、皿が三枚割れた。給仕を手伝っていたフェンリアが、顔面蒼白で柱の陰に隠れたのである。
(ままま、魔王様あああああ!? なぜここに!? しかも変装が雑ぅ! 「千年ぶりの旅」って自分で言っているし!)
旅人は、悠然と芋煮を一口すすった。眉が、ぴくりと動いた。
「…………ほう」
二口。三口。
「……なるほど。フェンリアが帰らぬわけだ」
◆ ◆ ◆
「――で。あの黒い旅人さん、いつ名乗るのかしらね」
村の広場。竜の背の緋色の座布団の上で、ユイは白湯をすすっていた。
傍らでザガンの片眼鏡が、粉々に砕けた(予備は七つある)。
「ゆゆゆユイ様、お気づきで!? あの魔力の隠し方、完璧です! 我が輩の演算でも『ただの人間』としか……!」
「隠し方は完璧よ。でもね、ザガン。歩き方までは隠せないの」
「歩き方?」
「あの御方、道の真ん中しか歩かないわ。人を避けるという発想が、体からごっそり抜けている。……千年、誰にも道を譲ったことがない歩き方よ。私、ああいう背中を嫌というほど見てきたの」
(……頭の中では『魔力遮蔽・神域級、解析不能』と出ているわ。でもね、そんなもの見なくても分かるのよ。この目は、四十八年、天下人の隣で養ったのだから)
ユイは白湯を置いた。
「相手が城から出てきてくれたのよ。こちらから挨拶に行くのが筋というものだわ。――ザガン、茶室の用意を。ないなら納屋でいいわ。畳二枚と、炉と、一輪の花があれば、そこが茶室よ」
◆ ◆ ◆
昼下がり。村はずれの納屋。
急ごしらえの茶室に、黒衣の旅人は招かれた。案内したのはセレナである。「うちの一番偉い者が、お目にかかりたいと」とだけ告げられて。
旅人が戸をくぐると、そこに赤ん坊が、ちょこんと座っていた。
「ようこそ。……といっても、この世界のお茶はまだ手に入らないの。白湯ですけれど、湯だけは竜の炎で沸かした一級品よ」
「…………赤子が点前とは。噂以上に、規格外の村だ」
旅人は、静かに座った。二人の間に、湯気だけが立ちのぼる。
「名乗らぬのか、私に」
「あら。お忍びの御方に名を尋ねるのは、無作法でしょう。……そちらこそ聞かないの? 『貴様が光の主か』とか『竜を従えた化け物め』とか」
「聞くまでもない。この部屋に入った瞬間から、貴様の魔力が余の全身に『動くな』と言っておる。……殺気は、ないがな」
「ええ、ないわ。だって私、あなたと戦う理由が一つもないもの」
旅人の眉が、初めて深く動いた。
「……ほう? 余は魔王だぞ。人類の敵。千年戦争の元凶。勇者ならば、余を討つのが役目であろう」
「私、勇者を引き受けた覚えはないの。皆が勝手に認定しただけよ。それにね――」
ユイは白湯を一口すすった。
「私、前の世で、天下を狙う男の隣に四十八年いたのよ。だから分かるの。あなた、戦がしたくて玉座にいる目ではないわ。あれは……終わらせ方が分からなくなった者の目よ」
納屋の空気が、凍った。
旅人は長い沈黙のあと、低く笑った。
「……くく。ははは。初対面の赤子に、千年隠してきた本音を言い当てられるとはな」
「図星?」
「……千年前、戦には理由があった。土地、資源、積年の恨み。だが皆死んだ。理由を知る者は、もはや余しか残っておらぬ。そして今や、人も魔族も『戦があるから戦っている』。余が停戦を口にすれば、余の首を欲する者が魔族から出るだけよ。――戦とは、始めるより終わらせるほうが難しい」
「ええ、知っているわ。応仁の乱なんて、終わり方を百年見失ったもの」
「おうにん?」
「こちらの話。……ねえ、魔王様。一つ、勝負をしない?」
ユイは、懐から折り畳んだ盤を取り出した。ザガンに作らせた木の盤。升目が刻まれ、駒が並んでいる。
魔王が得意とする戦の駒遊びをザガンから聞いていたのである(――言ってみれば将棋なのよ。私も散々父上や信長様とやっていたわ)
「あなたが勝ったら、私はあなたの退屈を晴らすため、一度だけ全力で手合わせしてあげる。派手なのがお望みなのでしょう?」
「……余が負ければ?」
「一年間、軍を動かさないこと。その間に私が――あなたの戦の『終わらせ方』を、見つけてみせるわ」
旅人は盤を見下ろし、それから赤ん坊を見た。金色に縁どられた瞳の奥で、千年ぶりに何かが疼いた。
「……面白い。受けよう」
◆ ◆ ◆
なお、対局が始まる直前、納屋の隅でミラが真っ青な顔をしていた。
「ユ、ユイさん、まさかとは思いますが……五番、使いませんよね?」
「五番?」
「【運命改変権限】です。……あれ、『こうなってほしい』と念じるだけで、結果が全部そうなる特典なんです。勝負ごとに使ったら、絶対に負けません。というか、この世界の因果が壊れます」
ユイは、ぴたりと手を止めた。それから、鼻で笑った。
「馬鹿を言わないで」
「え」
「そんなもので勝った将棋の、どこが面白いの。――駒を並べる前から勝ちが決まっている勝負なんて、それはもう勝負じゃないわ。政略結婚と同じよ」
彼女は、静かに駒を並べ直した。
「私はね、女神様。前の世で、生まれる前から行き先を決められた女なの。だからこそ、盤の上でくらい、自分の手で決めたいのよ。……あの特典、私は一生使わないかもしれないわね」
「……ユイさん」
「さ、始めましょうか。魔王様、お先にどうぞ」
◆ ◆ ◆
勝負は、三刻に及んだ。
魔王は強かった。千年、戦場で軍を動かしてきた男の指し筋は、正確で、重厚で、隙がない。ザガンの演算でも「悪手ゼロ」の完璧な布陣。
だが。
「――王手」
「……なに?」
「三十手前の、この歩。覚えている? あなた『ただの捨て駒』と読んで、無視したでしょう」
「……まさか、貴様、最初からこの一手のために」
「駒に、ただの駒なんて一枚もないのよ。人も、同じ。……それを忘れた大将から、負けていくの。私の父の教えよ」
ぱち、と最後の駒が置かれた。
魔王は盤を見つめ――そして天を仰いで笑った。心底から、愉快そうに。
「……ははは! 負けた! 千年で初めてだ、盤上で余に勝った者は! いや、盤の外でも初めてやもしれぬ!」
「では、約束よ。一年間、軍は動かさない」
「魔王に二言はない。……だが赤子よ、覚えておけ」
立ち上がった旅人は、戸口で振り返った。その一瞬だけ、隠していた魔力が漏れ、納屋の空気がびりびりと震えた。
「一年だ。一年で『終わらせ方』とやらを見せてみよ。できねば――次は盤上ではなく、戦場で余と指すことになるぞ」
「ええ、望むところよ。……ああ、それと魔王様」
ユイは、にっこり笑った。
「お土産に芋煮の作り方、持たせるわ。城の食事、千年変わり映えしないんですって? 兵は胃袋から離れていくわよ」
「…………心得ておこう」
魔王は、少しだけ笑って去った。
◆ ◆ ◆
その夜、柱の陰から一部始終を見守っていたフェンリアが、ようやく正気を取り戻した。
「し、心臓が保たん……魔王様と赤子が、納屋で将棋……なんなのだ、この村は……」
「フェンリア殿、いつも通り芋煮で回復してください。……それより師匠、本当に良いのですか? 一年で戦争の終わらせ方を見つけるなんて、そんな大それた約束」
セレナの問いに、ユイはクッションの中で、ふふ、と笑った。
「セレナ。大それてなんかいないわ。だって、もう三割は終わっているもの」
「え?」
「軍団長が二人、うちで就職。三傑が一人、うちに常駐。魔王本人が、芋煮の作り方を持って帰った。――戦争はね、兵を殺して終わらせるものじゃないの。敵と味方の境目を、ゆっくり溶かして終わらせるのよ」
赤ん坊は、星空を見上げた。美濃の山で見たのと、同じ星空を。
「見ていてくださいね、信長様。あなたが武で成そうとした天下静謐――私は、芋煮と将棋でやってみせますから」
◆ ◆ ◆
数百年後の歴史書には、こう記されている。
――聖母、魔王と一局を指し、これを降す。賭けたるは千年戦争そのものなり。人類史上、最も大きな賭け将棋である。
「賭け将棋と書かれると、途端に品がなくなるのよね」
歴史書というものは、いつだって少し大げさである。だが賭け金の大きさだけは、一文字も間違っていなかった。
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プロローグを含めて、全部で15話のお話しです。
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